婚約破棄されましたが、冷徹御曹司が甘すぎる求婚をしてきます
第一章 婚約破棄の夜
婚約者に会うために口紅を塗り直したのは、いつ以来だろう。
控室の小さな鏡をのぞき込みながら、そんなことを考えた。
薄い紅色を指先でなじませる。華やかすぎないかと一度拭いかけて、やめた。
今日は、お祝いの席なのだから。
それに、直人さんから「これからのことを話したい」と連絡が来ていた。
延びたままになっている結婚の日取り。挨拶に伺うはずだった親戚の予定。二人で決めなければいけないことは、いくつもある。
ようやく話せる。
そう思うと、嬉しさより先に、ほっとした。
「紗弓、そっち向いて」
背後から声をかけられ、振り返る。
真帆が眉を寄せて近づいてきた。私の肩に手を置き、耳の後ろから落ちていた髪をそっと留め直す。
「よし。これで大丈夫」
「ありがとう。自分では見えなくて」
「でしょうね。さっきから、お菓子のほうばっかり見てるんだから」
呆れたように言いながら、真帆は机の上の説明カードを一枚手に取った。
白い紙の上に、細い墨色で『秋灯り』と記されている。
今夜、鷹宮ホテルの創業記念祝賀会で供される、白川堂の菓子だった。
淡い夕空を思わせる練り切りに、四角く切った金箔を一片だけ置いた。日が落ちる頃、遠くの家にともる明かりをイメージしている。
「これ、最初の文章のほうが好きだったな」
「最初の?」
「ほら。帰り道の話が書いてあったやつ」
私はカードの端を見つめた。
――日が短くなる季節に、帰る場所の灯りを。
最初に書いた一文は、結局、使わなかった。
「少し感傷的すぎるかと思って。今日は、ホテルのお祝いだし」
「そうかな。私は、あれを読んでから食べたいと思ったけど」
「お菓子の説明としては、曖昧だったでしょう」
「紗弓は、最後の最後で自分を引っ込めるよね」
思わず顔を上げると、真帆は何でもないことのようにカードを戻した。
「悪いって言ってるんじゃないよ。ただ、せっかく考えたのにもったいないなって」
返す言葉を探していると、控室の扉が控えめにノックされた。
ホテルの担当者が、提供時の確認に来たのだった。
私は鏡を伏せ、すぐに立ち上がった。
「申し訳ありません。こちらの卓だけ、予定より人数が増えておりまして」
若い担当者の手元で、名簿の紙がかすかに揺れている。
開宴までは、あと二十分。
会場の向こうでは、照明の最終確認が行われていた。グラスを並べる音と、低く交わされる指示が重なって聞こえる。
「予備がありますので、数は足ります。まず、増えたお席の位置だけ教えていただけますか」
私が言うと、担当者は目に見えて息をついた。
卓の位置を確かめ、配膳の順序を相談する。菓子の表面が乾かないよう、出す時間も少しだけ調整した。
「説明カードは、こちらをお使いください。口頭でご案内いただく場合は、最後の二行だけで大丈夫です」
「ありがとうございます。本当に助かりました」
「こちらこそ。何かありましたら、控室に真帆がおりますので」
担当者を見送ったところで、バッグの中の携帯電話が震えた。
直人さんからだった。
『着いた。ロビーの奥にいる』
短い文面を読んだ途端、胸の内側が少しだけ忙しくなる。
仕事用の上着を脱ぎ、腕に掛けた。
淡い灰桜色のワンピースは、母が生前、似合うと言ってくれた色に近い。今日のために新しく買ったものではないけれど、直人さんと会うときに着るのは初めてだった。
「行ってきます」
「うん。こっちは任せて」
真帆が片手を上げる。
扉を開けかけた私に、もう一度声がかかった。
「今日は、仕事の顔だけで帰ってこないでね」
意味を考えてから、私は曖昧に笑った。
「そんなに、仕事の顔してる?」
「今は、ちょっと違う」
真帆はそれ以上言わず、私の上着を受け取った。
*
直人さんは、ロビーの奥にある大きな生け花のそばに立っていた。
濃紺のスーツに、光沢を抑えたネクタイ。いつもより少し改まった装いだった。
「お待たせしました」
声をかけると、彼は携帯電話から顔を上げた。
「ああ。忙しかった?」
「準備は、ほとんど終わりました」
視線が一度、私の肩から手元へ落ちる。
何か言ってもらえるかもしれないと思った自分が、少し恥ずかしかった。
「こっちで話そう」
直人さんはロビーの脇へ歩き出した。
宴会場へ続く廊下から少し外れた、椅子が二脚置かれている場所だった。人通りはあるが、立ち止まる人は少ない。
彼は座らなかった。
私も、向かいに立つ。
「これからのことって、結婚式のお話ですか」
尋ねると、直人さんの目がわずかに泳いだ。
その反応を見て、何か予定が変わったのだと思った。
また少し延びるのかもしれない。
だったら、秋の繁忙期を避けて――。
「紗弓」
名前を呼ばれ、考えを止めた。
「先に、謝っておく。申し訳ない」
直人さんが頭を下げる。
胸の奥が、冷たいもので押された。
「……何か、あったんですか」
「結婚の話なんだけど。なかったことにしてほしい」
意味がわからなかった。
なかったこと。
何を、どこまで。
頭の中で言葉を並べ直している間に、直人さんは続けた。
「ほかに、結婚したい人がいるんだ」
廊下の向こうから、誰かの笑い声が聞こえた。
明るく、短い声だった。
私は、その声が消えるまで何も言えなかった。
「以前から知っている人で。最初は、そういうつもりじゃなかったんだけど」
「……その方と、結婚なさるんですか」
「ああ」
はっきりとした返事だった。
相談ではないのだ、とわかった。
私に話す前に、彼はもう決めている。
「それは、私との婚約を解消するということですね」
自分の声が、ひどくよそよそしく聞こえた。
直人さんは頷いた。
「悪いとは思ってる」
彼の右手が、腕時計へ触れた。
時間を確認する仕草だった。
私はその手を見ていた。
去年の誕生日に贈ったネクタイより、二人で食事をした日の記憶より、こんなときにも時計を見るのだということが、妙にはっきりと胸に残った。
「向こうのご両親にも、もう話をしていて。うちからは、近いうちに正式に連絡する」
向こうのご両親。
うち。
そのどちらにも、私はいなかった。
「お父様にも、紗弓から少し話しておいてもらえるかな」
「私から、ですか」
「急に親同士で話すより、そのほうが穏やかだろう?」
穏やか。
私は、指先を重ねた。
バッグの金具が手のひらに当たっている。痛いほどではないのに、そこだけ感覚がはっきりしていた。
「仕事のことにまで影響が出るのは、お互いによくないし。なるべく円満に済ませたいんだ」
直人さんは、私を見た。
困らせないでほしい。
言葉にはされなかったのに、そう聞こえた。
「紗弓なら、感情的にならずにわかってくれると思ってる」
そうですね、と。
いつものように答えかけた。
家のことを考えれば、騒がないほうがいい。
直人さんの気持ちが変わったのなら、引き止めても仕方がない。
わかっている。
わかっているのに、喉が動かなかった。
ふと、弓道のことを思い出した。
結婚の話が決まった頃、稽古を続けてもよいかと、私は彼に尋ねたことがある。
『店の仕事もあるんだし、優先順位は考えたほうがいいんじゃないかな』
直人さんは、そう言った。
やめろとは言われなかった。
だから、自分で決めたことなのだと、ずっと思っていた。
会える日が限られているなら、彼の予定に合わせられるようにしておこう。稽古を休むのは寂しかったけれど、そのぶん二人で過ごせるならと思った。
けれど、稽古へ行かなくなっても、彼が会いに来る日は増えなかった。
「紗弓、聞いてる?」
顔を上げた。
「……はい」
「今日ここで、変に騒ぎになるのは避けたいから」
私は、彼を見つめた。
まだ、一度も責めていなかった。
声だって、荒らげていない。
それでも彼は、私が何を感じたかより、何をするかを心配している。
悲しい、と思った。
結婚がなくなることより先に、困ると言われたようで悲しかった。
***
「相良さん」
明るい声が近づいてきた。
直人さんが、すぐに表情を変えた。
「お久しぶりです。今日は、もう会場へ?」
「ええ。その前にご挨拶をと思いまして」
年配の男性と、淡い色のドレスを着た女性が並んで立つ。
直人さんの仕事関係の方なのだろう。
私は一歩引こうとしたが、彼の手が背中に触れた。
「こちら、白川堂の白川さんです」
婚約者とは、言わなかった。
ほんの少し前までは、その呼び方をされるたびに、背筋を伸ばしていた。
相良直人の婚約者として、きちんと見られなければ。
そう思っていた肩書が、もうなくなっている。
「ああ、今夜のお菓子の。先ほど拝見しましたよ。ずいぶん繊細なものですね」
私は口を開いた。
「ありが――」
息が、途中でつかえた。
吸い直そうとすると、余計に胸が苦しくなる。
お客様の前なのだから。
お礼を言わなければ。
そう思うほど、顔がうまく動かない。
直人さんが背中へ添えた手に、少し力を込めた。
「紗弓、今だけ普通にしてくれる?」
耳元の小さな声だった。
私は頷こうとした。
そのとき。
「少し、お借りしてもよろしいですか」
低い声が、会話の間へ静かに入った。
顔を上げる。
背の高い男性が、すぐそばに立っていた。
仕立てのよい濃い色のスーツ。無駄のない立ち姿。
けれど私が覚えていたのは、その装いではなかった。
弓を置いたあと、しばらく射場を見つめていた横顔。
店で菓子を選ぶとき、私の説明を最後まで聞いてくれた人。
「……鷹宮さん」
名前が、自然にこぼれた。
彼の視線が、私へ向く。
目元がわずかにやわらいだ。
「お久しぶりです」
隣で、直人さんが姿勢を正した。
「鷹宮専務。彼女と、お知り合いでしたか」
……専務?
その言葉と、目の前の人が、すぐには結びつかなかった。
鷹宮さんって、ホテルの仕事をしていると以前、聞いたことがある。
けれど、鷹宮ホテルの――。
「以前、お世話になりました」
彼は短く答えた。
直人さんの手が、私の背中から離れる。
鷹宮さんは、私の顔を見た。
「白川さん。少し、外へ出ますか」
「いえ、彼女は」
直人さんが何か言いかけた。
鷹宮さんは、その言葉を強く遮ることはしなかった。
ただ、視線を私から外さずに待っていた。
私は直人さんを見た。
彼の眉間に、薄くしわが寄っている。
困らせてはいけない。
そう思ったところで、鷹宮さんの声がした。
「あなたが、どうしたいかを聞いています」
廊下の音が、少し遠くなった。
どうしたいか?私が?なぜそんなこと聞くんだろうと思いながらも、唇を開いた。
「……ここから、出たいです」
言ってしまうと、胸の中に少しだけ空気が入った。
鷹宮さんが頷く。
「行きましょう」
差し出された手を、私は見つめた。
迷ったのは、ほんの一瞬だった。
自分の指を、その手へ重ねる。
温かい手だった。
ラウンジの奥は、驚くほど静かだった。
低い照明の下で、窓の向こうの夜景が淡く光っている。
スタッフの方が椅子を引いてくれた。
私は礼を言って座り、膝の上で両手を重ねた。
鷹宮さんが向かいに座る。
誰も、先ほどのことを尋ねなかった。
それがありがたくて、同時に、何か説明しなければと思った。
「申し訳ありませんでした」
彼が顔を上げる。
「ご挨拶の途中で、あのような……。鷹宮さんにも、ご迷惑を」
「迷惑ではありません」
静かな返事だった。
言い聞かせるようでも、慰めるようでもない。
私は頷いたが、重ねた指をほどけずにいた。
「温かいものは、飲めそうですか」
「はい」
「お茶で?」
「……お願いします」
彼がスタッフへ声をかける。
そのやり取りの間、私は彼の横顔を見ていた。
三年前より、少し痩せただろうか。
以前から落ち着いた人だったけれど、今は、その静けさに別の重みがある。
「鷹宮さん、ですよね?」
確かめるように言うと、彼がこちらを向いた。
「覚えていてくれた?」
「はい。道場で、ご一緒していましたから」
彼の表情が、ほんの少し変わった。
ほっとしたようにも見えた。
「白川堂にも、よくいらしてくださいました」
「お菓子がおいしかったから」
「ありがとうございます」
いつもの言葉なら、口にできた。
頭を下げた拍子に、膝の上の手が目に入る。
指輪はしていなかった。
仕事のときは外すことが多くて、今日もバッグの小さな内袋へ入れていた。
直人さんに、返さなければ。
そう考えた瞬間、喉の奥が痛くなった。
「白川さん」
顔を上げる。
鷹宮さんは、何かを察したようだった。
けれど、急かさなかった。
私は唇を湿らせた。
「婚約を、解消することになりました」
言葉にすると、不思議なほど簡単だった。
あれほど長く、私の暮らしの真ん中にあったものなのに。
「そうですか」
「先方にも、事情があって。私も、もう少し、きちんとお話をしておけば――」
何を話しておけば、違っていたのだろう。
会いたいと言えばよかったのか。
寂しいと伝えれば、気持ちを変えずにいてくれたのか。
考えても、わからない。
「円満に、終わらせたほうがいいのだと思います。家のこともありますし。直人さんも、そのほうが」
「白川さん」
鷹宮さんの声が、私の言葉を止めた。
強くはなかった。
それでも、続きを探していた口が閉じる。
「あなたは、悲しくなかった?」
私は、彼を見た。
悲しいかどうか。
そんなことを、答えてもいいのだろうか。
もう決まったことなのに。
私が悲しいと言ったところで、何か変わるわけではないのに。
鷹宮さんは待っていた。
私が、何か役に立つ返事をするのではなく。
ただ、私の返事を。
「……悲しかったです」
声が、思ったより小さかった。
けれど、ちゃんと聞こえたらしい。
彼が頷いた。
それだけで、目の奥が熱くなった。
「私、ちゃんと……」
続けようとして、言葉が崩れた。
何を、ちゃんとしていたのだろう。
迷惑をかけないように。
都合を合わせられるように。
彼が困らないように。
それは、二人で生きていく準備ではなく、一人で待つ練習だったのかもしれない。
涙が落ちた。
慌ててバッグを開こうとしたが、留め具に指が引っかかる。
白いハンカチが、目の前へ差し出された。
「使ってください」
受け取ろうとした指が、かすかに震えた。
「すみません」
鷹宮さんは、首を横に振った。
「今は、それを言わなくて大丈夫」
その声を聞いたら、もう、止められなかった。
運ばれてきたお茶の湯気が、細くなっていた。
私はハンカチを畳み直し、目元を押さえた。
泣いたあとは、身体の中が少し空っぽになったようだった。
「……お見苦しいところを」
「見苦しくはありませんでした」
鷹宮さんは、すぐに答えた。
私は困って、カップへ目を落とす。
ひと口飲むと、温かさが喉を通った。
ようやく、肩に力が入っていたことに気づく。
「お茶、おいしいです」
「よかった」
彼もカップを持った。
しばらく、何も話さずにいた。
沈黙が苦痛ではないことを、私は覚えていた。
道場でも、そうだった。
無理に話題を探さなくても、この人は退屈そうな顔をしなかった。
「ホテルの、お仕事をなさっているとは伺っていましたけれど」
私が言うと、鷹宮さんが視線を上げる。
「先ほど、専務と……」
「はい」
「鷹宮ホテルの、鷹宮さんだったんですね」
口にしてから、ずいぶん間の抜けた言い方だったと気づいた。
けれど彼は笑わなかった。
「当時は、詳しく話さなかったから」
「存じ上げず、いろいろと失礼なことを申し上げたかもしれません」
稽古がうまくいかなかった日に、自分の練習帳を見せたことがある。
今思えば、頼まれてもいないのに、偉そうな話をしたのではないだろうか。
胸が落ち着かなくなったところで、彼が言った。
「知らないまま話してくれたことが、嬉しかった」
私は顔を上げた。
鷹宮さんは、カップを静かに置く。
「だから、今も、できれば以前と同じように話してほしい」
「……努力します」
正直に答えると、彼の口元がわずかにゆるんだ。
「それで十分です」
その笑い方を見て、少しだけ三年前へ戻った気がした。
「今日は、お仕事でお忙しいところを引き止めてしまったのでは」
「挨拶は済ませています。それに、話せてよかった」
彼はそこで一度、視線を会場のほうへ向けた。
「今日のお菓子、いただきました」
「秋灯り、ですか」
「ええ。白川さんが考えたものでは?」
「どうして、おわかりになったんですか」
思わず聞き返すと、彼は少し考えた。
「季節が変わる、少し手前の景色だったから」
私は言葉を失った。
「以前、店で説明してくれたお菓子も、そういうものが多かった。桜そのものより、咲く前の枝だったり。雪より、雪が降りそうな空だったり」
「そんなことまで……」
「違いましたか」
私は首を横に振った。
「自分では、あまり意識していませんでした。でも、そうかもしれません」
鷹宮さんが頷く。
「餡の香りも、前にいただいたものより控えめでしたね。最初に感じるものを、色にしたかったのかなと思った」
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
綺麗だね、と言われたことはある。
器用だね、と褒めてもらったことも。
けれど、どうしてその形にしたのか、何を先に感じてほしかったのかまで考えて食べてくれる人がいるとは、思わなかった。
「……はい。口に入れる前に、少しだけ立ち止まっていただけたらと思って」
「立ち止まりました」
彼は、私を見る。
「綺麗でした」
お菓子の話だとわかっているのに、なぜか胸が鳴った。
私はお茶を飲もうとして、カップの持ち手にうまく指を掛けられなかった。
「よく、覚えていらっしゃいますね。三年も前のお話なのに」
鷹宮さんの返事が、一拍だけ遅れた。
「記憶力だけはいいんだ」
穏やかな声だった。
けれど、その言葉のどこかに、触れてはいけないものがある気がして、私はそれ以上尋ねられなかった。
その後、帰りの車を手配してもらってラウンジを出た。
直人さんからは、一度だけ連絡が入っていた。
【落ち着いたら連絡して】
私は画面を閉じた。
今夜は、まだ返事をしなくてもいい。
そう思えたのは、さっき自分の悲しさを口にできたからかもしれない。
車寄せへ出ると、夜の空気が頬に触れた。
泣いた目元に、その冷たさが気持ちよかった。
鷹宮さんが隣に立つ。
「お車が来るまで、少しだけ」
「ありがとうございます。ここまでしていただかなくても……」
言いかけて、私は口を閉じた。
していただかなくても大丈夫。
今日は何度、そう言おうとしただろう。
大丈夫ではないから、助けてもらったのに。
「ご親切にしていただいて、ありがとうございました」
言い直すと、鷹宮さんが私を見た。
返事がない。
何か失礼だっただろうかと顔を上げる。
彼は、少し困ったような表情をしていた。
「親切だけでは、ないと言ったら?」
意味がわからず、私は瞬きをした。
「……え?」
車寄せの向こうで、黒い車が一台、ゆっくりと進んでいく。
スタッフの方が扉を開け、別の招待客を送り出した。
その音が遠ざかるまで、鷹宮さんは何も言わなかった。
言葉を選んでいるのだと、わかった。
「今夜、こんな話をするべきではないのかもしれない」
低い声だった。
「それでも、また黙ってしまうのは、違うと思うから」
また。
その言葉の意味を考える前に、彼がこちらへ身体を向けた。
「今日、返事を求めるつもりはありません。落ち着いてからでいい」
「何の、お話でしょうか」
鷹宮さんの目が、まっすぐに私を捉えた。
「俺との結婚を、考えてほしい」
言葉が、すぐには形にならなかった。
……結婚?
「……どなたの、お話ですか」
自分でもおかしな質問だとわかった。
それでも、ほかに言葉が出てこなかった。
鷹宮さんは笑わずに答えた。
「俺と、白川さんの話です」
胸の鼓動が、一つ大きく跳ねた。
「ですが、私は、今……」
「わかっています」
「先ほど、あのようなお話をしたばかりで」
「だから、今は答えなくていい」
彼の声は静かだった。
急がせる響きは、どこにもない。
それなのに、冗談ではないことだけは、はっきりとわかった。
「なぜ、ですか」
ようやく、それだけを尋ねた。
鷹宮さんの視線が、一度、私の手元へ落ちる。
握り締めていたバッグに気づき、私は少しだけ指をゆるめた。
「あなたと、これからの時間を過ごしたいから」
息が止まる。
そんなふうに、言われたことがなかった。
家同士の都合でもなく。
店の将来でもなく。
私が何をできるかでもなく。
一緒に時間を過ごしたい、と。
「急に、信じられないと思います」
鷹宮さんが内ポケットから名刺入れを取り出した。
一枚のカードの裏へ、番号を書き添える。
「これは、個人の連絡先です。少しでも話をしてもいいと思えたら、連絡をください」
差し出された名刺を、私は両手で受け取った。
そこには、先ほど直人さんが口にした肩書が印刷されている。
【鷹宮ホテルズ 専務取締役 鷹宮怜司】
知っていた名字の下に、初めて名前を見た。
怜司さん。心の中で読んだだけなのに、ひどく近いものに触れた気がした。
「お断りしても、よいのですか?」
聞いたあとで、なんて失礼なことをと青ざめる。
けれど彼は、当然のように頷いた。
「もちろん」
「家に、お話がいったりは……」
「あなたの返事を聞く前に、こちらから話を進めることはしません」
胸の奥にあった緊張が、わずかにほどける。
「会いたくないと思ったら、それも伝えてください。それで、あなたやお店を困らせることはしない」
私は名刺を見つめた。
断ってもいい。
考えてもいい。
何より、私の返事を待ってくれる。
差し出されたのは、行き先の決まった道ではなかった。
まだ、選んでいない未来だった。
「……今は、何も、うまく考えられません」
「うん」
「でも、お言葉を、なかったことにはしたくありません」
顔を上げる。
鷹宮さんの表情が、わずかに動いた。
「考える時間を、いただけますか」
「もちろん。待っています」
そのとき、手配された車が静かに止まった。
スタッフの方が扉を開ける。
私は鷹宮さんへ頭を下げ、乗り込んだ。
扉が閉まる直前、彼が少し身をかがめる。
「今夜は、温かくして休んでください」
結婚を申し込んだ人の、次の言葉がそれだった。
私は、ようやく小さく笑えた。
「……はい。ありがとうございます」
彼も、ほんの少し笑った。
***
車が走り出す。
窓の向こうで、ホテルの明かりが遠ざかっていった。
あの建物へ入ったとき、私は直人さんとの結婚の日取りを考えていた。
母の形見の帯を、顔合わせで使えるだろうか。
店の忙しい時期を避けるなら、いつがいいだろう。
自分の望みより先に、いくつもの都合を並べていた。
その未来は、もうない。
悲しくないわけではなかった。
ふとした瞬間に、直人さんの声がよみがえる。
今だけ普通にしてくれる?
私は膝の上で手を重ねた。
その間に、硬い紙の感触がある。
名刺だった。
裏返すと、手書きの番号が並んでいる。
整っているのに、印刷とは違う、わずかな線の揺れがあった。
これからの時間を過ごしたい。
思い出すと、まだ胸が落ち着かない。
なぜ、私なのだろう。
わからない。
彼が何を考え、何を望んでいるのか、私はほとんど知らない。
それでも。
泣いている間、急かさずに待ってくれたこと。
菓子に込めた、私自身も忘れていたような思いを、覚えていてくれたこと。
どうしたいかと、尋ねてくれたこと。
その一つ一つは、確かに今夜、私に起きたことだった。
窓に映った自分の顔を見る。
口紅は、ほとんど落ちていた。
けれどもう、塗り直そうとは思わなかった。
私は名刺を、バッグの中へしまう。
直人さんの指輪が入った内袋とは、別の場所に。
そして窓の外へ目を向けた。
夜の街には、いくつもの明かりがともっている。
そのどれかが、誰かの帰る場所なのだと、ぼんやり思った。
失くしたものばかりを数えていた夜に。
私は、まだ名前のつかない未来を渡されていた。
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