嫌いだった課長と恋をするまで
第04話 仕事しか見ない女
午前十時を少し過ぎた頃、取引先から一本の電話が入った。担当者の小川が受話器を置いたあと、困ったような顔で俺の席までやってくる。どうやら先方から提出した資料について問い合わせがあったらしい。
内容を聞くと、資料に記載した数字そのものではなく、数字の根拠について説明を求められているという。小川が悪いわけではない。資料を作った段階では、そこまで説明を求められるとは想定していなかったからだ。
それでも先方を待たせるわけにはいかない。俺は小川から資料を受け取り、該当するページを開くと、そのやり取りを少し離れた場所で見ていた神谷課長がこちらへ歩いてきた。俺は反射的に身構えた。何を言われるのかと思ったが、課長は俺の手元を覗き込んだだけだった。
「高橋さん、先方は何を確認したいと言っていますか?」
「数字の根拠です。資料に載せた結果だけじゃなくて、どういう条件でこの数字になったのか説明してほしいらしいです」
「今ここで回答できますか?」
「確認すればできます。ただ、元データを見ないと正確には答えられません」
「では、確認してから返しましょう。小川さん、先方には『確認のうえ、本日中に回答します』と伝えてください」
「はい」
「高橋さんは元データを確認してもらえますか?」
「分かりました」
「私も確認します」
俺は思わず課長の顔を見てしまった。こういうとき、自分だけで処理してしまう上司もいる。
だが課長は、小川に伝える仕事と俺が確認する仕事を分けたうえで、自分も内容を見ると言った。仕事の進め方としては無駄がない。ただ、それを認めるのは少し悔しい。俺は何も言わずに元データを開き、数字を一つずつ追い始めた。
昼前になって、ようやく原因が分かった。数字そのものは間違っていなかった。ただ、集計に使った期間が資料の本文では明確になっていなかったため、先方が別の期間を想定してしまったらしい。
俺は修正案を作り、小川に説明してから課長へ持っていった。課長は資料を読み終えると、赤ペンで一か所だけ線を引いた。その箇所を見た瞬間、俺にも意図が分かった。
数字を直すのではなく、数字の条件を明記するべきだということだ。そこを直せば同じ質問を繰り返される可能性はかなり下がる。俺は少し迷ってから、素直に頷いた。
「ここを直すんですね」
「はい。今回の問い合わせに答えるだけなら、今の資料でも対応できます。ただ、同じ資料を別の担当者が見たとき、同じ疑問を持つ可能性があります」
「確かに、それなら直したほうがいいですね」
「高橋さんなら、どう直しますか?」
「条件を本文に入れて、詳細は注釈にまとめます。説明するときも、最初に条件を伝えれば話が早いと思います」
「それでいきましょう」
また、こちらの意見をそのまま採用されてしまった。俺は資料を受け取りながら、少し調子が狂ってしまう。神谷課長は俺のやり方を否定したいわけではないらしい。必要なところだけ口を出し、こちらが説明すれば判断を変える。それなら、俺だって文句を言う理由はない。そう思った直後、課長が資料の端を指で叩いた。
「ただ、この文章は長すぎます」
「……そこですか?」
「はい。読む側が一度で理解できません」
「意味は伝わりますよ」
「伝わることと、読みやすいことは別です」
「課長って、本当に細かいですね」
「仕事ですから」
「何でも仕事で片づけますよね」
「仕事の資料について話しているので、仕事の話をしています」
「そういうところが嫌なんですよ」
「高橋さんは、私のことを嫌いなんですね」
あまりにも平然と言われて、俺は返事に詰まった。
「……嫌いですよ」
「そうですか」
「何でそんな普通に返すんですか」
「仕事に支障がなければ、個人的な好き嫌いは関係ありませんから」
「ほら、それですよ。そういうところが嫌いなんです」
「私も、高橋さんとは仕事以外の話をすると疲れそうだと思っています」
「それはこっちの台詞です」
「では、お互い様ですね」
その言葉だけ残して、課長は自分の席へ戻っていった。俺はその背中を見送りながら、腹の底が妙にざらつくのを感じていた。
腹が立つ。
どうしても腹が立つ。
何を言っても感情を表に出さず、正しいことだけを返してくる。こっちが苛立っているのに、相手は一歩も動じない。それが余計に気に入らなかった。
午後になり、修正した資料を小川と一緒に先方へ説明すると、今度はすんなり話が通った。小川が電話を終えて安堵した顔を見せると、俺もようやく肩の力を抜いた。そこへ課長がやってきて、資料を確認する。
「無事に終わったようですね」
「はい。先方も納得してくれました」
「高橋さんの修正で問題ありませんでしたね」
「小川がきちんと説明してくれたからです」
「そうですか。では、小川さんにも伝えておきます」
「課長」
「はい?」
「そういうところは、ちゃんとしてるんですね」
言ってしまってから、俺はしまったと思った。褒めたつもりではない。なのに、口から出た言葉はどう考えても褒め言葉だった。課長は少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます」
「……別に、褒めたわけじゃないです」
「分かっています」
「絶対分かってないでしょう」
「高橋さんは、素直ではないんですね」
「課長にだけは言われたくないだけです」
課長はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。俺もパソコンへ向き直ったが、さっきの会話が妙に頭に残っていた。
仕事しか見ない女。そう思っていたし、今でもそう思っている。人の気持ちより仕事を優先して、正しいと思ったことは容赦なく口にする。俺とは根本的に合わない。それでも今日一日一緒に仕事をして、ひとつだけ分かったことがある。神谷課長は、少なくとも仕事に関しては、人の意見を聞かない人間ではない。そこは認めるしかなかった。ただ、それとこの人が嫌いだということは、俺の中ではまったく別の話だった。
定時が近づき、俺が資料を整理していると、課長が席を立つ。帰るのかと思ったが、俺の机の横で足を止める。
「高橋さん」
「はい」
「今日の対応、助かりました。ありがとうございました」
「……どういたしまして」
「明日の朝、この資料を最終確認して提出しましょう」
「分かりました」
「では、お先に失礼します」
「お疲れさまです」
課長が去っていく。俺はその背中を見ながら、椅子に深く座り直した。仕事だけなら、話は早い。認めるところは認めるし、こちらの意見も聞く。ただ、それでも一緒にいると腹が立つ。たぶん、これからも何度もぶつかるだろう。
窓の外は、いつの間にか夕方の色に変わっている。神戸の街に灯りが増えていくのをぼんやり眺めながら、俺は今日一日のことを思い返す。
仕事では助けられた。俺の意見も聞いてもらった。それでも、最後まで気が合うとは思えない。むしろ、何かを話すたびに余計な一言を返されるような気がして、こちらの神経を逆撫でされる。そんな相手と、これから毎日のように顔を合わせることになる。考えただけで、先が思いやられた。
俺はまだ、この人が好きになる余地なんてどこにもないと思っていた。
内容を聞くと、資料に記載した数字そのものではなく、数字の根拠について説明を求められているという。小川が悪いわけではない。資料を作った段階では、そこまで説明を求められるとは想定していなかったからだ。
それでも先方を待たせるわけにはいかない。俺は小川から資料を受け取り、該当するページを開くと、そのやり取りを少し離れた場所で見ていた神谷課長がこちらへ歩いてきた。俺は反射的に身構えた。何を言われるのかと思ったが、課長は俺の手元を覗き込んだだけだった。
「高橋さん、先方は何を確認したいと言っていますか?」
「数字の根拠です。資料に載せた結果だけじゃなくて、どういう条件でこの数字になったのか説明してほしいらしいです」
「今ここで回答できますか?」
「確認すればできます。ただ、元データを見ないと正確には答えられません」
「では、確認してから返しましょう。小川さん、先方には『確認のうえ、本日中に回答します』と伝えてください」
「はい」
「高橋さんは元データを確認してもらえますか?」
「分かりました」
「私も確認します」
俺は思わず課長の顔を見てしまった。こういうとき、自分だけで処理してしまう上司もいる。
だが課長は、小川に伝える仕事と俺が確認する仕事を分けたうえで、自分も内容を見ると言った。仕事の進め方としては無駄がない。ただ、それを認めるのは少し悔しい。俺は何も言わずに元データを開き、数字を一つずつ追い始めた。
昼前になって、ようやく原因が分かった。数字そのものは間違っていなかった。ただ、集計に使った期間が資料の本文では明確になっていなかったため、先方が別の期間を想定してしまったらしい。
俺は修正案を作り、小川に説明してから課長へ持っていった。課長は資料を読み終えると、赤ペンで一か所だけ線を引いた。その箇所を見た瞬間、俺にも意図が分かった。
数字を直すのではなく、数字の条件を明記するべきだということだ。そこを直せば同じ質問を繰り返される可能性はかなり下がる。俺は少し迷ってから、素直に頷いた。
「ここを直すんですね」
「はい。今回の問い合わせに答えるだけなら、今の資料でも対応できます。ただ、同じ資料を別の担当者が見たとき、同じ疑問を持つ可能性があります」
「確かに、それなら直したほうがいいですね」
「高橋さんなら、どう直しますか?」
「条件を本文に入れて、詳細は注釈にまとめます。説明するときも、最初に条件を伝えれば話が早いと思います」
「それでいきましょう」
また、こちらの意見をそのまま採用されてしまった。俺は資料を受け取りながら、少し調子が狂ってしまう。神谷課長は俺のやり方を否定したいわけではないらしい。必要なところだけ口を出し、こちらが説明すれば判断を変える。それなら、俺だって文句を言う理由はない。そう思った直後、課長が資料の端を指で叩いた。
「ただ、この文章は長すぎます」
「……そこですか?」
「はい。読む側が一度で理解できません」
「意味は伝わりますよ」
「伝わることと、読みやすいことは別です」
「課長って、本当に細かいですね」
「仕事ですから」
「何でも仕事で片づけますよね」
「仕事の資料について話しているので、仕事の話をしています」
「そういうところが嫌なんですよ」
「高橋さんは、私のことを嫌いなんですね」
あまりにも平然と言われて、俺は返事に詰まった。
「……嫌いですよ」
「そうですか」
「何でそんな普通に返すんですか」
「仕事に支障がなければ、個人的な好き嫌いは関係ありませんから」
「ほら、それですよ。そういうところが嫌いなんです」
「私も、高橋さんとは仕事以外の話をすると疲れそうだと思っています」
「それはこっちの台詞です」
「では、お互い様ですね」
その言葉だけ残して、課長は自分の席へ戻っていった。俺はその背中を見送りながら、腹の底が妙にざらつくのを感じていた。
腹が立つ。
どうしても腹が立つ。
何を言っても感情を表に出さず、正しいことだけを返してくる。こっちが苛立っているのに、相手は一歩も動じない。それが余計に気に入らなかった。
午後になり、修正した資料を小川と一緒に先方へ説明すると、今度はすんなり話が通った。小川が電話を終えて安堵した顔を見せると、俺もようやく肩の力を抜いた。そこへ課長がやってきて、資料を確認する。
「無事に終わったようですね」
「はい。先方も納得してくれました」
「高橋さんの修正で問題ありませんでしたね」
「小川がきちんと説明してくれたからです」
「そうですか。では、小川さんにも伝えておきます」
「課長」
「はい?」
「そういうところは、ちゃんとしてるんですね」
言ってしまってから、俺はしまったと思った。褒めたつもりではない。なのに、口から出た言葉はどう考えても褒め言葉だった。課長は少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます」
「……別に、褒めたわけじゃないです」
「分かっています」
「絶対分かってないでしょう」
「高橋さんは、素直ではないんですね」
「課長にだけは言われたくないだけです」
課長はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。俺もパソコンへ向き直ったが、さっきの会話が妙に頭に残っていた。
仕事しか見ない女。そう思っていたし、今でもそう思っている。人の気持ちより仕事を優先して、正しいと思ったことは容赦なく口にする。俺とは根本的に合わない。それでも今日一日一緒に仕事をして、ひとつだけ分かったことがある。神谷課長は、少なくとも仕事に関しては、人の意見を聞かない人間ではない。そこは認めるしかなかった。ただ、それとこの人が嫌いだということは、俺の中ではまったく別の話だった。
定時が近づき、俺が資料を整理していると、課長が席を立つ。帰るのかと思ったが、俺の机の横で足を止める。
「高橋さん」
「はい」
「今日の対応、助かりました。ありがとうございました」
「……どういたしまして」
「明日の朝、この資料を最終確認して提出しましょう」
「分かりました」
「では、お先に失礼します」
「お疲れさまです」
課長が去っていく。俺はその背中を見ながら、椅子に深く座り直した。仕事だけなら、話は早い。認めるところは認めるし、こちらの意見も聞く。ただ、それでも一緒にいると腹が立つ。たぶん、これからも何度もぶつかるだろう。
窓の外は、いつの間にか夕方の色に変わっている。神戸の街に灯りが増えていくのをぼんやり眺めながら、俺は今日一日のことを思い返す。
仕事では助けられた。俺の意見も聞いてもらった。それでも、最後まで気が合うとは思えない。むしろ、何かを話すたびに余計な一言を返されるような気がして、こちらの神経を逆撫でされる。そんな相手と、これから毎日のように顔を合わせることになる。考えただけで、先が思いやられた。
俺はまだ、この人が好きになる余地なんてどこにもないと思っていた。