嫌いだった課長と恋をするまで
第10話 倒れた祖父
神谷課長の祖父が一度持ち直してから、一週間ほどが過ぎていた。あの日の翌朝、課長はいつも通り出社し、「祖父は少し落ち着きました」とだけ俺に伝えた。それ以上は何も聞かなかったし、課長も話さなかった。
ただ、それからの彼女は以前より明らかに忙しそうだった。朝は早く出社し、定時になると病院へ向かう。昼休みにもスマートフォンを確認し、着信があれば席を離れる。それでも仕事に遅れは出さない。むしろ、自分が何かを抱えていることを周囲に悟らせないようにするかのように、以前より仕事へ集中していた。
俺はそんな課長を見るたび、前に聞いた話を思い出していた。祖それは、父のそばにいたいのに、仕事も投げ出せないんだと。たぶん今の課長は、その二つをどちらも手放せずにいるのだろう。
「高橋さん、この資料ですが、今日中に先方へ返してください」
「分かりました。俺のほうで確認しておきます」
「助かります。私は別件の確認がありますので、少し席を外します」
「はい」
午後三時を過ぎた頃だった。課長はそう言ってスマートフォンを手に立ち上がる。最近では珍しくない光景だったから、俺も特に気に留めず資料へ目を戻した。ところが、数分もしないうちに廊下から課長の声が聞こえてくる。声を抑えて話しているため内容までは分からない。それでも、いつもの電話とは違うことだけは伝わってきた。戻ってきた課長は、スマートフォンを握ったまま自分の席の前で立ち止まった。顔色が悪い。俺は思わず椅子を引いた。
「課長、どうしました?」
「病院からです。祖父の具合が……。今、医師から家族に連絡が入っていて……すぐ来てほしいと言われました」
一度、かなり危ない状態になったことは聞いている。そこから持ち直したと思っていたのに、また悪くなったという。
課長はそれ以上説明せず、机の上にある資料をまとめ始めた。手は動いているのに、いつものように迷いがないわけではない。何度も同じ資料を確認し、鞄へ入れようとして一枚を落とした。拾おうと屈んだところで動きが止まり、課長は小さく息を吐いてから顔を上げた。
「……今日の案件をどうするか、先に整理しないと」
「課長、今は仕事より病院でしょう」
「分かっています。でも、明日の朝一番に先方との確認があります。私が今日中に確認しておかないと、高橋さん一人では判断できない部分が残ります」
「それなら、その部分だけ俺が持っていきます」
「えっ、病院へ?」
「はい。課長が病院へ行くなら、資料も俺が持っていきます。必要なところだけ、その場で確認してもらえばいいでしょう」
仕事を任せることへの迷いと、病院へ急がなければならない焦りが、同じ顔の中に浮かんでいるいるのだろう。課長はすぐには答えなかった。
俺は机の上に残っている資料へ目を向けると、確かに課長の判断が必要な部分はある。でも、全部を課長が抱える必要はない。俺はその資料を手に取る。
「ここ、課長が確認したいのはこの二か所ですよね」
「……はい」
「じゃあ、俺が持っていきます。病院で確認してもらえれば、それで進められます」
「でも、それでは高橋さんの仕事が増えます」
「増えたとしても、今はそっちのほうがいいです。課長が会社に残って仕事をしている間に、病院からまた連絡が来たら、そのほうが困るでしょう」
「……分かりました。お願いします」
「はい」
俺は資料をまとめ直す。これで仕事の問題は片づいた。課長はすぐに病院へ向かえるし、俺は資料を届ければいい。そこまでは、あくまで仕事の話だ。だから俺も、それ以上のことを考えるつもりはなかった。
ところが、課長が鞄を持って会社を出ようとしたところで、手にしていたスマートフォンがまた震えた。画面を見た瞬間、彼女の足が止まる。短い通話を終えたあと、課長はその場に立ったまま目を閉じた。
「今の電話も病院ですか?」
「はい。医師から、できるだけ早く来てくださいと言われました」
「じゃあ、すぐ行きましょう」
「高橋さんは、資料だけ届けてもらえれば……」
「課長一人で行くんですか?」
「そのつもりです」
そう言った課長が歩き出そうとした瞬間、足元がわずかに揺れた。本人は気づいていないのかもしれない。だが、俺には分かった。課長は机へ手をつき、すぐに姿勢を戻したものの、顔色は先ほどより悪くなっている。俺は資料を持ったまま、課長の前へ回った。
「課長、俺も行きます」
「でも……」
「資料を持っていく必要があります。それに、さっきから顔色が悪いです。一人で行かせるほうが心配です」
「病院まで来てもらう理由はありません」
「ありますよ。資料を届ける仕事があります。それに、病院で課長が確認しなきゃいけないところもある。俺が持っていけば、課長は会社に戻らなくて済みます」
課長は黙っていた。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
心配だから一緒に行きたい、とは言わなかった。そんなことを口にするほど、俺たちの関係は近くない。今の俺にできるのは、仕事を理由にして彼女の負担を一つ減らすことだけだった。
「……では、お願いします」
「はい」
その返事を聞いて、俺は資料を鞄へ入れ、二人で会社を出る。外は細かな雨が降っていて、道路には夕方の車が流れていた。駅へ向かう途中、課長は何度もスマートフォンを確認している。俺はその横を歩きながら、病院で必要になる資料を頭の中で整理していた。
今から病院へ行って、課長に確認してもらい、戻ってきてから先方へ連絡する。それなら明日の仕事にも間に合う。付き添うというより、仕事を止めないために一緒に行く。俺はそう考えていた。
駅へ着いたところで、課長が突然足を止めた。
「高橋さん」
「はい」
「……ありがとうございます」
「まだ何もしていませんよ」
「それでも、助かります。今は仕事のことを考える余裕がなかったので」
課長はそう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。俺は返す言葉を探したが、うまく見つからない。だから、ただうなずくだけにした。
電車がホームへ入ってくる音が聞こえて、顔を上げる。俺たちは並んで車内へ入り、空いている席に腰を下ろした。課長は窓の外を見たまま、スマートフォンを握っている。その横顔を見ていると、今まで俺が知っていた神谷美月という人間が、少しずつ違って見えてくる。仕事ができる課長でも、強い人間でもない。大切な家族が倒れれば不安になり、誰かの手を借りなければ前へ進めないこともある、一人の人間だ。
俺は何も言わず、隣に座っていた。病院へ行く理由は、ちゃんとある。俺が担当する仕事の資料を届けるためだ。そう自分に言い聞かせながら、それだけではない気持ちが胸の中に残っていることにも気づいていた。
今はまだ、その気持ちに名前をつける必要はない。ただ、神谷課長が一人でこの時間を過ごさなくていいように、俺は隣にいる。それで十分だった。
ただ、それからの彼女は以前より明らかに忙しそうだった。朝は早く出社し、定時になると病院へ向かう。昼休みにもスマートフォンを確認し、着信があれば席を離れる。それでも仕事に遅れは出さない。むしろ、自分が何かを抱えていることを周囲に悟らせないようにするかのように、以前より仕事へ集中していた。
俺はそんな課長を見るたび、前に聞いた話を思い出していた。祖それは、父のそばにいたいのに、仕事も投げ出せないんだと。たぶん今の課長は、その二つをどちらも手放せずにいるのだろう。
「高橋さん、この資料ですが、今日中に先方へ返してください」
「分かりました。俺のほうで確認しておきます」
「助かります。私は別件の確認がありますので、少し席を外します」
「はい」
午後三時を過ぎた頃だった。課長はそう言ってスマートフォンを手に立ち上がる。最近では珍しくない光景だったから、俺も特に気に留めず資料へ目を戻した。ところが、数分もしないうちに廊下から課長の声が聞こえてくる。声を抑えて話しているため内容までは分からない。それでも、いつもの電話とは違うことだけは伝わってきた。戻ってきた課長は、スマートフォンを握ったまま自分の席の前で立ち止まった。顔色が悪い。俺は思わず椅子を引いた。
「課長、どうしました?」
「病院からです。祖父の具合が……。今、医師から家族に連絡が入っていて……すぐ来てほしいと言われました」
一度、かなり危ない状態になったことは聞いている。そこから持ち直したと思っていたのに、また悪くなったという。
課長はそれ以上説明せず、机の上にある資料をまとめ始めた。手は動いているのに、いつものように迷いがないわけではない。何度も同じ資料を確認し、鞄へ入れようとして一枚を落とした。拾おうと屈んだところで動きが止まり、課長は小さく息を吐いてから顔を上げた。
「……今日の案件をどうするか、先に整理しないと」
「課長、今は仕事より病院でしょう」
「分かっています。でも、明日の朝一番に先方との確認があります。私が今日中に確認しておかないと、高橋さん一人では判断できない部分が残ります」
「それなら、その部分だけ俺が持っていきます」
「えっ、病院へ?」
「はい。課長が病院へ行くなら、資料も俺が持っていきます。必要なところだけ、その場で確認してもらえばいいでしょう」
仕事を任せることへの迷いと、病院へ急がなければならない焦りが、同じ顔の中に浮かんでいるいるのだろう。課長はすぐには答えなかった。
俺は机の上に残っている資料へ目を向けると、確かに課長の判断が必要な部分はある。でも、全部を課長が抱える必要はない。俺はその資料を手に取る。
「ここ、課長が確認したいのはこの二か所ですよね」
「……はい」
「じゃあ、俺が持っていきます。病院で確認してもらえれば、それで進められます」
「でも、それでは高橋さんの仕事が増えます」
「増えたとしても、今はそっちのほうがいいです。課長が会社に残って仕事をしている間に、病院からまた連絡が来たら、そのほうが困るでしょう」
「……分かりました。お願いします」
「はい」
俺は資料をまとめ直す。これで仕事の問題は片づいた。課長はすぐに病院へ向かえるし、俺は資料を届ければいい。そこまでは、あくまで仕事の話だ。だから俺も、それ以上のことを考えるつもりはなかった。
ところが、課長が鞄を持って会社を出ようとしたところで、手にしていたスマートフォンがまた震えた。画面を見た瞬間、彼女の足が止まる。短い通話を終えたあと、課長はその場に立ったまま目を閉じた。
「今の電話も病院ですか?」
「はい。医師から、できるだけ早く来てくださいと言われました」
「じゃあ、すぐ行きましょう」
「高橋さんは、資料だけ届けてもらえれば……」
「課長一人で行くんですか?」
「そのつもりです」
そう言った課長が歩き出そうとした瞬間、足元がわずかに揺れた。本人は気づいていないのかもしれない。だが、俺には分かった。課長は机へ手をつき、すぐに姿勢を戻したものの、顔色は先ほどより悪くなっている。俺は資料を持ったまま、課長の前へ回った。
「課長、俺も行きます」
「でも……」
「資料を持っていく必要があります。それに、さっきから顔色が悪いです。一人で行かせるほうが心配です」
「病院まで来てもらう理由はありません」
「ありますよ。資料を届ける仕事があります。それに、病院で課長が確認しなきゃいけないところもある。俺が持っていけば、課長は会社に戻らなくて済みます」
課長は黙っていた。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
心配だから一緒に行きたい、とは言わなかった。そんなことを口にするほど、俺たちの関係は近くない。今の俺にできるのは、仕事を理由にして彼女の負担を一つ減らすことだけだった。
「……では、お願いします」
「はい」
その返事を聞いて、俺は資料を鞄へ入れ、二人で会社を出る。外は細かな雨が降っていて、道路には夕方の車が流れていた。駅へ向かう途中、課長は何度もスマートフォンを確認している。俺はその横を歩きながら、病院で必要になる資料を頭の中で整理していた。
今から病院へ行って、課長に確認してもらい、戻ってきてから先方へ連絡する。それなら明日の仕事にも間に合う。付き添うというより、仕事を止めないために一緒に行く。俺はそう考えていた。
駅へ着いたところで、課長が突然足を止めた。
「高橋さん」
「はい」
「……ありがとうございます」
「まだ何もしていませんよ」
「それでも、助かります。今は仕事のことを考える余裕がなかったので」
課長はそう言って、ほんの少しだけ目を伏せた。俺は返す言葉を探したが、うまく見つからない。だから、ただうなずくだけにした。
電車がホームへ入ってくる音が聞こえて、顔を上げる。俺たちは並んで車内へ入り、空いている席に腰を下ろした。課長は窓の外を見たまま、スマートフォンを握っている。その横顔を見ていると、今まで俺が知っていた神谷美月という人間が、少しずつ違って見えてくる。仕事ができる課長でも、強い人間でもない。大切な家族が倒れれば不安になり、誰かの手を借りなければ前へ進めないこともある、一人の人間だ。
俺は何も言わず、隣に座っていた。病院へ行く理由は、ちゃんとある。俺が担当する仕事の資料を届けるためだ。そう自分に言い聞かせながら、それだけではない気持ちが胸の中に残っていることにも気づいていた。
今はまだ、その気持ちに名前をつける必要はない。ただ、神谷課長が一人でこの時間を過ごさなくていいように、俺は隣にいる。それで十分だった。