嫌いだった課長と恋をするまで
第38話 それでも、好きだった
神谷課長に「ごめんなさい」と言われてから、十日が過ぎた。俺は仕事を休むこともなかったし、露骨に落ち込んだ態度を見せることもしなかった。
朝になれば会社へ行き、いつものようにメールを確認し、取引先へ連絡を入れ、必要な資料を作る。課長から仕事の指示を受ければ「分かりました」と返し、俺から確認が必要なら普通に声をかける。
周りから見れば、何も変わっていないように見えたと思う。でも、自分の中では確実に何かが変わっていた。課長の姿が視界に入るだけで胸が少し痛む。以前なら、その痛みを消そうとしていたかもしれない。今は消せないものとして、そのまま抱えていた。好きな人に振られた。それだけのことなのに、こんなにも仕事の合間に思い出すものなのかと、自分でも少し驚いていた。
「高橋、ちょっといいか」
昼休みが終わったころ、藤原さんに声をかけられた。俺が入社してからずっと世話になっている先輩で、俺が高校時代からの彼女と別れてからどうなったのかも知っている。食べる量が増え、運動をしなくなって、体重がどんどん増えていった時期も見てきた人だ。だから、俺は藤原さんの前では変に格好をつけなくていい間柄だ。
「何ですか?」
「最近、少し変だろ」
「そうですか?」
「俺にまで普通の顔をしなくていい」
図星だった。
「……振られました」
「そっか。課長に?」
「はい」
「まだ好きか?」
「好きです」
答えるまで、ほとんど迷わなかった。藤原さんはしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「だったら、今すぐ忘れようとする必要はないんじゃないか」
「でも、相手には断られてます」
「そうだな」
「だったら、諦めるべきじゃないですか」
「誰が決めるんだ? 誰が決めたんだ? 相手が付き合わないと決めるのは、相手の自由だ。でも、お前が好きな気持ちまで、相手が決めることじゃないだろ」
その言葉を聞いて、俺は黙り込んでしまう。
俺は里奈に選ばれなかったことを、自分自身が否定されたように感じていた。あのときから、自分には価値がないと思い込み、食べることに逃げた。自分を大事にすることもやめた。誰かに選ばれなければ意味がないと思っていた。でも今は違う。課長が俺を選ばなかった。それは事実だ。でも、それによって俺自身の価値まで決まるわけじゃない。そこまで考えたところで、胸の奥にあった痛みが少しだけ形を変えた。
「俺、昔とは違うんでしょうか」
「さぁなぁ。俺はお前じゃないから分からん。ただ、昔のお前なら、振られた瞬間に自分まで否定してたんじゃないか」
「……そうかもしれません」
「今はどうだ?」
俺はすぐには答えられず、ただ黙るしかなかった。
その日の仕事を終えるころには、少しだけ自分の中で整理できていた。
課長に好きだと言ったこと。
課長が俺を選ばなかったこと。
それでも俺が課長を好きだと思っていること。
その三つは、全部別のものとして考えていいのだと、ようやく分かり始めていたからだ。以前の俺なら、誰かに選ばれなかった瞬間、自分まで価値のない人間になったように感じていただろう。でも今は、相手の気持ちと自分自身の価値を同じ場所に置かなくてもいい。課長には課長の気持ちがあり、俺には俺の気持ちがある。その違いを受け入れることが、今の俺には必要なのだと理解できてきた。
退社時間になり、エレベーターを降り、会社の入口へ向かう。外へ出ると、夜の神戸の街に仕事帰りの人たちが流れていた。駅へ向かおうとしたところで、後ろから声がした。
「高橋さん」
振り返ると課長が立っている。
「今、帰りますか?」
「はい」
「……私も駅まで行きます」
「分かりました」
二人で歩き始める。以前なら、この時間は少し嬉しかった。仕事の話をしたり、どうでもいいことを話したりしながら駅へ向かう。それだけの時間が、俺には特別だった。今は隣を歩いているだけで胸が苦しい。それでも、俺は歩く速度を変えなかった。
「高橋さん。この前のことですが」
「はい」
「本当に、ごめんなさい」
また、その言葉だった。
「もう謝らなくていいですよ」
「でも……」
「課長が悪いことをしたわけじゃありません」
「……」
「俺が好きになって、俺が告白した。それに課長が答えてくれただけです。俺は、ちゃんと振られたって分かってます」
「高橋さん……」
「だから、課長に気を遣ってほしくないです。俺だって、すぐには平気になれませんけど」
そこまで言ってから、俺は少し笑いかける。
「はい」
「そのうち、ちゃんと普通に戻ります」
駅へ向かう人の流れの中で、俺たちは少しだけ距離を空けて歩いていた。その距離が、今の俺たちには必要なのだと思った。近づきすぎれば、課長を困らせる。離れすぎれば、仕事までぎこちなくなる。その間で、俺たちはこれからの関係を作っていかなければならない。
「高橋さん。これからも、仕事では頼らせてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
「それに、俺も課長を頼ります」
「……はい」
課長が小さく笑うが、その顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた痛みがまた強くなってくる。それでも、不思議と嫌ではなかった。
好きな人が笑っている。そのことを嬉しいと思える自分がいる。恋人になれなくても、課長を大切に思う気持ちまで消えてしまうわけではないのだと、俺はその瞬間に改めて理解することができた。
駅の入口が見えてくると、俺たちは自然に歩く速度を落とす。ここで別れるのだと分かっているのに、以前のように「また明日」と軽く言うことさえ、今は少し難しい。それでも、俺は課長の顔を見て頭を下げた。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした、高橋さん」
課長と別れて一人で駅へ向かいながら、俺は自分の胸の中を確かめていた。振られたことは苦しい。課長が俺を選んでくれなかったことも、簡単に受け入れられるわけではない。それでも、だからといって自分まで否定する必要はないし、好きになったことまで間違いにする必要もない。
俺はようやく、相手に選ばれることと、自分が誰かを好きになることは別のものなのだと理解できた。課長には課長の答えがある。その答えを変えることは俺にはできない。でも、自分がこれからどんなふうに生きるのかまで、課長の答えに預ける必要はない。
俺は、誰かに選ばれなかったことで、自分自身まで見捨てた。食べることで寂しさを紛らわせ、身体を動かすこともやめて、自分なんてどうでもいいと思うようになった。
でも、もう同じことはしない。九十キロを超えた今の自分を、格好悪いからという理由で嫌いになるつもりもない。
課長に振り向いてもらうために別人になる必要もない。
好きな人に好きだと言えたことも、断られてもその人を大切に思えることも、全部今の俺自身が選んだことだ。
その気持ちを抱えながら、仕事をして、誰かに頼られたら手を貸して、自分が苦しいときには誰かを頼る。そんな当たり前のことを、これからは自分にも許してやろうと思い始めていた。
駅の階段を上りながら、俺は一度だけ振り返るも課長の姿はもう見えない。それでも、胸の中にはまだ彼女がいる。振られたからといって、その気持ちを無理に消す必要はない。いつか変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。それは今の俺には分からない。
ただ、もう一つだけ確かなことがある。俺は神谷美月を好きになった。その気持ちは、課長に選ばれなかったことで否定されるものではない。そして俺自身もまた、誰かに選ばれるかどうかだけで価値が決まる人間ではない。そう思えるようになったことが、今の俺にとっては何より大きかった。
俺は人の流れに合わせて車内へ入り、空いた席に座る。窓に映った自分の顔を見ながら、俺は小さく息を吐く。
まだ胸は痛い。
それでも、以前のように自分から逃げたいとは思わなかった。好きな人に振られた俺も、九十キロを超えた俺も、仕事で誰かを支える俺も、全部同じ自分だ。だから、これからはその全部を抱えたまま、自分の足で歩いていく。
課長に恋人として選ばれなかった。
それでも、俺は俺自身を選ぶ。
その答えを胸に、電車は神戸の夜を走り出す。
朝になれば会社へ行き、いつものようにメールを確認し、取引先へ連絡を入れ、必要な資料を作る。課長から仕事の指示を受ければ「分かりました」と返し、俺から確認が必要なら普通に声をかける。
周りから見れば、何も変わっていないように見えたと思う。でも、自分の中では確実に何かが変わっていた。課長の姿が視界に入るだけで胸が少し痛む。以前なら、その痛みを消そうとしていたかもしれない。今は消せないものとして、そのまま抱えていた。好きな人に振られた。それだけのことなのに、こんなにも仕事の合間に思い出すものなのかと、自分でも少し驚いていた。
「高橋、ちょっといいか」
昼休みが終わったころ、藤原さんに声をかけられた。俺が入社してからずっと世話になっている先輩で、俺が高校時代からの彼女と別れてからどうなったのかも知っている。食べる量が増え、運動をしなくなって、体重がどんどん増えていった時期も見てきた人だ。だから、俺は藤原さんの前では変に格好をつけなくていい間柄だ。
「何ですか?」
「最近、少し変だろ」
「そうですか?」
「俺にまで普通の顔をしなくていい」
図星だった。
「……振られました」
「そっか。課長に?」
「はい」
「まだ好きか?」
「好きです」
答えるまで、ほとんど迷わなかった。藤原さんはしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「だったら、今すぐ忘れようとする必要はないんじゃないか」
「でも、相手には断られてます」
「そうだな」
「だったら、諦めるべきじゃないですか」
「誰が決めるんだ? 誰が決めたんだ? 相手が付き合わないと決めるのは、相手の自由だ。でも、お前が好きな気持ちまで、相手が決めることじゃないだろ」
その言葉を聞いて、俺は黙り込んでしまう。
俺は里奈に選ばれなかったことを、自分自身が否定されたように感じていた。あのときから、自分には価値がないと思い込み、食べることに逃げた。自分を大事にすることもやめた。誰かに選ばれなければ意味がないと思っていた。でも今は違う。課長が俺を選ばなかった。それは事実だ。でも、それによって俺自身の価値まで決まるわけじゃない。そこまで考えたところで、胸の奥にあった痛みが少しだけ形を変えた。
「俺、昔とは違うんでしょうか」
「さぁなぁ。俺はお前じゃないから分からん。ただ、昔のお前なら、振られた瞬間に自分まで否定してたんじゃないか」
「……そうかもしれません」
「今はどうだ?」
俺はすぐには答えられず、ただ黙るしかなかった。
その日の仕事を終えるころには、少しだけ自分の中で整理できていた。
課長に好きだと言ったこと。
課長が俺を選ばなかったこと。
それでも俺が課長を好きだと思っていること。
その三つは、全部別のものとして考えていいのだと、ようやく分かり始めていたからだ。以前の俺なら、誰かに選ばれなかった瞬間、自分まで価値のない人間になったように感じていただろう。でも今は、相手の気持ちと自分自身の価値を同じ場所に置かなくてもいい。課長には課長の気持ちがあり、俺には俺の気持ちがある。その違いを受け入れることが、今の俺には必要なのだと理解できてきた。
退社時間になり、エレベーターを降り、会社の入口へ向かう。外へ出ると、夜の神戸の街に仕事帰りの人たちが流れていた。駅へ向かおうとしたところで、後ろから声がした。
「高橋さん」
振り返ると課長が立っている。
「今、帰りますか?」
「はい」
「……私も駅まで行きます」
「分かりました」
二人で歩き始める。以前なら、この時間は少し嬉しかった。仕事の話をしたり、どうでもいいことを話したりしながら駅へ向かう。それだけの時間が、俺には特別だった。今は隣を歩いているだけで胸が苦しい。それでも、俺は歩く速度を変えなかった。
「高橋さん。この前のことですが」
「はい」
「本当に、ごめんなさい」
また、その言葉だった。
「もう謝らなくていいですよ」
「でも……」
「課長が悪いことをしたわけじゃありません」
「……」
「俺が好きになって、俺が告白した。それに課長が答えてくれただけです。俺は、ちゃんと振られたって分かってます」
「高橋さん……」
「だから、課長に気を遣ってほしくないです。俺だって、すぐには平気になれませんけど」
そこまで言ってから、俺は少し笑いかける。
「はい」
「そのうち、ちゃんと普通に戻ります」
駅へ向かう人の流れの中で、俺たちは少しだけ距離を空けて歩いていた。その距離が、今の俺たちには必要なのだと思った。近づきすぎれば、課長を困らせる。離れすぎれば、仕事までぎこちなくなる。その間で、俺たちはこれからの関係を作っていかなければならない。
「高橋さん。これからも、仕事では頼らせてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
「それに、俺も課長を頼ります」
「……はい」
課長が小さく笑うが、その顔を見た瞬間、胸の奥に残っていた痛みがまた強くなってくる。それでも、不思議と嫌ではなかった。
好きな人が笑っている。そのことを嬉しいと思える自分がいる。恋人になれなくても、課長を大切に思う気持ちまで消えてしまうわけではないのだと、俺はその瞬間に改めて理解することができた。
駅の入口が見えてくると、俺たちは自然に歩く速度を落とす。ここで別れるのだと分かっているのに、以前のように「また明日」と軽く言うことさえ、今は少し難しい。それでも、俺は課長の顔を見て頭を下げた。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした、高橋さん」
課長と別れて一人で駅へ向かいながら、俺は自分の胸の中を確かめていた。振られたことは苦しい。課長が俺を選んでくれなかったことも、簡単に受け入れられるわけではない。それでも、だからといって自分まで否定する必要はないし、好きになったことまで間違いにする必要もない。
俺はようやく、相手に選ばれることと、自分が誰かを好きになることは別のものなのだと理解できた。課長には課長の答えがある。その答えを変えることは俺にはできない。でも、自分がこれからどんなふうに生きるのかまで、課長の答えに預ける必要はない。
俺は、誰かに選ばれなかったことで、自分自身まで見捨てた。食べることで寂しさを紛らわせ、身体を動かすこともやめて、自分なんてどうでもいいと思うようになった。
でも、もう同じことはしない。九十キロを超えた今の自分を、格好悪いからという理由で嫌いになるつもりもない。
課長に振り向いてもらうために別人になる必要もない。
好きな人に好きだと言えたことも、断られてもその人を大切に思えることも、全部今の俺自身が選んだことだ。
その気持ちを抱えながら、仕事をして、誰かに頼られたら手を貸して、自分が苦しいときには誰かを頼る。そんな当たり前のことを、これからは自分にも許してやろうと思い始めていた。
駅の階段を上りながら、俺は一度だけ振り返るも課長の姿はもう見えない。それでも、胸の中にはまだ彼女がいる。振られたからといって、その気持ちを無理に消す必要はない。いつか変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。それは今の俺には分からない。
ただ、もう一つだけ確かなことがある。俺は神谷美月を好きになった。その気持ちは、課長に選ばれなかったことで否定されるものではない。そして俺自身もまた、誰かに選ばれるかどうかだけで価値が決まる人間ではない。そう思えるようになったことが、今の俺にとっては何より大きかった。
俺は人の流れに合わせて車内へ入り、空いた席に座る。窓に映った自分の顔を見ながら、俺は小さく息を吐く。
まだ胸は痛い。
それでも、以前のように自分から逃げたいとは思わなかった。好きな人に振られた俺も、九十キロを超えた俺も、仕事で誰かを支える俺も、全部同じ自分だ。だから、これからはその全部を抱えたまま、自分の足で歩いていく。
課長に恋人として選ばれなかった。
それでも、俺は俺自身を選ぶ。
その答えを胸に、電車は神戸の夜を走り出す。