嫌いだった課長と恋をするまで
第43話 もう一度、魚屋道を
土曜日の朝、俺は阪神深江駅の改札前で課長を待っていた。
数日前、仕事が終わったあとに課長から「少しお願いしたいことがあります」と声をかけられたとき、いつもの仕事の相談だと思っていた。ところが、その日はなかなか本題に入らなかった。
課長はスマートフォンを手にしたまま何度も画面を確認し、俺の顔を見ては視線を落とす。普段なら迷うことなく要件を伝える人なのに、その日は明らかに様子が違った。
俺が尋ねると、課長は少し黙ったあと、おじいさんから魚屋道の写真をもっとたくさん見たいと言われたことを話してくれた。以前撮った写真を病院で見せたところ、おじいさんは喜んでくれたらしい。それで今度は、蛙岩や風吹岩だけではなく、道の途中の景色も含めて、もっといろいろな写真を見たいと言ったのだという。
そこまで話し終えても、課長はスマートフォンを握ったまま黙っていた。俺が続きを待っていると、課長は画面を伏せるようにしてから、ようやく顔を上げた。
「それなら、また撮りに行けばいいんじゃないですか」
「そう思っています……。もし高橋さんが……、……一緒に来てもらえないでしょうか。もちろん、予定があれば断ってください。休日ですし、無理にお願いすることではありませんから」
「課長、俺でよければ行きますよ」
俺がそう答えると、課長は少し目を見開き、肩の力が抜けたように小さく頷いた。仕事なら迷わず頼める人だ。それでも休日に自分から俺を誘うとなれば、簡単には決められなかったのだろう。
俺が課長に気持ちを伝えたことも、課長がその気持ちに応えられないと伝えたことも、二人の間には残っている。だからこそ、課長は何度も迷いながら、それでも俺に声をかけてくれたのだと思う。俺はそれ以上、そのことについて考えなかった。祖父のために写真を撮りたい。その手伝いができるなら、それで十分だった。
————
「お待たせしました」
背後から声がして振り返ると、課長が駅の入口からこちらへ歩いてきた。仕事の日とは違う服装なのに、歩き方や姿勢には見慣れた課長らしさがある。俺が軽く手を上げると、課長も小さく手を振る。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん。今日は……よろしくお願いします」
「こちらこそ。おじいさんに見せる写真、たくさん撮りましょう」
「はい。ありがとうございます」
駅を出て、二人で山へ向かって歩き始める。課長は途中で何度かスマートフォンを確認しているのは、おじいさんから聞いた場所を思い出しているのだろう。俺も撮影する場所を考えながら歩く。
今日の目的は、魚屋道を歩くことそのものではない。病院にいるおじいさんへ、ここから見える景色を届けることだ。道の様子も、木々の間から見える景色も、岩も、街並みも、できるだけ多く残しておけばいい。二人で歩く理由がはっきりしているせいか、駅から山へ向かう道中も妙に気まずくなることはなかった。課長が必要としている写真を撮り、俺はその手伝いをする。まずは、それだけでよかった。
魚屋道へ入り、木々に囲まれた山道を歩き始める。足元の感触を確かめながら、俺は自分の身体に意識を向ける。あの頃なら、坂道に入っただけで身体が重くなり、少し進めば呼吸が乱れ、膝にも痛みが出て、次の坂を見上げるたびに気持ちまで沈んでいた。
最近はジムへ通い、無理のない範囲で身体を動かすようにしている。体重も八十キロ前半まで落ち、腹まわりや顔つきも少しずつ変わっている。その変化は数字だけを見ていると小さく感じたが、こうして山道を歩いていると、身体の反応としてはっきり分かる。足は重くなく、呼吸も乱れていない。俺は課長の隣を歩きながら、自然な速度を保った。
「高橋さん、今日はずいぶん歩くのが速いですね。苦しくないんですか?」
「今のところ、全然大丈夫です。足には少し負荷がありますけど、呼吸はまだ余裕があります」
「そうですか。前に歩いたときは、もっと苦しそうでした」
「そうでしたね。あのときは、この辺りでもうゼェゼェ言ってましたから」
「覚えています」
課長の返事に、俺は思わず苦笑してしまう。
そんなことは、自分でも覚えている。坂道を上るたびに息が乱れ、膝を気にしながら、それでも課長の前で弱音を吐きたくなくて歩き続けた。あのときは、歩けない自分を責めることしかできなかった。今日は同じ道を歩きながら、足がどれだけ動くのか、呼吸がどれくらい続くのかを落ち着いて確かめられる。体重計の数字が減ったことより、この感覚のほうが俺には分かりやすかった。
身体を動かす習慣を作ってきたことが、こういうところに出ている。無理をしているわけではない。それでも、以前なら苦しくて足を止めていた場所を、課長と話しながら進めている。その事実だけで、少しだけ胸を張ってもいいような気がした。
————
蛙岩の近くまで来ると、課長が足を止めた。周囲を見渡し、スマートフォンを取り出して岩の位置を確認する。
「ここ、撮っておきます。祖父は昔、この辺りも何度も歩いたそうです」
「じゃあ、岩だけじゃなくて、道も一緒に入れたほうがよさそうですね。病院で見たときに、どこから見た写真なのか分かったほうがいいと思います」
「そうですね。お願いします」
課長が何枚か撮影している間、俺も少し離れた場所からスマートフォンを構えた。岩だけを大きく写すのではなく、周囲の木々や道まで入れる。病院のベッドにいるおじいさんが写真を見たとき、そこに立っているような気持ちになれるかもしれない。そんなことを考えながら何枚か撮り、画面を確認する。課長も撮った写真を一枚ずつ見比べていた。普段なら仕事の資料を確認している姿しか見ないから、こうして祖父のために写真を選んでいる姿は新鮮だった。
「高橋さん、これもお願いします」
課長が自分のスマートフォンを俺へ差し出してくる。
「分かりました。どこで撮ります?」
「この辺りで大丈夫です。魚屋道を歩いていることが分かるように撮ってもらえれば」
俺はスマートフォンを受け取り、少し後ろへ下がり、課長が道の脇に立つ。背景には木々と山道が続いている。俺は画面の中で位置を調整し、何枚か撮影してから課長へ戻った。
「どうですか?」
「見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
「これがいいと思います。道も入っていますし、祖父に見せやすそうです」
「じゃあ、残しておきます。ほかの写真も送れるようにしておきましょう」
「ありがとうございます」
課長の表情が少し柔らかくなったのは、祖父に見せる写真が増えていくことが嬉しいのだろう。俺も撮影した写真を確認しながら、もう少し先へ進めば別の景色が撮れるだろうと思う。課長が一人で来ていたら、撮影しながら歩くのは大変だっただろう。俺がいることで少しでも負担が減るなら、それでいい。
————
風吹岩へ向かう上りに入っても、呼吸はほとんど乱れなかった。脚には当然疲労がたまっていく。それでも、息が苦しくなって立ち止まりたくなる感覚はない。
「課長、俺、結構変わりましたよね」
「はい。歩き方も違いますし、呼吸もずいぶん楽そうです。体重も減ったんですよね?」
「八十キロ台には入りました。まだ体は大きいですけど、前より動きやすくなりました」
「身体を動かしていてよかったですね」
「そうですね。俺も、やってよかったと思っています」
自分の身体が変わっていくことを、誰かに褒めてもらう必要はない。今日のように歩けること自体が、俺にとっては十分な実感なのだ。昔の自分を消したわけでも、別人になったわけでもない。ただ、毎日の中で少しずつ自分を雑に扱わなくなった。その結果が、こうして足元に表れている。
————
雨ヶ峠を越え、一軒茶屋へ向かう道に入ると、課長は何度か立ち止まって写真を撮っていた。木々の間から差し込む光や、道の先へ続く景色を一枚ずつ残していく。俺も少し離れたところで待ちながら、周囲を見渡した。風が木々を揺らし、葉の隙間から青い空が見える。課長が撮影した写真を確認している姿を見ていると、今日ここへ来た理由が改めて分かる気がした。
「祖父が見たいと言っているので、できるだけ多く撮って帰ろうと思います。ここへ来られなくなってから、昔歩いた道のことをよく話すようになりました。だから、写真でも見せてあげたいと思っています」
「それなら、もっと撮っておきましょう。病院で見ているうちに、別の場所も見たくなるかもしれませんし」
「そうですね。高橋さんが一緒に来てくれて助かっています」
————
一軒茶屋が近づいてきても、呼吸は大きく乱れない。脚には疲れがあるものの、歩くこと自体が嫌になるほどではない。俺は課長の歩幅を確認しながら、そのまま隣を歩く。
やがて目的の場所へ着くと、課長が足を止め、周囲を見渡している。俺も立ち止まって、ここまで歩いてきた道を振り返ってみた。木々の向こうに続く山道を見ていると、胸の奥に静かな達成感が広がってくる。
「着きましたね」
「はい。写真、かなり撮れましたね」
「これなら祖父にもたくさん見せられます。本当にありがとうございました、高橋さん」
「いえ。おじいさん、写真を楽しみにしてるんですよね」
「はい。きっと喜びますよ」
課長はスマートフォンに保存された写真を確認しながら、笑っている。俺もその画面を覗き込み、撮った写真の数を確認する。
道の写真、岩の写真、景色の写真、課長自身が写った写真。十分すぎるほど残っている。これなら病院で一枚ずつ見ながら、魚屋道の話ができるだろう。
「誘ってよかったです」
「俺も、誘ってもらえてよかったです」
「……そう言ってもらえると、安心します」
「俺は大丈夫ですよ。今日はおじいさんのために写真を撮るっていう、ちゃんとした目的がありますから」
俺たちは撮った写真をもう一度確認し、それから来た道を眺めて見る。魚屋道そのものは、何も変わっていない。木々に囲まれた坂道も、岩も、遠くに見える神戸の景色も、そこにあるものは同じだ。
それでも、そこを歩いている俺の身体には確かな変化がある。息が切れて足を止めることもなく、課長と話をしながらここまで来ることができた。そして課長も、一人で抱え込むのではなく、俺に「一緒に来てほしい」と頼んでくれた。
病院で待っているおじいさんに、この景色が少しでも伝わればいい。そんなことを考えながら、俺は課長の隣に立っていた。
数日前、仕事が終わったあとに課長から「少しお願いしたいことがあります」と声をかけられたとき、いつもの仕事の相談だと思っていた。ところが、その日はなかなか本題に入らなかった。
課長はスマートフォンを手にしたまま何度も画面を確認し、俺の顔を見ては視線を落とす。普段なら迷うことなく要件を伝える人なのに、その日は明らかに様子が違った。
俺が尋ねると、課長は少し黙ったあと、おじいさんから魚屋道の写真をもっとたくさん見たいと言われたことを話してくれた。以前撮った写真を病院で見せたところ、おじいさんは喜んでくれたらしい。それで今度は、蛙岩や風吹岩だけではなく、道の途中の景色も含めて、もっといろいろな写真を見たいと言ったのだという。
そこまで話し終えても、課長はスマートフォンを握ったまま黙っていた。俺が続きを待っていると、課長は画面を伏せるようにしてから、ようやく顔を上げた。
「それなら、また撮りに行けばいいんじゃないですか」
「そう思っています……。もし高橋さんが……、……一緒に来てもらえないでしょうか。もちろん、予定があれば断ってください。休日ですし、無理にお願いすることではありませんから」
「課長、俺でよければ行きますよ」
俺がそう答えると、課長は少し目を見開き、肩の力が抜けたように小さく頷いた。仕事なら迷わず頼める人だ。それでも休日に自分から俺を誘うとなれば、簡単には決められなかったのだろう。
俺が課長に気持ちを伝えたことも、課長がその気持ちに応えられないと伝えたことも、二人の間には残っている。だからこそ、課長は何度も迷いながら、それでも俺に声をかけてくれたのだと思う。俺はそれ以上、そのことについて考えなかった。祖父のために写真を撮りたい。その手伝いができるなら、それで十分だった。
————
「お待たせしました」
背後から声がして振り返ると、課長が駅の入口からこちらへ歩いてきた。仕事の日とは違う服装なのに、歩き方や姿勢には見慣れた課長らしさがある。俺が軽く手を上げると、課長も小さく手を振る。
「おはようございます、課長」
「おはようございます、高橋さん。今日は……よろしくお願いします」
「こちらこそ。おじいさんに見せる写真、たくさん撮りましょう」
「はい。ありがとうございます」
駅を出て、二人で山へ向かって歩き始める。課長は途中で何度かスマートフォンを確認しているのは、おじいさんから聞いた場所を思い出しているのだろう。俺も撮影する場所を考えながら歩く。
今日の目的は、魚屋道を歩くことそのものではない。病院にいるおじいさんへ、ここから見える景色を届けることだ。道の様子も、木々の間から見える景色も、岩も、街並みも、できるだけ多く残しておけばいい。二人で歩く理由がはっきりしているせいか、駅から山へ向かう道中も妙に気まずくなることはなかった。課長が必要としている写真を撮り、俺はその手伝いをする。まずは、それだけでよかった。
魚屋道へ入り、木々に囲まれた山道を歩き始める。足元の感触を確かめながら、俺は自分の身体に意識を向ける。あの頃なら、坂道に入っただけで身体が重くなり、少し進めば呼吸が乱れ、膝にも痛みが出て、次の坂を見上げるたびに気持ちまで沈んでいた。
最近はジムへ通い、無理のない範囲で身体を動かすようにしている。体重も八十キロ前半まで落ち、腹まわりや顔つきも少しずつ変わっている。その変化は数字だけを見ていると小さく感じたが、こうして山道を歩いていると、身体の反応としてはっきり分かる。足は重くなく、呼吸も乱れていない。俺は課長の隣を歩きながら、自然な速度を保った。
「高橋さん、今日はずいぶん歩くのが速いですね。苦しくないんですか?」
「今のところ、全然大丈夫です。足には少し負荷がありますけど、呼吸はまだ余裕があります」
「そうですか。前に歩いたときは、もっと苦しそうでした」
「そうでしたね。あのときは、この辺りでもうゼェゼェ言ってましたから」
「覚えています」
課長の返事に、俺は思わず苦笑してしまう。
そんなことは、自分でも覚えている。坂道を上るたびに息が乱れ、膝を気にしながら、それでも課長の前で弱音を吐きたくなくて歩き続けた。あのときは、歩けない自分を責めることしかできなかった。今日は同じ道を歩きながら、足がどれだけ動くのか、呼吸がどれくらい続くのかを落ち着いて確かめられる。体重計の数字が減ったことより、この感覚のほうが俺には分かりやすかった。
身体を動かす習慣を作ってきたことが、こういうところに出ている。無理をしているわけではない。それでも、以前なら苦しくて足を止めていた場所を、課長と話しながら進めている。その事実だけで、少しだけ胸を張ってもいいような気がした。
————
蛙岩の近くまで来ると、課長が足を止めた。周囲を見渡し、スマートフォンを取り出して岩の位置を確認する。
「ここ、撮っておきます。祖父は昔、この辺りも何度も歩いたそうです」
「じゃあ、岩だけじゃなくて、道も一緒に入れたほうがよさそうですね。病院で見たときに、どこから見た写真なのか分かったほうがいいと思います」
「そうですね。お願いします」
課長が何枚か撮影している間、俺も少し離れた場所からスマートフォンを構えた。岩だけを大きく写すのではなく、周囲の木々や道まで入れる。病院のベッドにいるおじいさんが写真を見たとき、そこに立っているような気持ちになれるかもしれない。そんなことを考えながら何枚か撮り、画面を確認する。課長も撮った写真を一枚ずつ見比べていた。普段なら仕事の資料を確認している姿しか見ないから、こうして祖父のために写真を選んでいる姿は新鮮だった。
「高橋さん、これもお願いします」
課長が自分のスマートフォンを俺へ差し出してくる。
「分かりました。どこで撮ります?」
「この辺りで大丈夫です。魚屋道を歩いていることが分かるように撮ってもらえれば」
俺はスマートフォンを受け取り、少し後ろへ下がり、課長が道の脇に立つ。背景には木々と山道が続いている。俺は画面の中で位置を調整し、何枚か撮影してから課長へ戻った。
「どうですか?」
「見せてもらってもいいですか?」
「もちろんです」
「これがいいと思います。道も入っていますし、祖父に見せやすそうです」
「じゃあ、残しておきます。ほかの写真も送れるようにしておきましょう」
「ありがとうございます」
課長の表情が少し柔らかくなったのは、祖父に見せる写真が増えていくことが嬉しいのだろう。俺も撮影した写真を確認しながら、もう少し先へ進めば別の景色が撮れるだろうと思う。課長が一人で来ていたら、撮影しながら歩くのは大変だっただろう。俺がいることで少しでも負担が減るなら、それでいい。
————
風吹岩へ向かう上りに入っても、呼吸はほとんど乱れなかった。脚には当然疲労がたまっていく。それでも、息が苦しくなって立ち止まりたくなる感覚はない。
「課長、俺、結構変わりましたよね」
「はい。歩き方も違いますし、呼吸もずいぶん楽そうです。体重も減ったんですよね?」
「八十キロ台には入りました。まだ体は大きいですけど、前より動きやすくなりました」
「身体を動かしていてよかったですね」
「そうですね。俺も、やってよかったと思っています」
自分の身体が変わっていくことを、誰かに褒めてもらう必要はない。今日のように歩けること自体が、俺にとっては十分な実感なのだ。昔の自分を消したわけでも、別人になったわけでもない。ただ、毎日の中で少しずつ自分を雑に扱わなくなった。その結果が、こうして足元に表れている。
————
雨ヶ峠を越え、一軒茶屋へ向かう道に入ると、課長は何度か立ち止まって写真を撮っていた。木々の間から差し込む光や、道の先へ続く景色を一枚ずつ残していく。俺も少し離れたところで待ちながら、周囲を見渡した。風が木々を揺らし、葉の隙間から青い空が見える。課長が撮影した写真を確認している姿を見ていると、今日ここへ来た理由が改めて分かる気がした。
「祖父が見たいと言っているので、できるだけ多く撮って帰ろうと思います。ここへ来られなくなってから、昔歩いた道のことをよく話すようになりました。だから、写真でも見せてあげたいと思っています」
「それなら、もっと撮っておきましょう。病院で見ているうちに、別の場所も見たくなるかもしれませんし」
「そうですね。高橋さんが一緒に来てくれて助かっています」
————
一軒茶屋が近づいてきても、呼吸は大きく乱れない。脚には疲れがあるものの、歩くこと自体が嫌になるほどではない。俺は課長の歩幅を確認しながら、そのまま隣を歩く。
やがて目的の場所へ着くと、課長が足を止め、周囲を見渡している。俺も立ち止まって、ここまで歩いてきた道を振り返ってみた。木々の向こうに続く山道を見ていると、胸の奥に静かな達成感が広がってくる。
「着きましたね」
「はい。写真、かなり撮れましたね」
「これなら祖父にもたくさん見せられます。本当にありがとうございました、高橋さん」
「いえ。おじいさん、写真を楽しみにしてるんですよね」
「はい。きっと喜びますよ」
課長はスマートフォンに保存された写真を確認しながら、笑っている。俺もその画面を覗き込み、撮った写真の数を確認する。
道の写真、岩の写真、景色の写真、課長自身が写った写真。十分すぎるほど残っている。これなら病院で一枚ずつ見ながら、魚屋道の話ができるだろう。
「誘ってよかったです」
「俺も、誘ってもらえてよかったです」
「……そう言ってもらえると、安心します」
「俺は大丈夫ですよ。今日はおじいさんのために写真を撮るっていう、ちゃんとした目的がありますから」
俺たちは撮った写真をもう一度確認し、それから来た道を眺めて見る。魚屋道そのものは、何も変わっていない。木々に囲まれた坂道も、岩も、遠くに見える神戸の景色も、そこにあるものは同じだ。
それでも、そこを歩いている俺の身体には確かな変化がある。息が切れて足を止めることもなく、課長と話をしながらここまで来ることができた。そして課長も、一人で抱え込むのではなく、俺に「一緒に来てほしい」と頼んでくれた。
病院で待っているおじいさんに、この景色が少しでも伝わればいい。そんなことを考えながら、俺は課長の隣に立っていた。