君を帰すことだけはできない〜北の王太子が五年越しに愛した南の町娘〜
第一章 初恋
1 雨に濡れた心
冷たい雨が、容赦なく頬を打つ。脇腹から滲む血が、雨に溶けて足元に赤い筋を作っていた。呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。敵地アッシュワの城から息を呑むような必死の逃亡を果たしたものの、すでに体は限界を超えていた。
十五歳の少年は、汚れた路地裏の壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちた。雨音だけが響く薄暗い世界。遠くで犬の遠吠えが聞こえる。
(ここで、終わるのか)
ノア・レイ・グレンフォード。十三歳でこの国に「人質」として送り込まれてからの二年間。自由も尊厳も奪われ、ただ生かされているだけの日々。祖国に帰る道も、自分を待つ人間も、もう思い浮かばなかった。雨に打たれながら目を閉じかけた、その時。
「……大丈夫?」
少女の声がした。ノアは反射的に目を見開き、鋭く目を向けた。荒い呼吸を殺し、身体に力を込めるが、指一本動かせない。
薄暗い雨のカーテンの向こうに、柔らかな栗色の髪をした一人の少女が傘もささずに立っていた。ノアと同じくらいの年齢だろうか。緑色の瞳が、怯えることなくノアを真っ直ぐに見つめていた。
「……離れろ」
自分を売り渡そうとする者か、あるいはただの残酷な傍観者か。しかし、少女はノアの警告を無視してしゃがみ込んだ。
「血、出てる……!」
そして、ためらいなく自分の身に着けていた薄手の肩掛けを引き裂き、傷口に押し当てた。
「触れるな……」
「じっとしてて。血が止まらないと……!」
自分の着物が血と泥で汚れるのも構わず、彼女は必死に傷口を押さえる。冷え切ったノアの肌に、少女の指先の微かな温もりが触れた。