嫌いだった課長と恋をするまで
最終話 嫌いだった課長と恋をするまで
土曜日の朝、待ち合わせ場所に向かう電車の中で、俺は何度もスマートフォンの画面を確認していた。約束の時間にはまだ余裕がある。それでも落ち着かなかった。
仕事の日なら、課長と会うことに緊張なんてしない。会社ではいつも通りに「課長」と呼び、課長からは「高橋さん」と呼ばれる。それが俺たちにとって当たり前だった。なのに今日は休日で、しかも昨日までとは少しだけ関係が違う。
俺たちは恋人になったのだ。そう考えるだけで、妙に胸が騒ぐ。
待ち合わせ場所へ着くと、ほどなくして課長が歩いてきた。仕事用の服ではなく、休日らしい格好をしている。それだけで見慣れたはずの人が少し遠く感じられ、同時に、今までより近い存在になったようにも思えた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます、課長」
俺がいつものように呼ぶと、課長の表情がほんの少し曇った。気のせいかと思ったが、課長は俺から視線を外し、わずかに唇を尖らせている。
何か気に障ることを言っただろうか?
俺が首を傾げていると、課長は何事もなかったように歩き始めた。俺も隣に並んだが、しばらくすると、その表情の理由が少しずつ分かってきた。
俺が「課長」と呼ぶたびに、課長は一瞬だけ不満そうな顔をする。昼食の店を決めるときも、街を歩いているときも同じだった。仕事中なら気にもならない小さな変化なのに、恋人になったばかりの今は、妙に目につく。どうやら課長は、休日くらい別の呼び方をしてほしいらしい。
「課長、昼はどうします?」
「……何でもいいですぅ」
「何でもいいって、一番困るんですけど」
「高橋さんが決めてください」
「じゃあ、あそこにしますか」
「はい」
課長は素直に頷いたが、また少しだけ不満そうな顔をしている。俺は思わず笑いそうになる。おそらく、課長は下の名前で呼んでほしいのだろう。でも、課長自身は俺を「高橋さん」と呼んでいる。自分はいつも通りなのに、俺には呼び方を変えてほしいらしい。そのアンバランスさが、なんだか課長らしかった。
俺はあえて何も言わず、店へ向かった。課長も何も言わなかったが、並んで歩く距離だけは、いつもより少し近かった。
昼食を終えて店を出ると、俺たちはそのまま三宮の街を歩いた。仕事の話をする必要がない休日だから、自然と話題も変わっていく。祖父のこと、最近見つけた店のこと、俺が通い始めたジムのこと。課長は仕事中にはあまり見せない表情で笑うことが増えていた。俺もつられて笑っているうちに、肩の力が抜けていく。隣にいるのが課長なのに、会社にいるときとは全然違う。そう感じるたび、少し前までこの人とこんな時間を過ごすなんて考えもしなかったことを思い出す。
最初は、本当に苦手だった。何を言っても厳しく返されるし、自分のことまで見透かされているようで腹が立った。俺も課長の言い方が気に入らなくて、何度も言い返した。顔を合わせれば衝突する相手だった。それが今は、休日に隣を歩いている。
「高橋さん」
「はい?」
「今日は……楽しいですか?」
「楽しいですよ。課長は?」
「私も、楽しいです」
課長はそう答えて、少し照れたように笑う。俺は課長の横顔を眺めながら、ふと足を止めた。課長も立ち止まり、俺を見てくる。人通りの多い街の中なのに、その瞬間だけ周りの音が少し遠くなったように感じた。
「どうしました?」
「いや……課長が、そんな顔するんだなと思って」
「どんな顔ですか?」
「楽しそうな顔」
「失礼ですね。私だって普通に笑います」
「知ってます。でも、会社で見るより多いなと思って」
「高橋さんといるからかもしれません」
不意打ちだった。
俺は返事に困って、無理やり視線を前へ戻す。課長も少し恥ずかしかったのか、何も言わずに歩き始める。さっきまで気になっていた距離が、今度は気にならない。むしろ、もう少し近くてもいいと思ってしまう。
しばらく歩いたところで、課長が突然スマートフォンを取り出した。画面を確認した瞬間、その表情が変わる。病院からの連絡のようだった。課長は通話を終えると、スマートフォンを握ったまま、俺の方を向く。声を出す前から、何か良い知らせだったことが分かった。
「祖父の容体が、少し良くなってきているそうです」
「本当ですか?」
「はい。先生も驚いているみたいです。ここ数日の状態から考えると、回復が早いって」
「よかったですね」
俺がそう言うと、課長は何度も頷いた。安心したのだろう。目元が少し赤くなっているようにも見えたが、課長は笑っていた。
「それで、祖父が先生に変なことを言ったみたいで」
「変なこと?」
「もうすぐ美月の花嫁姿を見ることになる気がする、って。何を言ってるんでしょうね。まだそんな話をしたわけでもないのに」
「でも、元気になってきたから、そんな冗談も言えるようになったんじゃないですか」
「そうですね」
課長は笑い、その笑顔を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。おじいさんが回復して、また冗談を言えるようになった。それだけで十分だった。課長は少し歩いてから、俺の方を向いた。
「高橋さん」
「はい」
「祖父に、私たちのことを話してもいいですか?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。課長が俺とのことを祖父に伝えたいと思ってくれている。それが嬉しかった。
「もちろんです」
「ありがとうございます」
こうして並んで歩いていると、昨日までのことが遠く感じる。俺たちは恋人になった。それでも、課長はまだ俺を「高橋さん」と呼ぶし、俺は相変わらず「課長」と呼んでいる。恋人になったからといって、急に何もかも変わるわけじゃない。
「高橋さん」
「はい?」
「……やっぱり、その呼び方は変えないんですか?」
「課長は課長ですから」
「休日ですよ?」
「でも課長ですよね」
「そうですけど……」
課長はそこで口を閉じた。どうやら、やはり下の名前で呼んでほしいらしい。俺はそのことに気づきながら、まだ名前を口にすることができなかった。ずっと「課長」と呼んできた相手だ。それを突然変えるのは、思っていた以上に難しい。
「……そのうち、慣れたら」
「そのうち、ですか?」
「はい」
「分かりました」
そう言った課長は、少しだけ拗ねたような顔をして前を向いた。その横顔がおかしくて、俺は笑ってしまう。課長も俺を見て、少しだけ眉を寄せた。
「何ですか?」
「いや、課長って、そんな顔するんだなと思って」
「高橋さんが変えないからでしょう」
「すみません」
「謝ってほしいわけではありません」
そう言いながら、課長はまた笑った。俺も笑った。街の中を歩きながら、ふと隣を見る。嫌いだった課長が、今は俺の隣にいる。そのことが不思議で、少しだけくすぐったかった。
————
祖父の回復が思っていた以上に早いと聞いて、課長は何度も「よかった」と口にしていた。それでも、実際に顔を見るまでは安心できないのだろう。病院へ向かう電車の窓の外を流れていく街並みを見つめる表情には、嬉しさの中にわずかな緊張が残っている。
俺はそんな課長に何か声をかけようとして、結局やめた。今は余計なことを言うより、隣にいることの方が大切な気がしたからだった。
やがて病院へ着くと、課長は俺に「少し待っていてください」と言って先に病室へ向かった。俺は廊下の椅子に座って待ちながら、さっき課長が祖父に俺たちのことを話すかもしれないと言っていたのを思い出した。恋人になって最初に紹介される相手が祖父だと思うと、仕事で取引先へ行くときとは違う緊張が胸に残っていた。
しばらくして課長が戻ってきた。さっきまで張りつめていた表情が少し和らいでいる。
「お待たせしました。祖父が、高橋さんにも会いたいと言っています」
「分かりました」
「それと……祖父には、私から話します」
「俺も一緒にいますから、大丈夫ですよ」
「はい」
二人で病室の扉を開けると、ベッドに横になっていたおじいさんがこちらへ顔を向けてきた。俺はちょっと緊張したが、祖父はすぐに笑ってくれた。
魚屋道の写真を撮るために一緒に歩いたことは課長から聞いているらしく、俺が挨拶すると、「写真を撮ってくれた高橋君だな」と嬉しそうに声をかけてくれた。
ベッドの脇には、俺たちが撮った写真が何枚も置かれている。蛙岩や風吹岩、木々の間から見える神戸の街並みを写した写真を一枚ずつ眺めながら、祖父は「あそこは昔歩いたことがある」と話してくれ、課長も楽しそうに相槌を打っている。写真を撮ったときのことを説明するうちに、三人で自然に会話が続いていった。
しばらくして、課長がおじいさんの手を握りながら、迷うように俺を見て、それからおじいさんへと向き直る。
「おじいちゃん。この前、話したことなんだけど……私、高橋さんと付き合っています」
祖父は驚いた様子も見せず、すぐに嬉しそうな笑顔になってくれる。自分から改めて名乗ったわけではないのに、恋人として紹介されたことが妙にくすぐったい。祖父は俺の顔を見て、それから課長を見ると、「そうか」と穏やかに頷いた。
「それなら、わしも安心した」
「何が?」
「美月が、誰かを頼れるようになったことだよ」
課長は返事をせず、祖父の手を握ったまま俯く。俺はその横顔を見ながら、おじいさんが言ったことの意味を考えていた。
課長は仕事では何でも一人で決めてしまうし、困っていても簡単には人に頼らない。それが責任感の強さでもあり、本人が抱えてきたものでもあるのだろう。だからこそ、俺が恋人になったことよりも、誰かに頼ってもいいと思えるようになったことを祖父は喜んでいるのかもしれない。
「高橋君、これからも、美月のそばにいてやってくれるか」
「はい、そのつもりです」
そこからしばらく、おじいさんは俺に仕事のことを尋ねたり、魚屋道でどんな景色を見たのか聞いたりした。課長は時々俺たちの会話に口を挟みながら、楽しそうに笑っている。病院へ来る前に聞いていた通り、おじいさんは驚くほど元気になっていた。医師が回復の早さに驚いたという話も納得できるほど、声にも力がある。課長が安心したように笑っているのを見ていると、俺まで肩の力が抜けていった。
帰る時間になり、課長が祖父に「また来るね」と声をかけた。俺も挨拶をして病室を出ようとしたところで、祖父が突然俺たちを呼び止めた。
「そうだ、美月」
「何?」
「先生にも言ったんだがな。わしは、近いうちにお前の花嫁姿を見る気がするんだ」
「おじいちゃん!」
課長の顔が一気に赤くなった。俺は思わず笑いそうになったが、課長の視線に気づいて慌てて口元を押さえる。祖父はそんな俺たちを見て声を立てて笑った。
「高橋君も笑っているじゃないか」
「いや、すみません」
「高橋さんまで笑わないでください」
「すみませんって」
課長は恥ずかしそうに祖父を見たあと、諦めたように笑った。病室に三人の笑い声が広がる。俺はその光景を見ながら、今日ここへ来て本当によかった。
おじいさんが笑い、課長も笑っている。その二人の間に自分がいることが、今までとは違う形で胸に残った。
病院を出ると、夕方の風が頬に当たる。課長は玄関を出てからもしばらく黙っていたが、駅へ向かって歩き始めると、ようやく肩の力を抜いたように息を吐いた。
俺も隣を歩きながら、病室でのことを思い返していた。祖父に恋人として紹介されたことも、これからもそばにいてほしいと言われたことも。それ以上に、課長が祖父の前で俺を頼ることを隠さなかったことが嬉しかった。仕事では上司と部下として接していても、こういう場所では恋人として隣にいられる。その違いを意識すると、自然と歩幅まで課長に合わせたくなった。
「高橋さん」
「はい?」
「今日は、ありがとうございました」
「俺もおじいさんに会えてよかったです」
「祖父も嬉しそうでした」
「課長も嬉しそうでしたよ」
「……見ていたんですか?」
「ずっと隣にいましたからね」
「高橋さん。私、ひとつ気になっていることがあります」
「何ですか?」
「今日、一度も私の名前を呼んでくれませんでしたね」
恋人になったというのに、口から出てくる呼び方はずっと「課長」のままだったからだ。俺が横を見ると、少し不満そうに唇を結んでいる。その表情を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「やっぱり、その顔するんですね」
「どんな顔ですか?」
「不満そうな顔です」
「……不満ですから」
「会社では課長と呼ばれても仕方ありません。でも、今日は休日ですし、私たちは恋人でしょう?」
「そうですね」
「だったら、少しくらい違う呼び方をしてくれてもいいと思います」
名前を呼ぶこと自体は難しくないはずなのに、どうしても一瞬ためらってしまう。俺にとってこの人は、出会った日からずっと課長だった。仕事でぶつかったときも、俺がこの人のことを嫌いだと思っていたときも、気持ちを認めてしまったあとも、ずっと同じ呼び方をしてきた。
それが俺たちの距離を表していたから、名前に変えるだけで何か大きなものを越えるような気がした。
「……名前で呼んでほしいんですか?」
「そう言っています」
「課長からそう言われると、余計に緊張します」
「高橋さんでも、緊張するんですね」
「しますよ。俺だって普通の人間ですから」
恋人になったのなら、いつまでも仕事の呼び方だけを続ける必要はない。そう思って隣を見ると、課長もこちらを見ていた。名前を呼んでほしいという気持ちを、もう隠していない。その顔を見た瞬間、俺はようやく決めた。
「……美月」
初めて口にした名前に、課長の表情が止まった。俺自身も、声に出したことで妙な照れを覚えた。課長はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて頬を少し赤くして笑った。
「はい、高橋さん」
返ってきた呼び方は、今までと同じだった。俺だけが名前で呼んで、課長は俺を「高橋さん」と呼ぶ。そのことが妙におかしくて、俺は笑った。
「課長は、変えないんですね」
「私は高橋さんと呼ぶ方が自然ですから」
「じゃあ、俺だけですか」
「嫌ですか?」
「いや。むしろ、その方がいいかもしれません」
会社にいるときは、これからも課長と呼ぶだろう。仕事の場では上司と部下として接するし、課長も俺を今まで通り高橋さんと呼ぶ。それでも、休日に二人で歩くときには、俺はこの人を「美月」と呼べる。その違いが、恋人になったことを少しずつ実感させてくれた。
「美月」
「はい」
名前を呼ぶと、課長がすぐに振り向く。その顔には、さっきまでの不満そうな表情はもう残っていなかった。
「……呼んでみただけです」
「それなら、もう一度くらい呼んでください」
「美月」
「はい、高橋さん」
夕方の神戸を歩きながら、俺は何度もその名前を心の中で繰り返した。最初に出会った頃は、こんなふうに呼ぶ日が来るなんて考えもしなかった。仕事しか見ていないと思っていた相手とぶつかり、互いの知らなかった部分を知り、好きになって、離れて、それでももう一度隣に立つことができた。
その時間を振り返ると、俺たちは最初から相性が良かったわけではない。むしろ、最初は本気で嫌いだった。それでも相手を知るほどに、その人の見えなかった部分が少しずつ見えてきた。そして今、俺はその人を名前で呼んでいる。
「美月、帰ろうか」
「はい、高橋さん」
その返事を聞きながら、俺たちは駅へ向かって歩く。
嫌いだった課長と、恋をするまでに歩いてきた道は、決して短くなかった。だからこそ、隣を歩くこの人の名前を呼べたことが、今日の小さな出来事以上のものに感じられる。
俺たちはこれからも、上司と部下として仕事をしながら、恋人として互いの隣にいる。その二つを抱えたまま、これから先の時間を一緒に歩いていくのだろう。
嫌いだった課長と過ごした時間の先で、俺たちはようやく、恋を始めたのだ。
——完——
仕事の日なら、課長と会うことに緊張なんてしない。会社ではいつも通りに「課長」と呼び、課長からは「高橋さん」と呼ばれる。それが俺たちにとって当たり前だった。なのに今日は休日で、しかも昨日までとは少しだけ関係が違う。
俺たちは恋人になったのだ。そう考えるだけで、妙に胸が騒ぐ。
待ち合わせ場所へ着くと、ほどなくして課長が歩いてきた。仕事用の服ではなく、休日らしい格好をしている。それだけで見慣れたはずの人が少し遠く感じられ、同時に、今までより近い存在になったようにも思えた。
「おはようございます、高橋さん」
「おはようございます、課長」
俺がいつものように呼ぶと、課長の表情がほんの少し曇った。気のせいかと思ったが、課長は俺から視線を外し、わずかに唇を尖らせている。
何か気に障ることを言っただろうか?
俺が首を傾げていると、課長は何事もなかったように歩き始めた。俺も隣に並んだが、しばらくすると、その表情の理由が少しずつ分かってきた。
俺が「課長」と呼ぶたびに、課長は一瞬だけ不満そうな顔をする。昼食の店を決めるときも、街を歩いているときも同じだった。仕事中なら気にもならない小さな変化なのに、恋人になったばかりの今は、妙に目につく。どうやら課長は、休日くらい別の呼び方をしてほしいらしい。
「課長、昼はどうします?」
「……何でもいいですぅ」
「何でもいいって、一番困るんですけど」
「高橋さんが決めてください」
「じゃあ、あそこにしますか」
「はい」
課長は素直に頷いたが、また少しだけ不満そうな顔をしている。俺は思わず笑いそうになる。おそらく、課長は下の名前で呼んでほしいのだろう。でも、課長自身は俺を「高橋さん」と呼んでいる。自分はいつも通りなのに、俺には呼び方を変えてほしいらしい。そのアンバランスさが、なんだか課長らしかった。
俺はあえて何も言わず、店へ向かった。課長も何も言わなかったが、並んで歩く距離だけは、いつもより少し近かった。
昼食を終えて店を出ると、俺たちはそのまま三宮の街を歩いた。仕事の話をする必要がない休日だから、自然と話題も変わっていく。祖父のこと、最近見つけた店のこと、俺が通い始めたジムのこと。課長は仕事中にはあまり見せない表情で笑うことが増えていた。俺もつられて笑っているうちに、肩の力が抜けていく。隣にいるのが課長なのに、会社にいるときとは全然違う。そう感じるたび、少し前までこの人とこんな時間を過ごすなんて考えもしなかったことを思い出す。
最初は、本当に苦手だった。何を言っても厳しく返されるし、自分のことまで見透かされているようで腹が立った。俺も課長の言い方が気に入らなくて、何度も言い返した。顔を合わせれば衝突する相手だった。それが今は、休日に隣を歩いている。
「高橋さん」
「はい?」
「今日は……楽しいですか?」
「楽しいですよ。課長は?」
「私も、楽しいです」
課長はそう答えて、少し照れたように笑う。俺は課長の横顔を眺めながら、ふと足を止めた。課長も立ち止まり、俺を見てくる。人通りの多い街の中なのに、その瞬間だけ周りの音が少し遠くなったように感じた。
「どうしました?」
「いや……課長が、そんな顔するんだなと思って」
「どんな顔ですか?」
「楽しそうな顔」
「失礼ですね。私だって普通に笑います」
「知ってます。でも、会社で見るより多いなと思って」
「高橋さんといるからかもしれません」
不意打ちだった。
俺は返事に困って、無理やり視線を前へ戻す。課長も少し恥ずかしかったのか、何も言わずに歩き始める。さっきまで気になっていた距離が、今度は気にならない。むしろ、もう少し近くてもいいと思ってしまう。
しばらく歩いたところで、課長が突然スマートフォンを取り出した。画面を確認した瞬間、その表情が変わる。病院からの連絡のようだった。課長は通話を終えると、スマートフォンを握ったまま、俺の方を向く。声を出す前から、何か良い知らせだったことが分かった。
「祖父の容体が、少し良くなってきているそうです」
「本当ですか?」
「はい。先生も驚いているみたいです。ここ数日の状態から考えると、回復が早いって」
「よかったですね」
俺がそう言うと、課長は何度も頷いた。安心したのだろう。目元が少し赤くなっているようにも見えたが、課長は笑っていた。
「それで、祖父が先生に変なことを言ったみたいで」
「変なこと?」
「もうすぐ美月の花嫁姿を見ることになる気がする、って。何を言ってるんでしょうね。まだそんな話をしたわけでもないのに」
「でも、元気になってきたから、そんな冗談も言えるようになったんじゃないですか」
「そうですね」
課長は笑い、その笑顔を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。おじいさんが回復して、また冗談を言えるようになった。それだけで十分だった。課長は少し歩いてから、俺の方を向いた。
「高橋さん」
「はい」
「祖父に、私たちのことを話してもいいですか?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。課長が俺とのことを祖父に伝えたいと思ってくれている。それが嬉しかった。
「もちろんです」
「ありがとうございます」
こうして並んで歩いていると、昨日までのことが遠く感じる。俺たちは恋人になった。それでも、課長はまだ俺を「高橋さん」と呼ぶし、俺は相変わらず「課長」と呼んでいる。恋人になったからといって、急に何もかも変わるわけじゃない。
「高橋さん」
「はい?」
「……やっぱり、その呼び方は変えないんですか?」
「課長は課長ですから」
「休日ですよ?」
「でも課長ですよね」
「そうですけど……」
課長はそこで口を閉じた。どうやら、やはり下の名前で呼んでほしいらしい。俺はそのことに気づきながら、まだ名前を口にすることができなかった。ずっと「課長」と呼んできた相手だ。それを突然変えるのは、思っていた以上に難しい。
「……そのうち、慣れたら」
「そのうち、ですか?」
「はい」
「分かりました」
そう言った課長は、少しだけ拗ねたような顔をして前を向いた。その横顔がおかしくて、俺は笑ってしまう。課長も俺を見て、少しだけ眉を寄せた。
「何ですか?」
「いや、課長って、そんな顔するんだなと思って」
「高橋さんが変えないからでしょう」
「すみません」
「謝ってほしいわけではありません」
そう言いながら、課長はまた笑った。俺も笑った。街の中を歩きながら、ふと隣を見る。嫌いだった課長が、今は俺の隣にいる。そのことが不思議で、少しだけくすぐったかった。
————
祖父の回復が思っていた以上に早いと聞いて、課長は何度も「よかった」と口にしていた。それでも、実際に顔を見るまでは安心できないのだろう。病院へ向かう電車の窓の外を流れていく街並みを見つめる表情には、嬉しさの中にわずかな緊張が残っている。
俺はそんな課長に何か声をかけようとして、結局やめた。今は余計なことを言うより、隣にいることの方が大切な気がしたからだった。
やがて病院へ着くと、課長は俺に「少し待っていてください」と言って先に病室へ向かった。俺は廊下の椅子に座って待ちながら、さっき課長が祖父に俺たちのことを話すかもしれないと言っていたのを思い出した。恋人になって最初に紹介される相手が祖父だと思うと、仕事で取引先へ行くときとは違う緊張が胸に残っていた。
しばらくして課長が戻ってきた。さっきまで張りつめていた表情が少し和らいでいる。
「お待たせしました。祖父が、高橋さんにも会いたいと言っています」
「分かりました」
「それと……祖父には、私から話します」
「俺も一緒にいますから、大丈夫ですよ」
「はい」
二人で病室の扉を開けると、ベッドに横になっていたおじいさんがこちらへ顔を向けてきた。俺はちょっと緊張したが、祖父はすぐに笑ってくれた。
魚屋道の写真を撮るために一緒に歩いたことは課長から聞いているらしく、俺が挨拶すると、「写真を撮ってくれた高橋君だな」と嬉しそうに声をかけてくれた。
ベッドの脇には、俺たちが撮った写真が何枚も置かれている。蛙岩や風吹岩、木々の間から見える神戸の街並みを写した写真を一枚ずつ眺めながら、祖父は「あそこは昔歩いたことがある」と話してくれ、課長も楽しそうに相槌を打っている。写真を撮ったときのことを説明するうちに、三人で自然に会話が続いていった。
しばらくして、課長がおじいさんの手を握りながら、迷うように俺を見て、それからおじいさんへと向き直る。
「おじいちゃん。この前、話したことなんだけど……私、高橋さんと付き合っています」
祖父は驚いた様子も見せず、すぐに嬉しそうな笑顔になってくれる。自分から改めて名乗ったわけではないのに、恋人として紹介されたことが妙にくすぐったい。祖父は俺の顔を見て、それから課長を見ると、「そうか」と穏やかに頷いた。
「それなら、わしも安心した」
「何が?」
「美月が、誰かを頼れるようになったことだよ」
課長は返事をせず、祖父の手を握ったまま俯く。俺はその横顔を見ながら、おじいさんが言ったことの意味を考えていた。
課長は仕事では何でも一人で決めてしまうし、困っていても簡単には人に頼らない。それが責任感の強さでもあり、本人が抱えてきたものでもあるのだろう。だからこそ、俺が恋人になったことよりも、誰かに頼ってもいいと思えるようになったことを祖父は喜んでいるのかもしれない。
「高橋君、これからも、美月のそばにいてやってくれるか」
「はい、そのつもりです」
そこからしばらく、おじいさんは俺に仕事のことを尋ねたり、魚屋道でどんな景色を見たのか聞いたりした。課長は時々俺たちの会話に口を挟みながら、楽しそうに笑っている。病院へ来る前に聞いていた通り、おじいさんは驚くほど元気になっていた。医師が回復の早さに驚いたという話も納得できるほど、声にも力がある。課長が安心したように笑っているのを見ていると、俺まで肩の力が抜けていった。
帰る時間になり、課長が祖父に「また来るね」と声をかけた。俺も挨拶をして病室を出ようとしたところで、祖父が突然俺たちを呼び止めた。
「そうだ、美月」
「何?」
「先生にも言ったんだがな。わしは、近いうちにお前の花嫁姿を見る気がするんだ」
「おじいちゃん!」
課長の顔が一気に赤くなった。俺は思わず笑いそうになったが、課長の視線に気づいて慌てて口元を押さえる。祖父はそんな俺たちを見て声を立てて笑った。
「高橋君も笑っているじゃないか」
「いや、すみません」
「高橋さんまで笑わないでください」
「すみませんって」
課長は恥ずかしそうに祖父を見たあと、諦めたように笑った。病室に三人の笑い声が広がる。俺はその光景を見ながら、今日ここへ来て本当によかった。
おじいさんが笑い、課長も笑っている。その二人の間に自分がいることが、今までとは違う形で胸に残った。
病院を出ると、夕方の風が頬に当たる。課長は玄関を出てからもしばらく黙っていたが、駅へ向かって歩き始めると、ようやく肩の力を抜いたように息を吐いた。
俺も隣を歩きながら、病室でのことを思い返していた。祖父に恋人として紹介されたことも、これからもそばにいてほしいと言われたことも。それ以上に、課長が祖父の前で俺を頼ることを隠さなかったことが嬉しかった。仕事では上司と部下として接していても、こういう場所では恋人として隣にいられる。その違いを意識すると、自然と歩幅まで課長に合わせたくなった。
「高橋さん」
「はい?」
「今日は、ありがとうございました」
「俺もおじいさんに会えてよかったです」
「祖父も嬉しそうでした」
「課長も嬉しそうでしたよ」
「……見ていたんですか?」
「ずっと隣にいましたからね」
「高橋さん。私、ひとつ気になっていることがあります」
「何ですか?」
「今日、一度も私の名前を呼んでくれませんでしたね」
恋人になったというのに、口から出てくる呼び方はずっと「課長」のままだったからだ。俺が横を見ると、少し不満そうに唇を結んでいる。その表情を見て、俺は思わず笑ってしまった。
「やっぱり、その顔するんですね」
「どんな顔ですか?」
「不満そうな顔です」
「……不満ですから」
「会社では課長と呼ばれても仕方ありません。でも、今日は休日ですし、私たちは恋人でしょう?」
「そうですね」
「だったら、少しくらい違う呼び方をしてくれてもいいと思います」
名前を呼ぶこと自体は難しくないはずなのに、どうしても一瞬ためらってしまう。俺にとってこの人は、出会った日からずっと課長だった。仕事でぶつかったときも、俺がこの人のことを嫌いだと思っていたときも、気持ちを認めてしまったあとも、ずっと同じ呼び方をしてきた。
それが俺たちの距離を表していたから、名前に変えるだけで何か大きなものを越えるような気がした。
「……名前で呼んでほしいんですか?」
「そう言っています」
「課長からそう言われると、余計に緊張します」
「高橋さんでも、緊張するんですね」
「しますよ。俺だって普通の人間ですから」
恋人になったのなら、いつまでも仕事の呼び方だけを続ける必要はない。そう思って隣を見ると、課長もこちらを見ていた。名前を呼んでほしいという気持ちを、もう隠していない。その顔を見た瞬間、俺はようやく決めた。
「……美月」
初めて口にした名前に、課長の表情が止まった。俺自身も、声に出したことで妙な照れを覚えた。課長はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて頬を少し赤くして笑った。
「はい、高橋さん」
返ってきた呼び方は、今までと同じだった。俺だけが名前で呼んで、課長は俺を「高橋さん」と呼ぶ。そのことが妙におかしくて、俺は笑った。
「課長は、変えないんですね」
「私は高橋さんと呼ぶ方が自然ですから」
「じゃあ、俺だけですか」
「嫌ですか?」
「いや。むしろ、その方がいいかもしれません」
会社にいるときは、これからも課長と呼ぶだろう。仕事の場では上司と部下として接するし、課長も俺を今まで通り高橋さんと呼ぶ。それでも、休日に二人で歩くときには、俺はこの人を「美月」と呼べる。その違いが、恋人になったことを少しずつ実感させてくれた。
「美月」
「はい」
名前を呼ぶと、課長がすぐに振り向く。その顔には、さっきまでの不満そうな表情はもう残っていなかった。
「……呼んでみただけです」
「それなら、もう一度くらい呼んでください」
「美月」
「はい、高橋さん」
夕方の神戸を歩きながら、俺は何度もその名前を心の中で繰り返した。最初に出会った頃は、こんなふうに呼ぶ日が来るなんて考えもしなかった。仕事しか見ていないと思っていた相手とぶつかり、互いの知らなかった部分を知り、好きになって、離れて、それでももう一度隣に立つことができた。
その時間を振り返ると、俺たちは最初から相性が良かったわけではない。むしろ、最初は本気で嫌いだった。それでも相手を知るほどに、その人の見えなかった部分が少しずつ見えてきた。そして今、俺はその人を名前で呼んでいる。
「美月、帰ろうか」
「はい、高橋さん」
その返事を聞きながら、俺たちは駅へ向かって歩く。
嫌いだった課長と、恋をするまでに歩いてきた道は、決して短くなかった。だからこそ、隣を歩くこの人の名前を呼べたことが、今日の小さな出来事以上のものに感じられる。
俺たちはこれからも、上司と部下として仕事をしながら、恋人として互いの隣にいる。その二つを抱えたまま、これから先の時間を一緒に歩いていくのだろう。
嫌いだった課長と過ごした時間の先で、俺たちはようやく、恋を始めたのだ。
——完——


