嫌いだった課長と恋をするまで
第47話 僕たちは、恋人になった
課長から「もっと高橋さんのことを知りたい」と言われた翌日、俺はいつもより少し早く会社へ着いた。
昨日の帰り道で聞いた言葉が頭から離れず、家へ帰ってからも何度も思い返していた。
離れていると俺のことを考える。
仕事だけでなく、俺自身のことを知りたいと思っている。
そんな言葉を課長から聞く日が来るなんて、少し前の俺なら想像もしなかった。しかも、俺は一度課長に気持ちを伝えて、断られている。だからこそ、昨日の言葉を自分に都合よく解釈するのはやめようと思っていた。課長が何を考えているのか、俺が勝手に答えを決める必要はない。そう考えて席につき、パソコンを立ち上げたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「おはようございます、高橋さん」
「課長、おはようございます」
振り返ると、課長がいつもの表情で立っている。服装も、持っている鞄も、出勤してきた時間も普段と何も変わらない。俺もできるだけ普通に挨拶を返したつもりだったが、課長は一瞬だけ俺の顔を見て、それから視線を逸らす。その小さな反応が気になったものの、俺から何かを聞くことはしなかった。
仕事が始まれば、課長はいつもの課長だった。午前中の打ち合わせでは必要な指示を出し、取引先から届いた資料を確認し、俺が提出した報告書にも細かい確認を入れる。俺もチームリーダーとして自分の仕事を進めた。周囲から見れば、昨日までと何も変わっていない。ただ、俺には分かっていた。資料を渡すときに指が触れそうになると互いに少しだけ動きを止めることや、ふと顔を上げた瞬間に目が合うことが、昨日までより増えている。
昼休みになっても、課長から特別な話はなかった。俺も自分から話しかけることはせず、いつものように昼食を済ませて午後の仕事へ戻る。午後も仕事は忙しく、昨日のことを考える余裕はほとんどなかった。それでも、夕方になると、課長の視線が何度かこちらへ向いていることに気づいた。俺が顔を上げると課長は資料へ目を戻す。俺も気にしないように仕事を続ける。そんなことを何度か繰り返して、終業時間が近づいた頃だった。課長が自分の席を立ち、俺のところまで歩いてきた。
「高橋さん」
「はい」
「今日、仕事が終わったあと、時間ありますか?」
「特に予定はないですけど」
「それなら……飲みに行きませんか?」
「飲みに、ですか?」
「はい。昨日の話もありますし、もう少し話したいことがあります」
「分かりました」
課長と二人で飲みに行く。そんなことは初めての事だった。課長が、何を話すつもりなのかは分からない。それでも、昨日のことがある以上、俺も何かを期待してしまう自分を隠せなかった。
仕事を終えると、俺たちは会社を出て、駅から少し離れた落ち着いた店へ向かった。店内は仕事帰りの客でほどよく賑わっていて、周囲の話し声が二人の会話を適度に隠してくれる。席について注文を済ませると、課長が少し緊張した様子でグラスを手に取った。
「今日は、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
二人で乾杯したあと、最初は仕事の話から始まった。今日の案件のこと、取引先のこと、課長が東京にいた頃の仕事のこと。俺も質問し、課長も答える。やがて仕事の話が少しずつ減り、課長自身の話が増えていった。東京でどんな仕事をしていたのか、神戸へ来てから何を感じたのか、祖父のことをどれだけ心配していたのか。俺は知らなかった課長の話を聞きながら、昨日言われた「もっと知りたい」という言葉の意味を少しずつ理解していった。
「高橋さんは、どうしてあんなに自分のことを後回しにしていたんですか?」
「俺ですか?」
「はい。仕事では周りの人のことをよく見ているのに、自分のことになると雑になるでしょう」
「……耳が痛いですね」
俺が笑うと、課長も笑う。少し酔っているのか、いつもの仕事中より表情が柔らかい。俺も酒が入っているせいか、普段なら聞けないことまで話していた。高校時代のこと、別れた彼女のこと、そのあと自分をどう扱っていたのか。全部を細かく話したわけではない。それでも、課長は途中で口を挟まず、俺の話を最後まで聞いてくれた。
「高橋さんは、自分をもっと大事にしていいと思います」
「最近、それは少し分かってきました」
「よかったです」
課長が安心したように笑った。その顔を見ていると、胸の奥が温かくなってくる。
しばらくして、課長がグラスをテーブルへ置く。その頬が少し赤く、さっきまでの話とは違う、何かを決めようとしているような顔だった。
「高橋さん」
「はい」
「私、高橋さんのことが好きです」
「はぁ?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。俺は課長の顔を見ると、課長は真剣な表情で俺を見ている。ただ、頬が赤い。グラスにはまだ酒が残っている。
「……課長。今の、酒に酔って言ってません?」
「はい。酔っていると思います」
「じゃあ、無効ですね」
「えっ?」
「だって、課長が酔った勢いで告白して、明日の朝になったら覚えてませんでした、じゃ困りますから」
「覚えています!」
「いや、今の課長、結構酔ってますよ」
「……少しだけです」
「だったら無効です」
俺が笑いながら言うと、課長はしばらく俺を見つめ、それから困ったように眉を寄せた。
「高橋さん、意地悪ですね」
「すみません。でも、俺は課長からちゃんと聞きたいです。酔ってるから言ったのか、それとも、本当にそう思ってるのか」
そこまで言うと、課長は黙り込み、俺もそれ以上は急かさない。店を出る頃には、課長の足取りも少し落ち着き、駅まで一緒に歩き、改札の前で別れる。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「高橋さん」
「はい?」
「……明日、もう一度話します」
「分かりました」
課長はそれだけ言って改札の向こうへ歩いていく。俺はその背中を見送りながら、さっきの言葉を思い返していた。
好きだと言われた。それだけで胸がいっぱいになる。それでも、酔った勢いで出た言葉を、そのまま自分への答えにしたくない。俺が欲しいのは、課長自身が素面で考えた上で選んでくれることだった。
————
翌朝、会社へ行くと、課長はいつも通り仕事をしていた。俺も何も言わず、自分の席で仕事を始めた。午前中は何も起こらなかった。昼休みになっても、課長は何も言わない。昨日のことが夢だったのではないかと思い始めた頃、午後の仕事が一段落したところで、課長が俺の席まで来た。
「高橋さん」
「はい」
「今日の仕事が終わったあと、少し時間をください」
「分かりました」
その日の夕方、俺たちは昨日とは違う場所へ向かった。酒を飲む店ではなく、駅から少し離れた静かな場所だった。課長は歩きながら何度も何かを言おうとして、そのたびに口を閉じた。やがて足を止めると、俺の方を向いた。
「昨日のことですが……」
「はい」
「昨日、私が高橋さんに好きだと言ったことは覚えています」
「はい」
「お酒を飲んでいたから、無効だと言われましたね」
「言いました」
「私も、それでいいと思いました。だから、今日はちゃんと伝えます。……私は、高橋さんのことが好きなんです」
今度は迷いのない、しっかりした声だった。
「頼れる人だから好きになったわけではありません。仕事ができるからでもありません。高橋さんと一緒にいると、自分も無理をしなくていいと思えるようになったんです。誰かに頼ることが怖くなくなってきました。それに、高橋さんがいないと寂しいと思うようになって、もっと一緒にいたいと思うようになりました」
課長は一度息を吸い、さらに続ける。
「高橋さんのことを、もっと知りたいです。仕事のときだけじゃなくて、仕事が終わったあとも、一緒に食事をしたり、歩いたり、いろんな話をしたいです。これからも、私の隣にいてほしいです」
そこまで言って、課長は少しだけ視線を足元に落とす。
「高橋さん。私と付き合ってもらえませんか?」
昨日とは違い、酒も入っていない。誰かに流されたわけでもない。課長自身が考えて、今日ここまで来て、自分の言葉で俺に伝えている。
「俺は、課長が好きです。一度断られたときも、嫌いにはなれませんでした。仕事で顔を合わせれば気になったし、課長が困っていれば助けたいと思ったし、神戸に残ると聞いたときは本当に嬉しかったです。だから、俺からもお願いします。俺と付き合ってください」
「……はい」
課長の笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった緊張が一気にほどけた。
——俺たちは恋人になった——
ただ、翌日から会社で何かが大きく変わるわけではない。課長は課長で、俺はチームリーダーだ。仕事中はこれまで通り、必要なことを話し、必要な距離を保つ。それでも、仕事が終われば、二人で会う理由ができた。課長と食事をすることも、休日に一緒に歩くことも、これからは誰にも説明する必要がない。そう考えると、今までとは違う毎日が始まるのだと実感した。
会社を出たあと、俺のスマートフォンが震えた。見ると、課長からメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いします』
俺は笑いながら返信を打つ。
『こちらこそ。よろしくお願いします、課長』
送信してから、俺は駅へ向かって歩き出す。
明日も、会社へ行けば課長がいる。
仕事が終われば、恋人として話せる。
その二つが同時に存在することが、まだ少し不思議だったけど、それでも、嬉しかった。
俺たちはようやく、上司と部下という関係の先へ歩き出したのだ。
昨日の帰り道で聞いた言葉が頭から離れず、家へ帰ってからも何度も思い返していた。
離れていると俺のことを考える。
仕事だけでなく、俺自身のことを知りたいと思っている。
そんな言葉を課長から聞く日が来るなんて、少し前の俺なら想像もしなかった。しかも、俺は一度課長に気持ちを伝えて、断られている。だからこそ、昨日の言葉を自分に都合よく解釈するのはやめようと思っていた。課長が何を考えているのか、俺が勝手に答えを決める必要はない。そう考えて席につき、パソコンを立ち上げたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「おはようございます、高橋さん」
「課長、おはようございます」
振り返ると、課長がいつもの表情で立っている。服装も、持っている鞄も、出勤してきた時間も普段と何も変わらない。俺もできるだけ普通に挨拶を返したつもりだったが、課長は一瞬だけ俺の顔を見て、それから視線を逸らす。その小さな反応が気になったものの、俺から何かを聞くことはしなかった。
仕事が始まれば、課長はいつもの課長だった。午前中の打ち合わせでは必要な指示を出し、取引先から届いた資料を確認し、俺が提出した報告書にも細かい確認を入れる。俺もチームリーダーとして自分の仕事を進めた。周囲から見れば、昨日までと何も変わっていない。ただ、俺には分かっていた。資料を渡すときに指が触れそうになると互いに少しだけ動きを止めることや、ふと顔を上げた瞬間に目が合うことが、昨日までより増えている。
昼休みになっても、課長から特別な話はなかった。俺も自分から話しかけることはせず、いつものように昼食を済ませて午後の仕事へ戻る。午後も仕事は忙しく、昨日のことを考える余裕はほとんどなかった。それでも、夕方になると、課長の視線が何度かこちらへ向いていることに気づいた。俺が顔を上げると課長は資料へ目を戻す。俺も気にしないように仕事を続ける。そんなことを何度か繰り返して、終業時間が近づいた頃だった。課長が自分の席を立ち、俺のところまで歩いてきた。
「高橋さん」
「はい」
「今日、仕事が終わったあと、時間ありますか?」
「特に予定はないですけど」
「それなら……飲みに行きませんか?」
「飲みに、ですか?」
「はい。昨日の話もありますし、もう少し話したいことがあります」
「分かりました」
課長と二人で飲みに行く。そんなことは初めての事だった。課長が、何を話すつもりなのかは分からない。それでも、昨日のことがある以上、俺も何かを期待してしまう自分を隠せなかった。
仕事を終えると、俺たちは会社を出て、駅から少し離れた落ち着いた店へ向かった。店内は仕事帰りの客でほどよく賑わっていて、周囲の話し声が二人の会話を適度に隠してくれる。席について注文を済ませると、課長が少し緊張した様子でグラスを手に取った。
「今日は、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
二人で乾杯したあと、最初は仕事の話から始まった。今日の案件のこと、取引先のこと、課長が東京にいた頃の仕事のこと。俺も質問し、課長も答える。やがて仕事の話が少しずつ減り、課長自身の話が増えていった。東京でどんな仕事をしていたのか、神戸へ来てから何を感じたのか、祖父のことをどれだけ心配していたのか。俺は知らなかった課長の話を聞きながら、昨日言われた「もっと知りたい」という言葉の意味を少しずつ理解していった。
「高橋さんは、どうしてあんなに自分のことを後回しにしていたんですか?」
「俺ですか?」
「はい。仕事では周りの人のことをよく見ているのに、自分のことになると雑になるでしょう」
「……耳が痛いですね」
俺が笑うと、課長も笑う。少し酔っているのか、いつもの仕事中より表情が柔らかい。俺も酒が入っているせいか、普段なら聞けないことまで話していた。高校時代のこと、別れた彼女のこと、そのあと自分をどう扱っていたのか。全部を細かく話したわけではない。それでも、課長は途中で口を挟まず、俺の話を最後まで聞いてくれた。
「高橋さんは、自分をもっと大事にしていいと思います」
「最近、それは少し分かってきました」
「よかったです」
課長が安心したように笑った。その顔を見ていると、胸の奥が温かくなってくる。
しばらくして、課長がグラスをテーブルへ置く。その頬が少し赤く、さっきまでの話とは違う、何かを決めようとしているような顔だった。
「高橋さん」
「はい」
「私、高橋さんのことが好きです」
「はぁ?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。俺は課長の顔を見ると、課長は真剣な表情で俺を見ている。ただ、頬が赤い。グラスにはまだ酒が残っている。
「……課長。今の、酒に酔って言ってません?」
「はい。酔っていると思います」
「じゃあ、無効ですね」
「えっ?」
「だって、課長が酔った勢いで告白して、明日の朝になったら覚えてませんでした、じゃ困りますから」
「覚えています!」
「いや、今の課長、結構酔ってますよ」
「……少しだけです」
「だったら無効です」
俺が笑いながら言うと、課長はしばらく俺を見つめ、それから困ったように眉を寄せた。
「高橋さん、意地悪ですね」
「すみません。でも、俺は課長からちゃんと聞きたいです。酔ってるから言ったのか、それとも、本当にそう思ってるのか」
そこまで言うと、課長は黙り込み、俺もそれ以上は急かさない。店を出る頃には、課長の足取りも少し落ち着き、駅まで一緒に歩き、改札の前で別れる。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
「高橋さん」
「はい?」
「……明日、もう一度話します」
「分かりました」
課長はそれだけ言って改札の向こうへ歩いていく。俺はその背中を見送りながら、さっきの言葉を思い返していた。
好きだと言われた。それだけで胸がいっぱいになる。それでも、酔った勢いで出た言葉を、そのまま自分への答えにしたくない。俺が欲しいのは、課長自身が素面で考えた上で選んでくれることだった。
————
翌朝、会社へ行くと、課長はいつも通り仕事をしていた。俺も何も言わず、自分の席で仕事を始めた。午前中は何も起こらなかった。昼休みになっても、課長は何も言わない。昨日のことが夢だったのではないかと思い始めた頃、午後の仕事が一段落したところで、課長が俺の席まで来た。
「高橋さん」
「はい」
「今日の仕事が終わったあと、少し時間をください」
「分かりました」
その日の夕方、俺たちは昨日とは違う場所へ向かった。酒を飲む店ではなく、駅から少し離れた静かな場所だった。課長は歩きながら何度も何かを言おうとして、そのたびに口を閉じた。やがて足を止めると、俺の方を向いた。
「昨日のことですが……」
「はい」
「昨日、私が高橋さんに好きだと言ったことは覚えています」
「はい」
「お酒を飲んでいたから、無効だと言われましたね」
「言いました」
「私も、それでいいと思いました。だから、今日はちゃんと伝えます。……私は、高橋さんのことが好きなんです」
今度は迷いのない、しっかりした声だった。
「頼れる人だから好きになったわけではありません。仕事ができるからでもありません。高橋さんと一緒にいると、自分も無理をしなくていいと思えるようになったんです。誰かに頼ることが怖くなくなってきました。それに、高橋さんがいないと寂しいと思うようになって、もっと一緒にいたいと思うようになりました」
課長は一度息を吸い、さらに続ける。
「高橋さんのことを、もっと知りたいです。仕事のときだけじゃなくて、仕事が終わったあとも、一緒に食事をしたり、歩いたり、いろんな話をしたいです。これからも、私の隣にいてほしいです」
そこまで言って、課長は少しだけ視線を足元に落とす。
「高橋さん。私と付き合ってもらえませんか?」
昨日とは違い、酒も入っていない。誰かに流されたわけでもない。課長自身が考えて、今日ここまで来て、自分の言葉で俺に伝えている。
「俺は、課長が好きです。一度断られたときも、嫌いにはなれませんでした。仕事で顔を合わせれば気になったし、課長が困っていれば助けたいと思ったし、神戸に残ると聞いたときは本当に嬉しかったです。だから、俺からもお願いします。俺と付き合ってください」
「……はい」
課長の笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった緊張が一気にほどけた。
——俺たちは恋人になった——
ただ、翌日から会社で何かが大きく変わるわけではない。課長は課長で、俺はチームリーダーだ。仕事中はこれまで通り、必要なことを話し、必要な距離を保つ。それでも、仕事が終われば、二人で会う理由ができた。課長と食事をすることも、休日に一緒に歩くことも、これからは誰にも説明する必要がない。そう考えると、今までとは違う毎日が始まるのだと実感した。
会社を出たあと、俺のスマートフォンが震えた。見ると、課長からメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いします』
俺は笑いながら返信を打つ。
『こちらこそ。よろしくお願いします、課長』
送信してから、俺は駅へ向かって歩き出す。
明日も、会社へ行けば課長がいる。
仕事が終われば、恋人として話せる。
その二つが同時に存在することが、まだ少し不思議だったけど、それでも、嬉しかった。
俺たちはようやく、上司と部下という関係の先へ歩き出したのだ。