嫌いだった課長と恋をするまで

第40話 どうして、気になるの ~美月視点~

 高橋さんへの告白を断ってから、何日か経った。仕事は以前と変わらない。朝になれば会社へ行き、部下たちの仕事を確認し、必要な判断をする。高橋さんに対しても、特別な態度を取らないようにしていた。それは彼も同じだった。私が仕事の相談をすれば普通に答えるし、こちらから意見を求めれば必要なことを整理して伝えてくる。告白した相手なら、少しくらい気まずそうにしても不思議ではない。それなのに、高橋さんは以前と変わらない。

 私はそのことに安心している自分と、少し物足りなく感じている自分がいることに気づいてしまった。安心するのは分かる。仕事をするうえで、関係が崩れないほうがいい。なら、物足りなさを感じる理由は何なのか。考え始めたところで、私は目の前の資料へ意識を戻した。

 
 午前中、取引先との打ち合わせに使う資料を確認していると、一か所だけ判断に迷う部分が出てきて、私は資料を持って立ち上がった。高橋さんに聞けば早い。そう思って数歩歩いたところで、足を止める。そこまで難しい内容ではない。自分で考えれば判断できる。私はそのまま自分の席へ戻ろうとしたが、結局また歩き出した。
 高橋さんは自分の席で、別の案件の資料を確認している。声をかける直前になって、私は妙に緊張していることに気づく。仕事の相談をするだけなのに、どうしてこんなことを意識するのだろう。私は余計なことを考えないようにして、彼の席の前で立ち止まった。

「高橋さん、少し確認してもいいですか?」

「はい。どうぞ」

 高橋さんはすぐに作業を止め、私が差し出した資料へ目を向けた。説明を聞きながら、私は彼の横に立っていた。以前なら気にも留めなかった距離だ。仕事をしているときの高橋さんは、普段より表情が落ち着いている。資料の数字を追い、必要な箇所を指で示しながら、こちらが判断しやすいように順番を整理して説明してくれる。その姿を見ているうちに、私は自分が相談に来たことを少しだけ後悔してしまう。仕事の確認だけなら、こんなふうに彼の横顔を意識する必要はない。

「この条件なら、先方にも受けてもらえると思います。ただ、納期だけは少し調整したほうがいいですね」

「……そうですね。私も、そのほうがいいと思います」

「じゃあ、先方への説明は俺がします」

「お願いします」

 高橋さんが資料を返してくれた。私はすぐに自分の席へ戻ろうとしたが、二歩ほど歩いたところで振り返った。高橋さんはもう別の資料へ目を戻している。私は何を期待して振り返ったのか分からなかった。
 
 呼び止めてほしかったわけでもない。
 話を続けたかったわけでもない。
 ただ、もう一度だけ彼の姿を見たかった。

 その理由が自分で説明できないことが、妙に気持ち悪かった。

 
 昼休みになり、私は一人で食事を済ませた。食堂から戻る途中、廊下の向こうに高橋さんがいるのが見えた。小川さんと話をしている横を何気なく歩きながら、二人のほうへ目を向けた。仕事の話をしているらしく、小川さんが手にした資料を高橋さんが覗き込んでいる。しばらくすると高橋さんが何か言い、小川さんが笑っている。それにつられるように、高橋さんも笑っていた。
 その瞬間、私は足を止めそうになった。自分でも分からないまま、もう少しだけ見ていたいと思ってしまったからだ。

 私はその場を足早に離れる。別に、高橋さんが誰と話していようが私には関係ない。そう思いながら歩いていると、背後から誰かの足音が聞こえ、振り返ると、別の社員だった。
 私は自分でもおかしくなっている。高橋さんかもしれないと思ったからだ。そんなことを考える必要はない。
 ところが自席へ戻ってからも、先ほどの笑顔が頭から離れてくれない。あんなふうに笑う人だったのだと、今さらのように思う。私は仕事中の彼しか知らなかったわけではない。それでも、最近になって見えるものが増えているような気がした。

 
 午後、チームの案件について報告が上がってきた。高橋さんからの報告書だった。内容は簡潔で、必要な情報が整理されている。私は確認を終えると、すぐに返信した。

「確認しました。ありがとうございます」

 送信してから、私は画面を閉じた。仕事の連絡なのだから、それで終わりのはずだった。ところが数分後、通知音が鳴った。

「こちらこそ、確認ありがとうございます」

 短い返信で、そこに特別な意味がないことは分かっている。それでも、私は一度読んだ文章をもう一度読んでしまう。
 さらにもう一度、同じ文章を見てしまう。
 何をしているのだろうと思いながら、スマートフォンを机へ置く。それから少しして、また画面へ目を向ける。
 返信が来たことが嬉しい。
 そんな感情が自分の中にあることに気づいて、私は小さく息を吐いた。

 仕事の連絡が嬉しいというだけなら、まだ説明できる。部下との関係がうまくいっていることを嬉しく思う。それなら課長として当然だ。私はそう整理しようとした。ところが、その直後に高橋さんの席から椅子を引く音が聞こえ、私は反射的に顔を上げる。彼が立ち上がっただけにことなのに、私は何をするのか気になってしまう。
 高橋さんは資料を一枚持って、別の社員のところへ向かっている。私はその姿を目で追い、途中で自分から視線を戻した。追っていたことに気づかれるのが嫌だった。

 
 夕方になり、仕事が一段落すると、高橋さんが帰り支度を始めた。私はパソコンの画面を見ていたが、彼が鞄を持ち上げる気配に気づいて顔を上げた。周囲へ挨拶をしている。私はその姿を見ながら、なぜか時計を確認してしまう。まだ定時を少し過ぎた程度で、高橋さんが帰るには普通の時間だ。私は何も思わず仕事を続ければいい。それなのに、彼がこちらへ来るかどうかを待っている自分がいた。

 高橋さんは私の席へ来なかった。そのままエレベーターへ向かっていく。私は自分でも分からないまま、視線だけで彼を追う。

 
 仕事が残っている。
 帰るなら帰ればいい。
 そう思った。

 ところが、一人になったオフィスが妙に広く感じられる。さっきまでそこにいた人がいなくなっただけなのに、空気まで変わったように思えた。

 私はしばらく仕事を続けることにした。資料を確認し、メールを返し、明日の予定を整理する。いつもなら集中できる作業だった。ところが、今日は何度も手が止まった。高橋さんが帰ったからだろうか。そんなことを考えて、私はすぐに首を振る。
 
 違う。
 
 私は仕事に集中できていないだけだ。疲れているのかもしれない。そう考えても、胸の奥に残る妙な空白は消えなかった。

 帰る準備をして会社を出ると、駅へ向かう道を一人で歩いた。いつもなら明日の仕事の段取りを考えている時間なのに、気づけば、高橋さんのことを考えていた。
 朝、席へ向かう姿。仕事を説明している横顔。小川さんと話していたときの笑顔。帰り際に鞄を持った姿。どれも特別な出来事ではない。なのに、一つずつ思い出せてしまう。私は歩きながら、自分の中で何が起きているのか考えた。

 
 私は高橋さんの気持ちに応えられない。

 その答えは変わっていない。
 仕事の立場も変わらない。
 距離を間違えてはいけない。
 自分から近づいてはいけない。

 そう思っているのに、一日を振り返ると、何度も自分から彼へ近づいていた。相談する必要があるのか迷いながら席へ向かっていた。話が終わったあと、振り返って彼を見た。誰かと笑っている姿を見つければ、足を止めそうになった。連絡が来れば、何度も画面を見た。帰る姿まで気にしていた。

 駅の階段を下りながら、私はふと足を止める。後ろから人が来たので、端へ寄ると人の流れが横を通り過ぎていく。

 その中で私は、自分の行動を一つずつ思い返していた。高橋さんから離れようとしているのに、気づけば自分から彼を探している。近づきすぎたと思えば、自分から離れる。離れた途端、今度は彼の姿を探してしまう。その繰り返しだった。

「どうして……」

 声に出してから、私は続く言葉を飲み込んだ。
 どうして、こんなに気になるんだろう。

 口に出しても答えは出ない。今の私には、まだその答えを認める準備ができていない。ただ、以前とは違う。高橋さんのことを、私はもう仕事だけの人として見られなくなっている。何を考えているのか知りたい。仕事を離れたときはどんな人なのか知りたい。誰かと笑っているなら、その笑顔をもっと見ていたい。そんな気持ちが少しずつ積み重なって、私の中で無視できない大きさになっている。

 高橋さんを避けたいわけではない。むしろ、会えば話したくなる。話せば安心する。姿が見えなければ気になる。
 それなのに、彼から向けられた気持ちには答えられないと思っている。その矛盾を、私はまだ言葉にできなかった。

 明日の朝、会社へ行けば、私はまた無意識に高橋さんの席を探すのだろう。

 そして、そのことを嫌だとは思わなかった。
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