嫌いだった課長と恋をするまで
第2章 知らなかったあなた
第09話 課長が神戸へ来た理由
午後三時を過ぎた頃、神戸の空は少しずつ色を変え始めていた。九月の西日はまだ強く、三宮にあるオフィスの窓から差し込んだ光が、机の上に並んだ書類やパソコンの画面を赤く照らしている。
俺は取引先へ送る資料を確認しながら、向かいにある神谷課長のデスクへ目を向けた。課長はいつも通り、姿勢を崩さずにパソコンへ向かっている。電話が鳴ればすぐに取って、社員から質問されれば手を止めて答え、必要な指示を出したあとは迷うことなく次の仕事へ移る。そんな姿を見ていると、昨日までと何も変わらないように思えた。
ところが、課長のデスクの端に置かれた一枚の書類が視界に入った。病院からの連絡らしく、そこには祖父の名前と入院先の文字が記されていた。俺は見るつもりなどなかったのに、その文字だけが妙に目に残った。
「課長、病院から連絡ですか?」
「はい。先ほど届きました。祖父の担当医から、今日の検査について連絡がありました。大きな問題はないそうなので、仕事中に気にする必要はありません」
「そうですか。それならよかったです。……でも、仕事中にも病院から連絡が来るんですね」
「入院していますから、当然だと思います。東京にいた頃も、家族から連絡があれば仕事の合間に対応していました」
課長はそう答えると、病院から届いた書類を一度確認して、すぐに引き出しへしまった。その動作に無駄はない。まるで今のやり取りなど最初から存在しなかったかのように、再びパソコンへ視線を戻している。
俺も自分の仕事へ戻ったが、頭の中には別の疑問が残った。東京本社から神戸へ来たのは、単なる人事異動だったのだろうか? とそう思った。
最初に小川から聞いた話では、神谷課長は本社でもかなり評価されていたと言う。わざわざ東京から呼び寄せるような人間なら、普通は本社に残しておきたいと考えるはずだ。それなのに、なぜ神戸なのか。祖父が神戸にいることと、この異動は関係しているのだろうか。そう考えた瞬間、俺は自分でその疑問を打ち消した。課長が話していないことまで、勝手に想像する必要はない。俺たちは上司と部下なのだから、仕事さえきちんとできていれば、それで十分だった。
その直後、取引先から電話が入り、さっきまで考えていたことを頭の隅へ押し込み、俺は資料を持って課長のところへ向かった。課長もすぐに資料へ目を落とし、数字の変更箇所を確認していった。
「この数字ですが、先方から届いた最新の資料ではこちらになっています。昨日の資料と数字が違っていますが、先方へ確認は取れていますか?」
「はい。電話で確認しています。先方の担当者が古い資料を添付していたそうです。こちらが最新の数字で間違いありません」
「分かりました。それなら、この部分だけ修正してください。あと、数字が変わった理由についても一行入れておきましょう。あとから別の担当者が見たときに、どちらが正しいのか分からなくなる可能性があります」
「そこまで書きますか?」
「書いてください。今は分かっていても、三か月後に同じ資料を見る人が同じ判断をできるとは限りません。高橋さんが担当を外れたあとでも資料だけで経緯が分かるようにしておく。それも仕事だと思っています」
「……分かりました。そこまで入れておきます」
「お願いします」
課長はそれだけ言うと、また自分の仕事へ戻る。俺も席へ戻りながら、少しだけ笑いそうになってしまう。
やっぱり細かい。そう思う一方で、言われた内容には反論できなかった。俺が気づかなかった部分を課長は見ている。仕事について話しているときの神谷美月には、迷いがほとんどない。だからこそ、東京本社で評価されていたという話にも納得できる。こんな人間を、本社が簡単に手放すだろうか。そう考えると、さっきの疑問がまた頭に浮かんでくる。神谷課長が神戸へ来たのには、何か理由があるのではないか。俺はそう思いながらも、今度はその疑問を追いかけることをしなかった。知りたいと思うこと自体が、少し踏み込みすぎている気がしたからだ。
定時を過ぎると、社員たちは一人、また一人と席を立っていく。オフィスの中から話し声が消えていき、窓の外には夕暮れの三宮の街が広がっている。俺も残っていた仕事を片づけ、そろそろ帰ろうかと思ったところで、神谷課長のデスクにまだ明かりがついていることに気づいた。画面には資料が表示されていて、課長は一人で確認作業を続けている。いつもの姿だった。
俺は鞄を持ち上げたものの、なぜかすぐには席を離れられなかった。少しして、課長がスマートフォンを手に取る。病院からの連絡だろうかと思ったが、電話をかけることはなく、画面を見たまま動かなくなった。仕事中には一度も見せなかった表情が、その横顔に浮かんでいた。眉間にわずかに力が入り、唇が固く結ばれている。疲れている。それだけではない。祖父のことを考えているのだろうと、俺には何となく分かった。
「……課長」
「高橋さん、まだ帰っていなかったんですか?」
「今、帰るところです。課長こそ、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「そうですね。分かっているんですが、これだけ終わらせてからにします」
「それ、昨日も言っていましたよね」
「昨日も見ていたんですか?」
「見ていたというか、同じ時間まで残っていたので」
「そうでしたね」
課長は少しだけ笑ったが、その笑顔には疲れが残っていた。俺は何か言おうとして、結局やめた。早く帰れと言えば、以前の課長なら俺に言っていた言葉をそのまま返すことになる。病院へ行くなら仕事を残してもいいとも言える。でも、課長が自分で決めて仕事をしている以上、俺がそこへ口を出す理由はなかった。だから俺は、「お疲れさまでした」とだけ言って、会社を出た。
オフィスを出ると、三宮の街にはまだ多くの人が歩いていた。駅へ向かう人、買い物袋を持った人、仕事を終えて飲食店へ向かう人。その中を歩きながら、俺はさっき見た課長の顔を思い出していた。仕事中の神谷課長は、誰よりも迷いがなくて、誰よりも強く見える。俺が最初に嫌いになったのも、たぶんそこだった。何を言っても動じないし、自分の考えを曲げない。人の気持ちより仕事を優先する人間だと思っていた。でも、今日見た表情は違った。誰もいなくなったオフィスで、祖父のことを考えているときだけ、課長は明らかに疲れていた。それを見たことで、俺は初めて気づいた。俺は今まで、神谷美月の一部分だけを見て、その全部を分かったつもりになっていたのだ。
駅へ向かう途中、ふと足が止まってしまう。
東京から神戸へ来た課長。祖父が神戸の病院に入院していること。本社で高く評価されていたのに、神戸へ異動してきたこと。そして、誰にも弱音を見せないまま、仕事が終われば病院へ向かっていること。それらを並べて考えると、どうしても一つの疑問が浮かんでくる。神谷課長は、なぜ神戸へ来たのだろう。
今すぐ聞こうとは思わなかった。課長には、課長にしか話せない事情があるのだろうし、俺にはそれを聞く資格もない。
それでも、その日を境に、神谷課長という人間が以前より気になるようになった。仕事のときに何を考えているのか、なぜあれほど仕事にこだわるのか、東京を離れてまで神戸へ来た理由は何なのか。知りたいと思ってしまった自分に気づき、俺は小さく息を吐いた。
(余計なことを考えるな)
そう自分に言い聞かせながら歩いても、頭の中から課長の疲れた横顔が消えることはなかった。
俺は取引先へ送る資料を確認しながら、向かいにある神谷課長のデスクへ目を向けた。課長はいつも通り、姿勢を崩さずにパソコンへ向かっている。電話が鳴ればすぐに取って、社員から質問されれば手を止めて答え、必要な指示を出したあとは迷うことなく次の仕事へ移る。そんな姿を見ていると、昨日までと何も変わらないように思えた。
ところが、課長のデスクの端に置かれた一枚の書類が視界に入った。病院からの連絡らしく、そこには祖父の名前と入院先の文字が記されていた。俺は見るつもりなどなかったのに、その文字だけが妙に目に残った。
「課長、病院から連絡ですか?」
「はい。先ほど届きました。祖父の担当医から、今日の検査について連絡がありました。大きな問題はないそうなので、仕事中に気にする必要はありません」
「そうですか。それならよかったです。……でも、仕事中にも病院から連絡が来るんですね」
「入院していますから、当然だと思います。東京にいた頃も、家族から連絡があれば仕事の合間に対応していました」
課長はそう答えると、病院から届いた書類を一度確認して、すぐに引き出しへしまった。その動作に無駄はない。まるで今のやり取りなど最初から存在しなかったかのように、再びパソコンへ視線を戻している。
俺も自分の仕事へ戻ったが、頭の中には別の疑問が残った。東京本社から神戸へ来たのは、単なる人事異動だったのだろうか? とそう思った。
最初に小川から聞いた話では、神谷課長は本社でもかなり評価されていたと言う。わざわざ東京から呼び寄せるような人間なら、普通は本社に残しておきたいと考えるはずだ。それなのに、なぜ神戸なのか。祖父が神戸にいることと、この異動は関係しているのだろうか。そう考えた瞬間、俺は自分でその疑問を打ち消した。課長が話していないことまで、勝手に想像する必要はない。俺たちは上司と部下なのだから、仕事さえきちんとできていれば、それで十分だった。
その直後、取引先から電話が入り、さっきまで考えていたことを頭の隅へ押し込み、俺は資料を持って課長のところへ向かった。課長もすぐに資料へ目を落とし、数字の変更箇所を確認していった。
「この数字ですが、先方から届いた最新の資料ではこちらになっています。昨日の資料と数字が違っていますが、先方へ確認は取れていますか?」
「はい。電話で確認しています。先方の担当者が古い資料を添付していたそうです。こちらが最新の数字で間違いありません」
「分かりました。それなら、この部分だけ修正してください。あと、数字が変わった理由についても一行入れておきましょう。あとから別の担当者が見たときに、どちらが正しいのか分からなくなる可能性があります」
「そこまで書きますか?」
「書いてください。今は分かっていても、三か月後に同じ資料を見る人が同じ判断をできるとは限りません。高橋さんが担当を外れたあとでも資料だけで経緯が分かるようにしておく。それも仕事だと思っています」
「……分かりました。そこまで入れておきます」
「お願いします」
課長はそれだけ言うと、また自分の仕事へ戻る。俺も席へ戻りながら、少しだけ笑いそうになってしまう。
やっぱり細かい。そう思う一方で、言われた内容には反論できなかった。俺が気づかなかった部分を課長は見ている。仕事について話しているときの神谷美月には、迷いがほとんどない。だからこそ、東京本社で評価されていたという話にも納得できる。こんな人間を、本社が簡単に手放すだろうか。そう考えると、さっきの疑問がまた頭に浮かんでくる。神谷課長が神戸へ来たのには、何か理由があるのではないか。俺はそう思いながらも、今度はその疑問を追いかけることをしなかった。知りたいと思うこと自体が、少し踏み込みすぎている気がしたからだ。
定時を過ぎると、社員たちは一人、また一人と席を立っていく。オフィスの中から話し声が消えていき、窓の外には夕暮れの三宮の街が広がっている。俺も残っていた仕事を片づけ、そろそろ帰ろうかと思ったところで、神谷課長のデスクにまだ明かりがついていることに気づいた。画面には資料が表示されていて、課長は一人で確認作業を続けている。いつもの姿だった。
俺は鞄を持ち上げたものの、なぜかすぐには席を離れられなかった。少しして、課長がスマートフォンを手に取る。病院からの連絡だろうかと思ったが、電話をかけることはなく、画面を見たまま動かなくなった。仕事中には一度も見せなかった表情が、その横顔に浮かんでいた。眉間にわずかに力が入り、唇が固く結ばれている。疲れている。それだけではない。祖父のことを考えているのだろうと、俺には何となく分かった。
「……課長」
「高橋さん、まだ帰っていなかったんですか?」
「今、帰るところです。課長こそ、今日はもう帰ったほうがいいんじゃないですか?」
「そうですね。分かっているんですが、これだけ終わらせてからにします」
「それ、昨日も言っていましたよね」
「昨日も見ていたんですか?」
「見ていたというか、同じ時間まで残っていたので」
「そうでしたね」
課長は少しだけ笑ったが、その笑顔には疲れが残っていた。俺は何か言おうとして、結局やめた。早く帰れと言えば、以前の課長なら俺に言っていた言葉をそのまま返すことになる。病院へ行くなら仕事を残してもいいとも言える。でも、課長が自分で決めて仕事をしている以上、俺がそこへ口を出す理由はなかった。だから俺は、「お疲れさまでした」とだけ言って、会社を出た。
オフィスを出ると、三宮の街にはまだ多くの人が歩いていた。駅へ向かう人、買い物袋を持った人、仕事を終えて飲食店へ向かう人。その中を歩きながら、俺はさっき見た課長の顔を思い出していた。仕事中の神谷課長は、誰よりも迷いがなくて、誰よりも強く見える。俺が最初に嫌いになったのも、たぶんそこだった。何を言っても動じないし、自分の考えを曲げない。人の気持ちより仕事を優先する人間だと思っていた。でも、今日見た表情は違った。誰もいなくなったオフィスで、祖父のことを考えているときだけ、課長は明らかに疲れていた。それを見たことで、俺は初めて気づいた。俺は今まで、神谷美月の一部分だけを見て、その全部を分かったつもりになっていたのだ。
駅へ向かう途中、ふと足が止まってしまう。
東京から神戸へ来た課長。祖父が神戸の病院に入院していること。本社で高く評価されていたのに、神戸へ異動してきたこと。そして、誰にも弱音を見せないまま、仕事が終われば病院へ向かっていること。それらを並べて考えると、どうしても一つの疑問が浮かんでくる。神谷課長は、なぜ神戸へ来たのだろう。
今すぐ聞こうとは思わなかった。課長には、課長にしか話せない事情があるのだろうし、俺にはそれを聞く資格もない。
それでも、その日を境に、神谷課長という人間が以前より気になるようになった。仕事のときに何を考えているのか、なぜあれほど仕事にこだわるのか、東京を離れてまで神戸へ来た理由は何なのか。知りたいと思ってしまった自分に気づき、俺は小さく息を吐いた。
(余計なことを考えるな)
そう自分に言い聞かせながら歩いても、頭の中から課長の疲れた横顔が消えることはなかった。