嫌いだった課長と恋をするまで

第03話 「自己管理くらいしてください」

 三日も経てば、神谷美月という課長がどういう人間なのか、少しずつ分かってきた。仕事が速い。判断も速い。誰かに確認してから動くというより、自分で必要な情報を集め、その場で結論を出していく。しかも、ただ速いだけではない。提出前の資料には細かいところまで目を通し、曖昧な表現があれば理由を聞き、必要ならその場で修正を求める。正直、面倒な上司だと思う。でも、仕事そのものについて言えば、文句をつけにくい。
 午後の会議室で、俺が担当している取引先への提案資料を並べていたときも、彼女は黙って数ページをめくったあと、ある箇所で指を止めた。

「この説明ですが、ここだけ根拠になる資料を一枚つけられませんか?」

「つけられます。先方にも同じ資料を以前渡しています」

「それなら、なおさら入れておいたほうがいいと思います。初めて見る人が、この資料だけで判断できる形にしておきたいので」

「分かりました。追加しておきます」

 仕事の話だけなら、俺も素直に認められる。課長の指摘は的確だったし、俺自身もそのほうがいいと思ったからだ。問題は、そのあとだった。資料を閉じた課長が、何でもないことのように俺へ視線を向けた。

「高橋さん、昨日は何時まで会社にいましたか?」

「……十一時くらいです」

「今日も残業する予定ですか?」

「締め切りが近いので、たぶん」

「そうですか」

 そこで終わると思った。だが、課長は少し考えるように黙ってから、机の上に置いていた資料を整えた。

「仕事の量を見る限り、そこまで遅くまで残る必要はないと思います」

「俺の仕事の進め方に問題がありますか?」

「ありません。むしろ逆です。仕事は早いと思っています」

「じゃあ、何が問題なんですか?」

「高橋さん自身です」

 その言葉に、俺の手が止まる。課長は俺の顔を見たまま、落ち着いた声で続ける。

「昨日も遅くまで仕事をして、今日の昼はあれだけ食べていましたよね。運動もしていない。以前より体重が増えていることも、本人が気にしていないわけではないと思います」

「ハァ~。……また、その話ですか。仕事に関係あります?」

「あります」

「俺は仕事をしています。遅くまで残っているのも、仕事を終わらせるためです」

「だからこそ言っています」

「何をですか?」

「無理をする必要はない、と言っています」

 その言葉だけなら、まだ我慢できたと思う。でも、ここ数日ずっと言われ続けていることが、俺の中で一つにつながってくる。
 
 昼食の量。
 体重。
 運動。
 残業。
 生活習慣。
 
 どれも俺にとっては、できれば触れてほしくないものだった。それを、この人は何のためらいもなく踏み込んでくる。

「課長って、俺がどういう生活をしているか、知っていますか?」

「知りません」

「じゃあ、どうして分かったようなことを言うんですか?」

「分かったようなことを言っているつもりはありません」

「同じですよ。太ってる。食べる。運動しない。だから自己管理ができてない。そう思ってるんじゃないですか?」

「体重だけで判断しているわけではありません」

「じゃあ、何です?」

「食事、睡眠、運動、残業。それらを合わせて見ています」

「結局、同じじゃないですか」

「違います。私は、高橋さんが仕事のできない人だとは思っていません」

 神谷課長の返事は早かった。俺が少し驚くくらい、迷いがない。

「……」

「むしろ、仕事は任せられると思っています。だからこそ、自分のことを後回しにしているように見えるのが気になります」

「余計なお世話です」

「そう思うでしょうね」

「だったら、放っておいてください」

「できません」

「どうしてですか?」

「私はあなたの上司だからです」

 また、それか。胸の奥に、さっきまでとは違う苛立ちが込み上げてきた。

「その『上司だから』っていうの、便利ですね」

「どういう意味ですか?」

「何を言っても、上司だからで終わるじゃないですか」

「そんなつもりはありません」

「でも、実際そうでしょう。俺が何を食べようが、何時に帰ろうが、俺の生活ですよ」

「仕事に影響が出るなら、私には関係があります」

「出てません」

「今は、ですよね」

「またそれですか」

 思わず声が大きくなった。会議室の外に誰かいるかもしれないと思いながらも、もう止められなかった。

「何か起きるかもしれないから、今のうちに全部直せってことですか? そんな簡単に変えられるなら、俺だってとっくに変えてますよ!」

 神谷課長の表情がわずかに変わった。

「……そうですか」

「そうですよ」

「では、何が難しいんですか?」

「それを課長に話す必要がありますか?」

「ありません」

「じゃあ、聞かないでください」

「分かりました。ただ、何も聞かずに放っておくことも、私にはできません」

「だから、どうしてですか」

「あなたが仕事を任せられる人だからです」

「それが理由ですか?」

「はい」

「だったら仕事だけ見てください」

「仕事だけ見ています」

「だったら」

「高橋さん」

 初めて、課長が俺の言葉を遮った。

「あなたは、自分のことをどうでもいいと思っていませんか?」

 言葉が出なかった。図星だったのかもしれない。自分でも気づかないふりをしていた部分を、いきなり引っ張り出された気がした。

「……勝手に決めつけないでください」

「決めつけてはいません」

「じゃあ、何なんですか」

「心配しています」

 俺は返事ができなかった。怒っているはずなのに、その言葉だけは予想していなかった。課長は少し視線を落としてから、いつもの仕事の顔に戻った。

「ただ、言い方が悪かったことは認めます。高橋さんの事情を何も知らないまま、踏み込みすぎました」

「……」

「それでも、自己管理はしてください」

「今、それを言います?」

「今だから言います」

「本当に、人の気持ちを考えないですよね」

 言ってから、さすがに言い過ぎたと思った。課長の眉がわずかに動いた。

「そうかもしれません」

 反論されると思っていた。だから、その返事には拍子抜けした。

「私は、嫌われても必要なことは言います。高橋さんに嫌われることより、仕事を任せられる人が倒れるほうが困りますから」

「……俺、そんなに弱くないですよ」

「知っています」

「じゃあ」

「だから、無理をする必要もないと思っています」

 その言葉に、また何も言えなくなってしまった。昨日のことを思い出す。締め切り前で、昼を適当に済ませて、夜まで仕事をしていた。帰る頃には頭が重く、駅まで歩くのさえ面倒だった。それでも、仕事が終わればそれでいいと思っていた。自分の身体がどうなろうと、仕事さえできれば問題ない。そんなふうに考えていたのかもしれない。

「今日は、もう帰ってください」

「まだ仕事があります」

「残りは明日の朝で間に合います」

「でも……」

「これは上司命令です」

「また、それですか」

 思わず睨むと、課長の口元がほんの少しだけ緩んだ。

「便利でしょう?」

「……そういうところ、本当に腹が立ちます」

「知っています」

「課長」

「はい」

「俺、課長のこと、かなり嫌いですから」

「私も、今のところは高橋さんに好かれようとは思っていません」

 そう言って、課長は資料を抱えた。

「ただ、明日もちゃんと仕事をしてください」

「それはします」

「なら、今日は帰りましょう」

 会議室を出ていく課長の背中を見ながら、俺は深く息を吐いた。

 腹が立つ。
 ものすごく腹が立つ。

 俺のことを何も知らないくせに、勝手に踏み込んできて、勝手に心配して、最後には「帰れ」とまで言ってくる。こんな上司、今まで会ったことがない。

 それなのに、さっきの「心配しています」という言葉だけが、頭から離れてくれない。
 あの人は本当に、俺をただ太った部下として見ているだけなのだろうか。それとも、仕事ができるから放っておけないだけなのか。考えても答えは出ない。分かっているのは、神谷美月という女が、俺の生活に勝手に入り込んできたこと。そして俺は、そのことが腹立たしくて仕方がないということだった。

 少なくとも、このときの俺はまだ、本気でそう思っていた。
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