嫌いだった課長と恋をするまで
第42話 俺は俺のままで
あの日から、俺の生活は少しずつ変わっていった。何か大きな決意をしたわけじゃない。仕事を終えたあとに食べる量を少し減らし、駅ではエスカレーターを使わず階段を選び、休日には近所を歩く。
身体を動かすことも始めた。最初の頃は、少し歩いただけで息が上がった。自分の身体が思っていた以上に重いことを、改めて思い知らされた。それでも、今までのように「どうせ無理だ」と途中で投げ出すことはしなかった。疲れたら休む。翌日に身体が重ければ無理をしない。それでも動けそうなら、少しだけ動く。そんなことを繰り返しているうちに、身体を動かすことが特別なことではなくなっていった。
最初の二週間ほどは、自分でも変化が分からなかった。体重計に乗っても数字はほとんど動かない。鏡を見ても、九十キロを超えていた頃の身体と大きく違うようには見えない。それでも、朝起きたときの身体の重さが少し違う日があった。階段を上ったあと、以前ほど息が切れなくなった日もあった。ほんの小さな変化だったが、俺にはそれが嬉しかった。
昔の俺なら、すぐに結果を求めていたことだろう。何日やれば何キロ痩せるのか。どれだけ頑張れば身体が変わるのか。数字ばかりを気にして、思ったようにいかなければ全部嫌になっていたはずだ。だけど、今は違う。昨日より少し楽に動けている。それだけでも、自分が前へ進んでいる証拠だと思えた。
ある朝、いつものように体重計に乗ったときだった。表示された数字を見て、俺は思わず二度見してしまう。それは、九十キロを超えていた体重が、八十キロ台になっていたのだ。ほんの数キロしか変わっていないが、その数字を見た瞬間、胸の奥にじんわりと嬉しさが広がってきた。
痩せたことが嬉しいというより、自分で自分を放り出さずに続けてきたことが嬉しい。以前の俺なら、体重計に乗ること自体を避けていた。数字を見るのが怖かったからだ。
増える日もあるだろうし、減らない日もある。それでも、自分の身体を知ることから逃げなくなった。そのことのほうが、俺にとっては大きかった。
その日の朝、シャツを着たときにも小さな違和感があった。腹まわりが以前ほど窮屈ではない。ベルトも、いつの間にか一つ内側の穴を使うようになっていた。鏡の前で横を向いてみると、腹の出方も少し変わっており、顔まわりも、ほんの少しだけすっきりしていた。
昔のような身体になったわけじゃない。まだ大きな身体だし、少し歩けば汗もかく。それでも、確かに変わっている。俺は鏡の中の自分をしばらく眺めたあと、以前なら隠すように引っ張っていたシャツの裾を、その日は何もせず下ろした。見られることを怖がるほど、自分の身体が嫌ではなくなっていた。
会社でも、そうした変化は少しずつ出ていた。仕事中にコピー用紙を取りに行くとき、以前なら誰かに頼んでいた距離でも自分で歩く。昼休みには外へ出て少し歩くことも増えた。食事の量を極端に減らしているわけではない。好きなものを食べる日もある。ただ、以前のように腹いっぱいになるまで何も考えず食べることは減っていた。理由は自分の身体が今どんな状態なのかを考えるようになったからだ。それは面倒な変化ではなく、むしろ、自分のことを少し気にかけるだけで、こんなにも生活が変わるのかと驚いていた。
ある日の昼休み、席を立った俺に、後輩の小川が顔を上げた。そんな彼から身体の変化を指摘されるとは思わなかった。
「高橋さん、少し痩せました?」
「そう見える?」
「はい。前より少しだけ、顔がすっきりした気がします」
小川は俺の身体をじろじろ見るわけでもなく、仕事の合間にふと気づいたことを口にしただけだったが俺は自分でも笑ってしまう。毎日見ている自分には分かりにくい変化でも、他人からは分かるらしい。
「最近、少し身体を動かしてるんだ。食べる量も前より考えるようになったし」
「そうだったんですね。続いてるんですか?」
「うん。思ったより続いてる」
そこで話を終えると、小川は「それならよかったです」と笑って、自分の仕事へ戻っていく。俺も席へ戻る。たったそれだけのやり取りだったのに、妙に嬉しかった。誰かに褒められたからではない。自分が続けてきたことが、少しだけ外から見ても分かる程度の変化になっていた。その事実が嬉しかったのだ。
仕事を終えたあと、俺は会社の更衣室でスーツの上着を脱いだ。鏡に映った身体を見て、以前との違いを改めて感じる。腹まわりは少しすっきりしている。肩や胸にも、わずかに張りが戻ってきたように思う。数年前のような身体には戻っていない。それどころか、今の俺はまだ十分に太っている。それでも、ただ体重が増え続けていた頃とは明らかに違う。
身体が変わり始めたことで、俺自身の気持ちにも変化があった。以前は、太った身体を見れば「こんな自分だから振られた」と考えていた。鏡を見るたびに、昔の自分との差を探していた。細かった頃なら、もっと誰かに好かれたのではないか。もっと大切にされたのではないか。そんな考えが頭の中に残っていた。でも今は、少しずつ違う考え方ができるようになっている。
痩せたから価値が生まれたわけじゃない。
太っていたから価値がなかったわけでもない。
身体を動かし始めたことで、その当たり前のことが少しずつ実感できるようになってきた。俺が変わったのは、誰かに選ばれるためじゃない。自分を嫌い続ける生活をやめるためだ。その結果として体重が減り、身体の形が少し変わった。それなら、この変化は素直に喜んでいい。
その夜も、俺は身体を動かしてから家へ帰った。以前なら、疲れて帰宅すればそのままソファに座り、何か食べるものを探していた。今は風呂に入って、水を飲んで、明日の仕事の準備をする。生活そのものが劇的に変わったわけじゃない。それでも、自分の身体を自分で扱っている感覚がある。それだけで、以前よりずっと気持ちが軽かった。
体重計に乗り、八十キロ台の数字を見る。
鏡を見て、少し変わった身体を見る。
まだ途中だ。
これからまた体重が増える日もあるだろう。思うように身体が変わらない時期もあるだろう。それでも、もう昔のように自分を見捨てることはない。
俺は俺のままでいい。その言葉は、何もしなくていいという意味じゃない。それは、自分を嫌い続けなくていいという意味なのだ。
だから俺は、明日も仕事へ行く。食べたいものを食べる日もある。疲れたら休む。そして、身体を動かせる日は、自分のために身体を動かす。
その積み重ねの先で、また少し身体が変わればいい。
俺はそんなふうに、これからの自分を少しずつ受け入れ始めていたのだ。
身体を動かすことも始めた。最初の頃は、少し歩いただけで息が上がった。自分の身体が思っていた以上に重いことを、改めて思い知らされた。それでも、今までのように「どうせ無理だ」と途中で投げ出すことはしなかった。疲れたら休む。翌日に身体が重ければ無理をしない。それでも動けそうなら、少しだけ動く。そんなことを繰り返しているうちに、身体を動かすことが特別なことではなくなっていった。
最初の二週間ほどは、自分でも変化が分からなかった。体重計に乗っても数字はほとんど動かない。鏡を見ても、九十キロを超えていた頃の身体と大きく違うようには見えない。それでも、朝起きたときの身体の重さが少し違う日があった。階段を上ったあと、以前ほど息が切れなくなった日もあった。ほんの小さな変化だったが、俺にはそれが嬉しかった。
昔の俺なら、すぐに結果を求めていたことだろう。何日やれば何キロ痩せるのか。どれだけ頑張れば身体が変わるのか。数字ばかりを気にして、思ったようにいかなければ全部嫌になっていたはずだ。だけど、今は違う。昨日より少し楽に動けている。それだけでも、自分が前へ進んでいる証拠だと思えた。
ある朝、いつものように体重計に乗ったときだった。表示された数字を見て、俺は思わず二度見してしまう。それは、九十キロを超えていた体重が、八十キロ台になっていたのだ。ほんの数キロしか変わっていないが、その数字を見た瞬間、胸の奥にじんわりと嬉しさが広がってきた。
痩せたことが嬉しいというより、自分で自分を放り出さずに続けてきたことが嬉しい。以前の俺なら、体重計に乗ること自体を避けていた。数字を見るのが怖かったからだ。
増える日もあるだろうし、減らない日もある。それでも、自分の身体を知ることから逃げなくなった。そのことのほうが、俺にとっては大きかった。
その日の朝、シャツを着たときにも小さな違和感があった。腹まわりが以前ほど窮屈ではない。ベルトも、いつの間にか一つ内側の穴を使うようになっていた。鏡の前で横を向いてみると、腹の出方も少し変わっており、顔まわりも、ほんの少しだけすっきりしていた。
昔のような身体になったわけじゃない。まだ大きな身体だし、少し歩けば汗もかく。それでも、確かに変わっている。俺は鏡の中の自分をしばらく眺めたあと、以前なら隠すように引っ張っていたシャツの裾を、その日は何もせず下ろした。見られることを怖がるほど、自分の身体が嫌ではなくなっていた。
会社でも、そうした変化は少しずつ出ていた。仕事中にコピー用紙を取りに行くとき、以前なら誰かに頼んでいた距離でも自分で歩く。昼休みには外へ出て少し歩くことも増えた。食事の量を極端に減らしているわけではない。好きなものを食べる日もある。ただ、以前のように腹いっぱいになるまで何も考えず食べることは減っていた。理由は自分の身体が今どんな状態なのかを考えるようになったからだ。それは面倒な変化ではなく、むしろ、自分のことを少し気にかけるだけで、こんなにも生活が変わるのかと驚いていた。
ある日の昼休み、席を立った俺に、後輩の小川が顔を上げた。そんな彼から身体の変化を指摘されるとは思わなかった。
「高橋さん、少し痩せました?」
「そう見える?」
「はい。前より少しだけ、顔がすっきりした気がします」
小川は俺の身体をじろじろ見るわけでもなく、仕事の合間にふと気づいたことを口にしただけだったが俺は自分でも笑ってしまう。毎日見ている自分には分かりにくい変化でも、他人からは分かるらしい。
「最近、少し身体を動かしてるんだ。食べる量も前より考えるようになったし」
「そうだったんですね。続いてるんですか?」
「うん。思ったより続いてる」
そこで話を終えると、小川は「それならよかったです」と笑って、自分の仕事へ戻っていく。俺も席へ戻る。たったそれだけのやり取りだったのに、妙に嬉しかった。誰かに褒められたからではない。自分が続けてきたことが、少しだけ外から見ても分かる程度の変化になっていた。その事実が嬉しかったのだ。
仕事を終えたあと、俺は会社の更衣室でスーツの上着を脱いだ。鏡に映った身体を見て、以前との違いを改めて感じる。腹まわりは少しすっきりしている。肩や胸にも、わずかに張りが戻ってきたように思う。数年前のような身体には戻っていない。それどころか、今の俺はまだ十分に太っている。それでも、ただ体重が増え続けていた頃とは明らかに違う。
身体が変わり始めたことで、俺自身の気持ちにも変化があった。以前は、太った身体を見れば「こんな自分だから振られた」と考えていた。鏡を見るたびに、昔の自分との差を探していた。細かった頃なら、もっと誰かに好かれたのではないか。もっと大切にされたのではないか。そんな考えが頭の中に残っていた。でも今は、少しずつ違う考え方ができるようになっている。
痩せたから価値が生まれたわけじゃない。
太っていたから価値がなかったわけでもない。
身体を動かし始めたことで、その当たり前のことが少しずつ実感できるようになってきた。俺が変わったのは、誰かに選ばれるためじゃない。自分を嫌い続ける生活をやめるためだ。その結果として体重が減り、身体の形が少し変わった。それなら、この変化は素直に喜んでいい。
その夜も、俺は身体を動かしてから家へ帰った。以前なら、疲れて帰宅すればそのままソファに座り、何か食べるものを探していた。今は風呂に入って、水を飲んで、明日の仕事の準備をする。生活そのものが劇的に変わったわけじゃない。それでも、自分の身体を自分で扱っている感覚がある。それだけで、以前よりずっと気持ちが軽かった。
体重計に乗り、八十キロ台の数字を見る。
鏡を見て、少し変わった身体を見る。
まだ途中だ。
これからまた体重が増える日もあるだろう。思うように身体が変わらない時期もあるだろう。それでも、もう昔のように自分を見捨てることはない。
俺は俺のままでいい。その言葉は、何もしなくていいという意味じゃない。それは、自分を嫌い続けなくていいという意味なのだ。
だから俺は、明日も仕事へ行く。食べたいものを食べる日もある。疲れたら休む。そして、身体を動かせる日は、自分のために身体を動かす。
その積み重ねの先で、また少し身体が変わればいい。
俺はそんなふうに、これからの自分を少しずつ受け入れ始めていたのだ。