嫌いだった課長と恋をするまで
第35話 課長の転勤話
電話の呼び出し音とキーボードを叩く音が重なる中、俺は取引先へ送る資料を確認していた。向かいの席では先輩の藤原さんが別の案件の見積書を眺めていて、課長は自分のデスクでパソコンを操作している。
そんなとき、内線電話が鳴り、課長が受話器を取ると、相手の話を聞きながら小さく頷き、やがて席を立った。
数分後、課長が戻ってきたときには手に一枚の封筒を持っていた。封筒の表には宛名とともに”人事部”と印刷されているのが、課長のデスクの横を通った俺にも見えた。俺は一瞬だけ目を向けたものの、すぐに自分の資料へ視線を戻す。人事部から届く封筒なら、俺が気にするような話じゃない。それなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残ってしまう。
「高橋、さっきの資料だけど、ここの数字を一度見てもらえるか?」
「はい。……ここですね」
「そう。先方に出す前に、念のため確認しておきたい」
「分かりました。五分ほどください」
藤原さんに呼ばれて資料へ向き直ったものの、頭の片隅にはさっきの封筒が頭をちらつく。数字を追えば追うほど集中できなくなって、自分でも嫌になる。
課長が東京本社から来た人間だということは知っている。東京へ戻る話が出ても、何も不思議ではない。それでも、人事部から封筒が届いたというだけで、嫌な予感が膨らんでいく。俺は資料の数字を一つずつ確認しながら、その考えを押し込めた。まだ何も分からない。課長が何を考えているのかも、封筒の中身も知らない。なのに、俺の頭の中では、”東京へ戻る”という可能性だけが勝手に大きくなっていた。
しばらくして、課長が封筒を開けている。俺は仕事を続けていたが、紙をめくる音がこちらまで届いてくる。営業部はそれほど広くない。課長の席と俺の席も、社員同士の会話が普通に聞こえる程度の距離にある。しかし、俺は顔を上げなかった。それでも、課長が一度息を吐いたことだけは分かった。少しして視線を上げると、課長は手元の書類をじっと見ている。表情は普段と変わらないように見えるが、書類を持つ指がわずかに止まっていた。
俺が見ていることに気づいたのか、課長が顔を上げる。目が合ったのは一瞬だった。課長はすぐに視線を外し、書類を封筒へ戻した。その仕草に、俺の胸がまたざわついた。
「高橋さん」
「はい」
「明日の午後ですが、先方との打ち合わせに同席してください」
「分かりました」
「それから、今日中にこの資料の確認をお願いします」
「了解です」
課長はそれだけ言って、また顔をパソコンへ向ける。仕事の指示に変わったところはない。俺の判断を頼りにしてくれていることも分かる。だからこそ、余計に聞きづらかった。
もし本当に東京へ戻る話だったとして、それを俺が聞いて何になる。課長には課長の仕事があり、俺には俺の仕事がある。上司の異動に部下が口を出す理由なんてない。
それでも、胸の奥には別の思いがあった。もし神戸からいなくなったら、俺はどうするんだ。同じ職場で顔を見ることも、仕事の合間に言葉を交わすこともなくなる。そう考えただけで、俺は自分が課長との今の距離をどれほど大切にしていたのかを思い知らされた。
「高橋、どうした?」
「え?」
「さっきから同じところ見てるぞ」
藤原さんの声で、俺は慌てて手元へ視線を落とした。開いていた資料の同じページを、いつの間にか何度も見ていたらしい。
「すみません。ちょっと考え事をしてました」
「珍しいな。お前が仕事中にぼんやりするなんて」
「そんなにぼんやりしてました?」
「してた。何かあるなら言ってみろ。俺でよければ聞くぞ」
藤原さんは、俺が高校時代の失恋を引きずっていたことを知っている。あの頃から俺が一番心を許している先輩で、あの失恋が俺の生活を変えたことも知っている。だから俺は、少し迷ってから口を開いた。
「課長が……東京に戻るんじゃないかって、ちょっと気になって」
「神谷課長が?」
「さっき人事部から封筒が来てたんです」
「それだけで決まったとは限らないだろ」
「分かってます」
「なら、今は仕事しろ。決まってもいないことを考えても、答えは出ないぞ」
「……そうですね」
藤原さんの言う通りだった。俺は苦笑して資料へ視線を戻す。課長のことを考えるのは、仕事が終わってからでもできる。そう思ってペンを握ったものの、さっき見た課長の表情が頭から離れない。
人事部から届いた書類を見て、あの人は何を思ったんだろう。東京へ戻りたいのか。それとも、神戸に残りたいのか。俺には何も分からない。その分からなさが、妙に怖かった。
定時を過ぎても、俺は残って仕事を続けた。藤原さんは先に帰り、営業部に残っている社員も少なくなっていた。課長は自分の仕事を進めていたが、七時前になるとパソコンを閉じた。俺も画面から顔を上げる。課長が書類をまとめている姿を見て、また先日までなら何も考えなかったことが気になってしまう。
最近は課長と二人で残業することも減っている。俺が好きだと自覚してから、仕事以外の言葉を交わすことを自分から避けていた。だから、帰る課長を呼び止める理由なんてない。それでも、彼女がこの会社からいなくなるかもしれないと思った途端、その距離が急に惜しくなった。
「高橋さん」
「はい」
「明日の資料、もう確認できましたか?」
「はい。問題ありません」
「そうですか。では、今日はもう大丈夫です」
「課長も帰るんですか?」
思わず口から出た言葉だった。課長の足が止まる。俺自身も、なぜそんなことを聞いたのか分からない。課長は少しだけ俺を見て、それから手元の書類へ視線を落とした。
「……今日は、少し用事がありますので」
「そうですか」
課長はそれ以上何も言わず、部署を出ていく。俺はその背中を見送りながら、机の上に残った仕事へ目を戻す。
聞けばよかったのかもしれない。東京へ戻る話があるのかと。だが、そんなことを聞けば、自分が課長の異動を気にしている理由まで伝わってしまいそうだった。俺は画面を見つめ、仕事へ戻ろうとした。それでも、頭の中から”東京”という言葉だけが消えてくれない。
翌朝、出社した俺は自分の席へ荷物を置く。課長はすでに来ていて、パソコンへ向かっていた。朝の挨拶を交わしたあと、俺は昨日の封筒について尋ねるべきか迷ってしまう。だが、声をかけるより先に課長がこちらを向いた。
「高橋さん」
「はい」
「少し、話があります」
課長はそう言うと、周囲を確認してから会議室へ向かう。俺も急いで後を追う。ガラス越しの窓から見える神戸の街は、朝の光に包まれていた。いつも通りの景色なのに、俺には妙に遠く感じられた。
会議室へ入り、机を挟んで向かい合った彼女の表情には、仕事の指示をするときとは違う緊張がある。
「高橋さん。昨日、本社から連絡がありました」
「……はい」
「東京への異動についてです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられ苦しくなる。
やっぱりそうだったのか。覚悟していたはずなのに、実際に聞くと苦しい。
俺が何も言えずにいると、課長もまた黙ったまま俺を見ている。その目には、いつもの上司としての落ち着きだけではないものが浮かんでいた。俺はまだ、その理由を知らなかった。
そんなとき、内線電話が鳴り、課長が受話器を取ると、相手の話を聞きながら小さく頷き、やがて席を立った。
数分後、課長が戻ってきたときには手に一枚の封筒を持っていた。封筒の表には宛名とともに”人事部”と印刷されているのが、課長のデスクの横を通った俺にも見えた。俺は一瞬だけ目を向けたものの、すぐに自分の資料へ視線を戻す。人事部から届く封筒なら、俺が気にするような話じゃない。それなのに、胸の奥には小さな引っかかりが残ってしまう。
「高橋、さっきの資料だけど、ここの数字を一度見てもらえるか?」
「はい。……ここですね」
「そう。先方に出す前に、念のため確認しておきたい」
「分かりました。五分ほどください」
藤原さんに呼ばれて資料へ向き直ったものの、頭の片隅にはさっきの封筒が頭をちらつく。数字を追えば追うほど集中できなくなって、自分でも嫌になる。
課長が東京本社から来た人間だということは知っている。東京へ戻る話が出ても、何も不思議ではない。それでも、人事部から封筒が届いたというだけで、嫌な予感が膨らんでいく。俺は資料の数字を一つずつ確認しながら、その考えを押し込めた。まだ何も分からない。課長が何を考えているのかも、封筒の中身も知らない。なのに、俺の頭の中では、”東京へ戻る”という可能性だけが勝手に大きくなっていた。
しばらくして、課長が封筒を開けている。俺は仕事を続けていたが、紙をめくる音がこちらまで届いてくる。営業部はそれほど広くない。課長の席と俺の席も、社員同士の会話が普通に聞こえる程度の距離にある。しかし、俺は顔を上げなかった。それでも、課長が一度息を吐いたことだけは分かった。少しして視線を上げると、課長は手元の書類をじっと見ている。表情は普段と変わらないように見えるが、書類を持つ指がわずかに止まっていた。
俺が見ていることに気づいたのか、課長が顔を上げる。目が合ったのは一瞬だった。課長はすぐに視線を外し、書類を封筒へ戻した。その仕草に、俺の胸がまたざわついた。
「高橋さん」
「はい」
「明日の午後ですが、先方との打ち合わせに同席してください」
「分かりました」
「それから、今日中にこの資料の確認をお願いします」
「了解です」
課長はそれだけ言って、また顔をパソコンへ向ける。仕事の指示に変わったところはない。俺の判断を頼りにしてくれていることも分かる。だからこそ、余計に聞きづらかった。
もし本当に東京へ戻る話だったとして、それを俺が聞いて何になる。課長には課長の仕事があり、俺には俺の仕事がある。上司の異動に部下が口を出す理由なんてない。
それでも、胸の奥には別の思いがあった。もし神戸からいなくなったら、俺はどうするんだ。同じ職場で顔を見ることも、仕事の合間に言葉を交わすこともなくなる。そう考えただけで、俺は自分が課長との今の距離をどれほど大切にしていたのかを思い知らされた。
「高橋、どうした?」
「え?」
「さっきから同じところ見てるぞ」
藤原さんの声で、俺は慌てて手元へ視線を落とした。開いていた資料の同じページを、いつの間にか何度も見ていたらしい。
「すみません。ちょっと考え事をしてました」
「珍しいな。お前が仕事中にぼんやりするなんて」
「そんなにぼんやりしてました?」
「してた。何かあるなら言ってみろ。俺でよければ聞くぞ」
藤原さんは、俺が高校時代の失恋を引きずっていたことを知っている。あの頃から俺が一番心を許している先輩で、あの失恋が俺の生活を変えたことも知っている。だから俺は、少し迷ってから口を開いた。
「課長が……東京に戻るんじゃないかって、ちょっと気になって」
「神谷課長が?」
「さっき人事部から封筒が来てたんです」
「それだけで決まったとは限らないだろ」
「分かってます」
「なら、今は仕事しろ。決まってもいないことを考えても、答えは出ないぞ」
「……そうですね」
藤原さんの言う通りだった。俺は苦笑して資料へ視線を戻す。課長のことを考えるのは、仕事が終わってからでもできる。そう思ってペンを握ったものの、さっき見た課長の表情が頭から離れない。
人事部から届いた書類を見て、あの人は何を思ったんだろう。東京へ戻りたいのか。それとも、神戸に残りたいのか。俺には何も分からない。その分からなさが、妙に怖かった。
定時を過ぎても、俺は残って仕事を続けた。藤原さんは先に帰り、営業部に残っている社員も少なくなっていた。課長は自分の仕事を進めていたが、七時前になるとパソコンを閉じた。俺も画面から顔を上げる。課長が書類をまとめている姿を見て、また先日までなら何も考えなかったことが気になってしまう。
最近は課長と二人で残業することも減っている。俺が好きだと自覚してから、仕事以外の言葉を交わすことを自分から避けていた。だから、帰る課長を呼び止める理由なんてない。それでも、彼女がこの会社からいなくなるかもしれないと思った途端、その距離が急に惜しくなった。
「高橋さん」
「はい」
「明日の資料、もう確認できましたか?」
「はい。問題ありません」
「そうですか。では、今日はもう大丈夫です」
「課長も帰るんですか?」
思わず口から出た言葉だった。課長の足が止まる。俺自身も、なぜそんなことを聞いたのか分からない。課長は少しだけ俺を見て、それから手元の書類へ視線を落とした。
「……今日は、少し用事がありますので」
「そうですか」
課長はそれ以上何も言わず、部署を出ていく。俺はその背中を見送りながら、机の上に残った仕事へ目を戻す。
聞けばよかったのかもしれない。東京へ戻る話があるのかと。だが、そんなことを聞けば、自分が課長の異動を気にしている理由まで伝わってしまいそうだった。俺は画面を見つめ、仕事へ戻ろうとした。それでも、頭の中から”東京”という言葉だけが消えてくれない。
翌朝、出社した俺は自分の席へ荷物を置く。課長はすでに来ていて、パソコンへ向かっていた。朝の挨拶を交わしたあと、俺は昨日の封筒について尋ねるべきか迷ってしまう。だが、声をかけるより先に課長がこちらを向いた。
「高橋さん」
「はい」
「少し、話があります」
課長はそう言うと、周囲を確認してから会議室へ向かう。俺も急いで後を追う。ガラス越しの窓から見える神戸の街は、朝の光に包まれていた。いつも通りの景色なのに、俺には妙に遠く感じられた。
会議室へ入り、机を挟んで向かい合った彼女の表情には、仕事の指示をするときとは違う緊張がある。
「高橋さん。昨日、本社から連絡がありました」
「……はい」
「東京への異動についてです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられ苦しくなる。
やっぱりそうだったのか。覚悟していたはずなのに、実際に聞くと苦しい。
俺が何も言えずにいると、課長もまた黙ったまま俺を見ている。その目には、いつもの上司としての落ち着きだけではないものが浮かんでいた。俺はまだ、その理由を知らなかった。