嫌いだった課長と恋をするまで

第41話 頼ってもいい人 ~美月視点~

 その日は朝から、予定が詰まっていた。取引先との打ち合わせが二件、その合間にチーム内の確認、午後には上司への報告もある。私は出社すると同時にパソコンを立ち上げ、届いているメールを一つずつ確認していく。いつも通りの朝だ。高橋さんの席へ目を向けると、すでに出社していて、誰かと資料を確認している。私は一度だけ視線を向け、すぐに画面へ戻す。
 最近は、彼を見ている自分に気づくことが増えている。それを意識すると、余計に気になってしまう。だから今日は仕事だけに集中しようと思った。ところが、その決意は午前中の早い時間に崩れることになった。

 
「課長、先方から追加の条件が届いています」

 部下から渡されたメールを確認すると、昨日までの話にはなかった条件がいくつか追加されていた。納期も厳しい。こちらだけで判断できる内容ではないが、今日中に方向を決めなければ次の工程に影響が出る。私は関係する資料を集め、先方へ確認する項目を整理していく。担当者へ連絡を入れ、返答を待ちながら別の案件にも手をつける。気づけば予定していた作業が一つずつ後ろへずれていた。それでも私は手を止めなかった。自分がやれば早い。確認を待つより、自分で整理したほうが確実だ。そう考えて、必要な資料を一人で抱え込んでいった。

 
 昼前になった頃、机の上には複数の資料が重なっていた。メールを確認しながら数字を照合し、頭の中で予定を組み直す。そこへ高橋さんがやってきた。私は顔を上げた。

「課長、何か手伝えることありますか?」

「大丈夫です。もう少しで整理できますから」

 答えてから、私は自分の言葉に引っかかってしまった。高橋さんは資料の山を見ていて、私自身も、まだ整理できていないことを分かっていた。それでも反射的に大丈夫だと言ってしまった。高橋さんは何も言わず、少しだけ資料へ視線を落とした。

「分かりました。何かあれば言ってください」

「はい」

 高橋さんは自分の席へ戻ってしまった。私は再び画面へ向かったものの、さっきまでより集中できなくなってしまう。
 
『何かあれば言ってください』
 
 その言葉が妙に残っている。私は誰かに頼る前に、自分で片づけようとしてしまう。それが普通だと思っていたからだ。仕事を任されている以上、自分でできることは自分でやる。それで困ったことなど、これまでほとんどなかった。

 ところが、午後になって問題が一つ増えた。先方から届いた条件の中に、こちらの部署だけでは判断できない項目が含まれている。私は関係部署へ連絡を入れたが、担当者は外出中であり、別の担当者に確認すると、資料だけでは判断できないという返答が返ってくる。
 時計を見ると、予定していた報告の時間まで一時間を切っていた。私は椅子の背から身体を起こし、もう一度資料を確認することにした。自分で判断できるところまで進めよう。そう考えたところで、呼びかけられた。

「課長、その資料、俺にも見せてもらえますか?」

「高橋さんの案件ではありませんよ」

「はい。でも、先方との条件整理なら、俺のほうでも確認できると思います」

「でも……」

「全部やる必要はありません。判断が必要なところだけ、一緒に見ましょう」

 私は手元の資料へ目を落とした。断ろうと思えば断れた。自分でやればいい。そう言うこともできた。実際、私はいつもそうしてきた。だが、その日は違う。高橋さんが待っている。私がどうするのかを急かさずに待っている。そのことに気づくと、私は小さく息を吐いた。

「……お願いします」

「分かりました」

 その一言を口にしただけなのに、不思議なほど肩の力が抜けてきた。
 高橋さんは私の向かいに椅子を持ってきて、資料を一枚ずつ確認しながら、問題になりそうな箇所を整理していく。私は先方とのこれまでのやり取りを説明し、高橋さんはそれを聞きながら必要な情報を抜き出していく。私が一人で抱えていたときには複雑に見えていた問題が、二人で見ると少しずつ形を変えていく。高橋さんは自分の判断を押しつけることもなかった。

「ここは課長の判断でいいと思います。ただ、この部分だけは先方へ確認したほうが安全です」

「そうですね。私も同じ考えです」

「じゃあ、俺が先方に確認します」

「お願いします」

 気づけば、私は何度も高橋さんに仕事を任せていた。自分でやったほうが早いと思っていたはずなのに、彼に任せたほうが早く進む部分がいくつもあった。
 それだけではない。彼が隣にいることで、自分の判断を一度立ち止まって確認できる。今まで私は、それを必要だと思っていなかった。自分一人で判断できることが、責任を果たすことだと思っていたからだ。

 報告の時間が近づく頃には、必要な資料がきれいに整理されていた。私は画面を確認し、ようやく息を吐くことができた。

「助かりました。高橋さんがいなかったら、もう少し時間がかかっていたと思います」」

「いえ。俺も勉強になりましたから」

 口にしてから、私は恥ずかしくなってしまう。素直に認めたのは久しぶりだったからだ。誰かに助けてもらったことを、高橋さんは特別な反応を見せなかった。ただ、いつものように小さく頷くだけだ。

「困ったときは、お互い様ですから」

 仕事が一段落したあと、私はコーヒで一息入れようと給湯室へ向かうことにする。コーヒーを淹れながら、さっきのことを考えていた。私は高橋さんに頼り、頼ったことで仕事がうまく進んだ。自分で全部を抱え込まなくても、何も失わなかった。それどころか、誰かと一緒に考えることで、自分一人では見落としていた部分まで見つけられた。

 それが少し悔しく、同時に、嬉しい。

 そして、その嬉しさを誰と分かち合いたいと思っているのかを考えた瞬間、私は手が止まってしまう。
 それは、高橋さんが浮かんだからだ。私はその考えを追い払うように、カップを持って給湯室を出る。

 
 夕方になり、ほかの社員が帰り始める時間になったが、私はまだ残っている資料を確認していた。高橋さんも自分の仕事を終えるところだった。

「高橋さん」

「はい?」

「今日は……ありがとうございました」

「こちらこそ。お疲れさまでした」

「それと……また、困ったときは相談してもいいですか?」

 言った直後、自分でも驚いてしまう。
 私は課長だ。
 部下にこんなことを頼む必要があるのだろうか。
 そんなことを考える前に自分で処理していたのに、今は高橋さんに相談したいと思っている。

「もちろんです。俺も、課長に相談します」

「……私に?」

「はい。俺だけが頼るのも違うと思うので」

「分かりました」

 会社を出て駅へ向かう道を高橋さんと並んで歩く。以前なら仕事が終われば、そこで関係も切り替えていた。今日は、歩く速度が自然に揃っている。しばらく無言で歩いたあと、高橋さんが口を開いた。

「課長。今日は、少し無理してましたよね」

「……そう見えましたか?」

「はい。でも、俺も人のことは言えないので」

「そうですね。あの、高橋さん」

「はい」

「私、誰かに頼るのが苦手なんです」

「そうだと思ってました」

「……分かっていたんですか?」

「何となくです」

「少しずつでいいので、頼らせてください」

「はい」

 高橋さんは、それ以上何も言わない。その沈黙がありがたい。励ます必要も、理由を聞く必要もない。ただ、受け止めてくれただけで十分だった。

 誰かに頼ることは弱さだと思っていた。
 自分で何でもできることが、強さだと思っていた。

 でも、今日は違った。

 誰かに任せても、自分がなくなるわけではない。
 誰かを頼っても、自分の責任が消えるわけではない。

 そして私は、もう一つ気づいていた。

 高橋さんに頼ることが、嫌ではない。
 むしろ、もう少しだけ、この人を頼ってみたいと思っている。

 その気持ちを認めた瞬間、私は胸の奥が熱くなってくる。
 今日、隣にいてくれた人の存在を、以前よりずっと近くに感じていたことだけは確かなことだった。
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