嫌いだった課長と恋をするまで
第37話 ごめんなさい
翌朝、会社へ向かう電車の中で、俺は昨日のことを何度も思い返していた。神谷課長に、自分の気持ちを伝えた。「俺は、課長が好きです」と逃げずに言った。あれだけ言葉にするまで迷っていたのに、告白してしまった今は、妙なほど頭の中が静かだった。
もちろん、怖い。今日、課長と顔を合わせたときに、どんな表情をすればいいのか分からない。仕事では今まで通りにしなければならないし、課長も俺も、これまでと同じ職場で働いていく。それでも、昨日の言葉をなかったことにはできない。
俺は窓の外を眺めながら、まだ何も決まっていないことを考えていた。課長から答えをもらったわけではない。だから、今の時点で勝手に喜んだり落ち込んだりするのは違う。そう自分に言い聞かせながら、いつもの駅で電車を降りた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはよう」
会社に着くと、小川がいつもの調子で声をかけてくるので、俺も普段と同じように返した。自分では普通にしているつもりだったが、胸の奥には昨夜からずっと落ち着かないものが残っている。
席に座ってパソコンを立ち上げ、届いていたメールを確認する。今日の予定を見れば、午前中に取引先との打ち合わせが一件、午後には資料の確認が入っている。やることは明確だった。仕事をして余計なことを考えないようにしよう。そう思って資料を開いたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「高橋さん」
「はい」
振り返ると、課長が立っており、目が合った瞬間、心臓がドキドキと早鐘のようになってしまう。
「少し、時間をもらえますか」
「分かりました」
俺は立ち上がり、昨日と同じように、課長のあとを歩く。会議室へ入ると、課長が先に椅子へ座り、俺も向かい側に腰を下ろした。
扉が閉まると、外から聞こえていた電話の音や社員の話し声が遠くなる。課長はすぐには話さない。両手を机の上に置き、何度か息を整えている。その様子を見ているうちに、俺の中にも少しずつ覚悟が生まれてきた。昨日、俺は自分の気持ちを伝えた。今日は課長が答える番だ。どんな答えでも、俺は聞かなければならない。
「昨日のことですが……。高橋さんが言ってくれたことを、ずっと考えていました。私のことを、そんなふうに思ってくれていたんですね」
「……はい」
「正直に言ってくれて、ありがとうございます」
俺は黙って課長を見る。ここで何か期待してしまえば、あとで自分が苦しくなる。そう分かっていたから、余計なことは言わなかった。課長も俺の反応を確認するように一度だけ視線を上げ、それからゆっくりと言葉を続けた。
「私も、高橋さんのことを考えました」
「……」
「仕事ができる人だと思っています。困っている人がいれば自然に手を貸せる人だとも思っています。それに、私自身も、高橋さんに助けてもらったことが何度もあります」
「ありがとうございます」
「だからこそ、簡単に答えを出したくありませんでした」
その言葉を聞いたとき、俺は胸の奥で何かが沈んでいくのを感じた。課長がここまで言葉を選んでいる理由が、少しずつ分かってしまったからだ。それでも、最後まで聞くしかない。俺は黙ったまま、課長の次の言葉を待った。
「高橋さん」
「はい」
「ごめんなさい」
胸の奥に、鋭い痛みが走る。
課長は俺から目を逸らさなかった。
「高橋さんの気持ちには、応えられません」
思っていたより、ずっと苦しかった。昨日の時点では、断られる可能性も当然考えていた。課長は俺の上司だ。俺は部下だ。仕事の関係を考えれば、簡単に付き合える状況じゃない。それでも、実際に本人の口から「応えられません」と聞くと、頭で考えていたときとは全然違った。胸の奥が重くなり、息をするたびにそこが痛む。俺は何か返さなければと思ったが、すぐには言葉が出てこなかった。
「……分かりました」
やっと出てきた声は、自分で思っていたより普通だった。
「本当に、ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
「でも……」
「課長が悪いわけじゃありませんから」
俺はそう言った。言葉にしてみると、少しだけ現実を受け入れられる気がした。俺は自分の気持ちを伝え、課長はそれを聞いて、自分の気持ちを答えた。それだけのことだ。好きになったからといって、相手も同じ気持ちになるとは限らない。それは分かっていたはずだった。
「私は、高橋さんとの仕事を大事にしたいと思っています」
「はい」
「だから、これからも今まで通りに……」
「それは俺も同じです。仕事まで変えるつもりはありません」
「高橋さん……」
「俺が勝手に好きになっただけです。課長に何かを変えてほしいわけじゃありません」
本当は、そんなに簡単な話ではない。顔を合わせれば意識するだろうし、今まで通りに話せるかも分からない。それでも、課長に気を遣わせたくなかった。俺が告白したことで、課長まで苦しむ必要はないと思った。
「ありがとうございます」
「俺のほうこそ、聞いてくれてありがとうございました」
会議室の中に、また沈黙が落ちる。昨日までは、この沈黙を二人で過ごすことが嫌じゃなかった。今は同じ場所にいるだけで、胸が苦しい。課長の顔を見ていると、まだ何かを期待してしまいそうになる。それが嫌で、俺は視線を机へ落とした。
「高橋さん。昨日、あんなふうに言ってくれたことを、私は迷惑だとは思っていません」
「……そうですか」
「はい」
「それなら、よかったです」
それ以上は、何を言っても仕方がない。これ以上ここにいると、自分の気持ちが崩れてしまいそうで、俺は椅子から立ち上がる。課長に何かを言ってほしいわけでもなく、慰めてほしいわけでもない。今はただ、この場を離れたかっただけだった。
「仕事に戻ります」
「分かりました」
「高橋さん」
呼び止められて、俺は振り返ると課長は何か言おうと口を開きかけている。でも、結局その先の言葉は出てこなかった。
「……いえ。何でもありません」
「はい」
自分の席へ戻ると、朝から開いたままの資料が画面に映っていた。文字は読める。数字も確認できる。仕事をするための頭は、まだ動いている。それなのに、胸の奥だけが置いていかれたようだ。
俺は椅子に座り、資料へ目を向ける。周囲ではいつものように電話が鳴り、社員が行き来している。何も変わっていない。変わったのは俺のほうだ。昨日、自分の気持ちを口にした。そして今日、その気持ちに答えが返ってきた。
「高橋さん、これ確認お願いできますか」
「分かった」
小川から資料を受け取り、俺は画面へ視線を戻す。そうだ、仕事をしなければならないのだ。
ただ、パソコンの画面を見つめながら、俺は何度も同じ言葉を思い出していた。
『ごめんなさい』
その言葉が胸に残ったまま、時間だけが過ぎていく。
そして俺はまだ知らなかった。この告白のあと、自分が何を選ぶことになるのかを。
もちろん、怖い。今日、課長と顔を合わせたときに、どんな表情をすればいいのか分からない。仕事では今まで通りにしなければならないし、課長も俺も、これまでと同じ職場で働いていく。それでも、昨日の言葉をなかったことにはできない。
俺は窓の外を眺めながら、まだ何も決まっていないことを考えていた。課長から答えをもらったわけではない。だから、今の時点で勝手に喜んだり落ち込んだりするのは違う。そう自分に言い聞かせながら、いつもの駅で電車を降りた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはよう」
会社に着くと、小川がいつもの調子で声をかけてくるので、俺も普段と同じように返した。自分では普通にしているつもりだったが、胸の奥には昨夜からずっと落ち着かないものが残っている。
席に座ってパソコンを立ち上げ、届いていたメールを確認する。今日の予定を見れば、午前中に取引先との打ち合わせが一件、午後には資料の確認が入っている。やることは明確だった。仕事をして余計なことを考えないようにしよう。そう思って資料を開いたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「高橋さん」
「はい」
振り返ると、課長が立っており、目が合った瞬間、心臓がドキドキと早鐘のようになってしまう。
「少し、時間をもらえますか」
「分かりました」
俺は立ち上がり、昨日と同じように、課長のあとを歩く。会議室へ入ると、課長が先に椅子へ座り、俺も向かい側に腰を下ろした。
扉が閉まると、外から聞こえていた電話の音や社員の話し声が遠くなる。課長はすぐには話さない。両手を机の上に置き、何度か息を整えている。その様子を見ているうちに、俺の中にも少しずつ覚悟が生まれてきた。昨日、俺は自分の気持ちを伝えた。今日は課長が答える番だ。どんな答えでも、俺は聞かなければならない。
「昨日のことですが……。高橋さんが言ってくれたことを、ずっと考えていました。私のことを、そんなふうに思ってくれていたんですね」
「……はい」
「正直に言ってくれて、ありがとうございます」
俺は黙って課長を見る。ここで何か期待してしまえば、あとで自分が苦しくなる。そう分かっていたから、余計なことは言わなかった。課長も俺の反応を確認するように一度だけ視線を上げ、それからゆっくりと言葉を続けた。
「私も、高橋さんのことを考えました」
「……」
「仕事ができる人だと思っています。困っている人がいれば自然に手を貸せる人だとも思っています。それに、私自身も、高橋さんに助けてもらったことが何度もあります」
「ありがとうございます」
「だからこそ、簡単に答えを出したくありませんでした」
その言葉を聞いたとき、俺は胸の奥で何かが沈んでいくのを感じた。課長がここまで言葉を選んでいる理由が、少しずつ分かってしまったからだ。それでも、最後まで聞くしかない。俺は黙ったまま、課長の次の言葉を待った。
「高橋さん」
「はい」
「ごめんなさい」
胸の奥に、鋭い痛みが走る。
課長は俺から目を逸らさなかった。
「高橋さんの気持ちには、応えられません」
思っていたより、ずっと苦しかった。昨日の時点では、断られる可能性も当然考えていた。課長は俺の上司だ。俺は部下だ。仕事の関係を考えれば、簡単に付き合える状況じゃない。それでも、実際に本人の口から「応えられません」と聞くと、頭で考えていたときとは全然違った。胸の奥が重くなり、息をするたびにそこが痛む。俺は何か返さなければと思ったが、すぐには言葉が出てこなかった。
「……分かりました」
やっと出てきた声は、自分で思っていたより普通だった。
「本当に、ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
「でも……」
「課長が悪いわけじゃありませんから」
俺はそう言った。言葉にしてみると、少しだけ現実を受け入れられる気がした。俺は自分の気持ちを伝え、課長はそれを聞いて、自分の気持ちを答えた。それだけのことだ。好きになったからといって、相手も同じ気持ちになるとは限らない。それは分かっていたはずだった。
「私は、高橋さんとの仕事を大事にしたいと思っています」
「はい」
「だから、これからも今まで通りに……」
「それは俺も同じです。仕事まで変えるつもりはありません」
「高橋さん……」
「俺が勝手に好きになっただけです。課長に何かを変えてほしいわけじゃありません」
本当は、そんなに簡単な話ではない。顔を合わせれば意識するだろうし、今まで通りに話せるかも分からない。それでも、課長に気を遣わせたくなかった。俺が告白したことで、課長まで苦しむ必要はないと思った。
「ありがとうございます」
「俺のほうこそ、聞いてくれてありがとうございました」
会議室の中に、また沈黙が落ちる。昨日までは、この沈黙を二人で過ごすことが嫌じゃなかった。今は同じ場所にいるだけで、胸が苦しい。課長の顔を見ていると、まだ何かを期待してしまいそうになる。それが嫌で、俺は視線を机へ落とした。
「高橋さん。昨日、あんなふうに言ってくれたことを、私は迷惑だとは思っていません」
「……そうですか」
「はい」
「それなら、よかったです」
それ以上は、何を言っても仕方がない。これ以上ここにいると、自分の気持ちが崩れてしまいそうで、俺は椅子から立ち上がる。課長に何かを言ってほしいわけでもなく、慰めてほしいわけでもない。今はただ、この場を離れたかっただけだった。
「仕事に戻ります」
「分かりました」
「高橋さん」
呼び止められて、俺は振り返ると課長は何か言おうと口を開きかけている。でも、結局その先の言葉は出てこなかった。
「……いえ。何でもありません」
「はい」
自分の席へ戻ると、朝から開いたままの資料が画面に映っていた。文字は読める。数字も確認できる。仕事をするための頭は、まだ動いている。それなのに、胸の奥だけが置いていかれたようだ。
俺は椅子に座り、資料へ目を向ける。周囲ではいつものように電話が鳴り、社員が行き来している。何も変わっていない。変わったのは俺のほうだ。昨日、自分の気持ちを口にした。そして今日、その気持ちに答えが返ってきた。
「高橋さん、これ確認お願いできますか」
「分かった」
小川から資料を受け取り、俺は画面へ視線を戻す。そうだ、仕事をしなければならないのだ。
ただ、パソコンの画面を見つめながら、俺は何度も同じ言葉を思い出していた。
『ごめんなさい』
その言葉が胸に残ったまま、時間だけが過ぎていく。
そして俺はまだ知らなかった。この告白のあと、自分が何を選ぶことになるのかを。