婚約破棄されましたが、冷徹御曹司が甘すぎる求婚をしてきます
第二章 あなたと結婚する理由




 翌朝、いつもの時間に目が覚めた。

 見慣れた天井も、カーテンの隙間から入る光も、昨日までと変わらない。

 枕元で携帯電話を確かめる。

 直人さんから、夜のうちにもう一通、連絡が来ていた。

【昨日はちゃんと話せなくて悪かった。お父様への説明、よろしくお願いします】

 私はしばらく、その文章を見つめていた。

 ちゃんと話せなかった。

 直人さんにとって、昨日の会話はそういうものだったらしい。

 謝っているのだから、返事をしなければ。そう思って画面に指を置いたところで、手が止まった。

 何と返せばいいのだろう……

 “わかりました”?

 “父には私から伝えておきます”?

 きっと、いつもならその二行を送っていた。

 私は画面を消した。先に着替えよう。今日やらなければならないことを、一つずつ考える。それだけで、少し呼吸がしやすくなった。

 鏡の中の目元は、思ったほど腫れていなかった。

 それなのに、顔を洗っている途中で急に涙が出た。

 水と一緒に流れるのを、しばらくそのままにした。

     


  ***


 白川堂の朝は早い。

 一階の工房から、蒸気の上がる音が聞こえていた。炊き上がった餡の匂いが、階段の途中まで届いている。

 二階の事務室では、父がすでに帳簿を開いていた。

「おはようございます」

「おはよう。昨日は遅かったな」

 父は眼鏡を少しずらして、私を見た。

「ホテルのほうは、どうだった」

「無事に終わりました。追加になったお席のぶんも、予備で足りましたので」

「そうか。先方からも礼の連絡が来ていた」

 父は机の端にある封筒へ手を伸ばした。

 いつもなら、そのまま今日の仕事の話になる。

 私は扉を閉めた。

「お父さん。少し、お話があります」

 父の手が止まる。

 私は椅子を引かず、扉の前に立ったまま続けた。

「直人さんから、婚約を解消してほしいと言われました」

 父が、ゆっくりと眼鏡を外した。

「……何だって?」

「ほかに、結婚したい方がいるそうです」

 声に出すと、昨夜よりも現実味があった。

 父の顔に、戸惑いと怒りが順に浮かぶ。

「そんな話は聞いていないぞ」

「近いうちに、先方から正式なご連絡があると」

「近いうちにって、あちらはお前にだけ話をしたのか」

 私は頷いた。

 父は机の上へ眼鏡を置いた。少し強い音がした。

「まったく、何を考えているんだ。相良さんにも一度――」

 言いかけて、父が私を見る。

「お前は、何と答えた」

「まだ、きちんとは」

「そうか。まあ、昨日の今日ではな……」

 父は眉間を押さえた。

「ただ、取引のこともある。先に親戚から妙な話が入ると厄介だ。説明はそろえておかないと」

 聞き慣れた口調だった。

 店を預かる人として、父がそう考えるのは当然なのかもしれない。

 私も、すぐに必要なことを考え始めた。

 伯母には先に連絡したほうがいい。年明けに予定していた両家の食事も断らなければ。すでに話が伝わっている取引先には――。

「私から、皆さんに」

 言いかけて、喉が詰まった。

 昨日も、同じことを頼まれた。

 困らないようにしてほしい、と。

 机の向こうで、父が続きを待っている。

 私は手を握った。

「……お父さん」

「うん?」

「まだ、うまく説明できるほど、落ち着いていません」

 父が目を見開いた。

 自分でも驚いた。

 こんなふうに言うつもりで、ここへ来たわけではなかった。

「頭では、わかっているんです。連絡しなければいけないところがあることも、お店に影響が出ないようにしなければいけないことも」

 声が震えないよう、ゆっくりと息を吸った。

「でも、今はまだ、直人さんと別れる理由を、誰にでも話せる気がしません」

 父は黙っていた。

 階下から、誰かが作業台を拭く音がする。

「直人さんとは、結婚しません」

 私は言った。

「ただ、私にも至らないところがあったから、という話にして終わらせるのは……嫌です」

 最後の言葉を口にするのに、思った以上の力が要った。

 父が椅子の背にもたれる。

 長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。

「お前に、そうしろと言ったつもりはない」

「はい」

「……だが、そう聞こえたか」

 私は返事をしなかった。

 父は一度、机の上を見てから、また私へ顔を向けた。

「相良家との話は、私がする。お前が今すぐ連絡する必要はない」

 胸の奥にあったものが、少しゆるんだ。

「ありがとうございます」

「その……」

 父が言葉を探す。

 商談では迷わず話す人なのに、こういうときは急に不器用になる。

「何か、食べたか」

 私は首を横に振った。

「じゃあ、先に食べなさい。仕事は、それからでいい」

 頷いて、事務室を出た。

 廊下へ出てから、壁に手をつく。

 足に、少し力が入らなかった。

 鷹宮さんのことは、話さなかった。

 父が知れば、驚くだろう。喜ぶかもしれないし、心配するかもしれない。

 けれど、先に家の話になってしまったら。

 私自身がどう思っているのか、また見失ってしまいそうだった。

 今はまだ、私の手元に置いておきたかった。



  ***


「紗弓?」

 階段を下りる途中で、真帆が顔を上げた。

 出勤してきたところらしく、片手に通勤用のバッグを持っている。

 私の顔を見ると、何も尋ねずにバッグを棚へ置いた。

「ちょっと、こっち来て」

 連れていかれたのは、従業員用の小さな休憩室だった。

 真帆は電気ポットから湯を注ぎ、湯呑みを私の前へ置く。

 焙じ茶の香りがした。

 昨夜も、温かいものを出してもらった。

 そんなことを思ったら、また目が熱くなった。

「直人さんと、何かあった?」
「……どうしてわかるの?」
「顔を見ればわかるわよ、しっかりと書いてあるわ」

 私は「えっ」と驚いた。

 言葉にする前に、真帆が向かいへ座る。

 立ったまま聞かないでいてくれたことが、ありがたかった。

「婚約をね、解消することになったの」

 真帆の表情が変わった。

「えっ!? え、……昨日?」

「うん」

 話し終えるまで、真帆は一度も口を挟まなかった。

 私が、直人さんの言ったことをなるべく正確に伝えようとしていると、途中で眉を寄せた。

 けれど、その理由を私へ説明させたりはしなかった。

「そうなんだ」

 最後に、そう言った。

 私は湯呑みを持ったまま頷く。

「ごめんね。朝から、こんな話」

「謝るところじゃないでしょ」

 真帆は机に肘をつきかけて、やめた。

「今、何か言うと、たぶん直人さんの悪口になるから。少し待って」

 思いがけない言い方に、私は小さく息を漏らした。

 笑ったのだとわかるまで、一瞬かかった。

 真帆も、少しだけ口元をゆるめる。

「昨日、帰る前に会えればよかったね」

 私は首を横に振った。

「誰かに、助けてもらえた?」

 その問いに、鷹宮さんの顔が浮かんだ。

 どうしたいかと聞いてくれた声。

 差し出された手。

「……うん」

「なら、よかった」

 真帆はそれ以上、誰だったのかを聞かなかった。

 私は湯呑みを両手で包む。

「つらかった」

 声にすると、思ったより幼い響きになった。

 真帆は頷いた。

「うん」

「ちゃんと、悲しかったの」

「うん。そりゃ、そうだよ」

 当たり前のように言われて、ようやく肩の力が抜けた。



 その日は、できるだけ普段通りに働いた。

 予約の確認をして、職人と翌週の仕込みを相談する。店頭に立ち、お客様の話を聞く。

 仕事があることに、救われる時間もあった。

 けれど、ふと手が空くと、昨夜の言葉が戻ってくる。


 『俺との結婚を、考えてほしい』


 そのたびに、現実のことだったのか確かめたくなった。

 帰宅後、バッグから名刺を取り出した。印刷された名前を指でなぞりかけ、手を止める。

 個人の連絡先が書かれた裏面を見た。

 彼は私を助けてくれた。

 泣いている間、待っていてくれた。

 そのことには、きちんと礼を伝えたい。

 結婚の話とは別に。

 私は携帯電話を開いた。


【昨夜は、ご厚意を賜り】

 打ちかけて、消す。取引先へ送る挨拶のようだった。

【身に余るお言葉までいただき】

 これも、消した。……身に余る。

 そう言ってしまえば、話は簡単になる気がした。

【私にはふさわしくありません。ご親切にありがとうございました。】

 それで終わらせれば、これ以上、知らないことを考えなくて済む。

 けれど、昨夜、私は自分で言ったのだ。

 お言葉を、なかったことにはしたくありません、と。

 机に携帯電話を伏せた。

 まだ、一晩しか経っていない。

 今日、答えを出す必要はない。

 私はお風呂に入り、髪を乾かし、明日の服を用意した。

 そのあとでもう一度名刺を見たけれど、その夜は何も送らなかった。

     



 三日目の昼休み。私は、店の裏口にある小さな椅子へ座っていた。

 空は薄く曇り、隣の家の植木が塀の上で揺れている。

 直人さんには、父から連絡することを伝えた。

 返信はすぐに来た。

【わかった。ありがとう】

 それを読んだとき、悲しさと一緒に、わずかな安堵があった。

 もう、彼の言葉の続きを待たなくていい。

 携帯電話を持ち直す。

 鷹宮さんの連絡先を開いた。

 何度も書き直した末に、短い文章が残った。

【白川紗弓です。先日はありがとうございました。落ち着いてお話しする時間を、いただけますか?】

 読み返す。

 結婚を承諾したわけではない。

 断るための約束でもない。

 私は、あの人と話してみたい。

 それだけは、自分でわかっていた。

 送信した。だが直後に、不備がなかったか気になって、もう一度文章を確かめた。

 昼休みが終わるまで、返事は来なかった。

 午後は店に立った。

 携帯電話を休憩室へ置いたのは、お客様の前で気にしないようにするためだった。

 閉店後、棚の在庫を確かめていると、真帆が声をかけた。


「紗弓、今日、何か待ってる?」


 私は振り返った。


「どうして?」
「休憩室のほうを見るから」

 自分では気づいていなかった。真帆の目が、少し細くなる。


「悪い連絡?」


 私は考えてから、首を横に振った。


「そうじゃ、ないと思う」

「じゃあ、見てくれば? ここ、あと少しだから」


 礼を言い、休憩室へ戻る。

 画面に、知らない番号からの通知があった。

 開いた瞬間、胸が小さく跳ねた。


【鷹宮です。会議が長引いて、返事が遅くなりました。もちろん。連絡をもらえて嬉しい。都合のよい日を教えてください】


 私は、その場に立ったまま読み返した。

 嬉しい。

 その一語で、待っていた時間の落ち着かなさまで、やわらいでいく。

 自分が何を期待していたのか、少しだけわかった気がした。



  ***


 会う日は、その週の土曜日に決まった。

 私は午前の仕事を終えれば、午後に少し時間が取れる。

 そう伝えると、鷹宮さんから場所の希望を尋ねられた。


【落ち着けるところはありますか?】


 私は、すぐにホテルのラウンジを思い浮かべた。

 彼にとっては、そのほうが便利だろう。

 そう書こうとして、画面の言葉をもう一度見た。

 落ち着けるところ。

 私が、という意味だろうか。

 迷った末に、以前から気になっていた茶房の名前を送った。

 菓子の組み合わせに工夫のある、小さな店だった。

 仕事の参考に一度訪れてみたいと思いながら、通り過ぎるばかりだった場所。


【私もまだ伺ったことがないのですが、こちらはいかがでしょうか】


 返事は短かった。


【そこにしよう。予約できるか、確認します】


 私は画面を見つめた。

 もっと別の場所を提案されると思っていた。

 交通の便や、個室の有無を考えて、彼にふさわしい店へ変わるのだと。

 そのあとに、もう一通届く。


【教えてくれて、ありがとう】


 お礼を言われるようなことをしたのか、少し考えた。

 ただ、自分が行きたい店を挙げただけだった。

   

 土曜日の午後、私は約束より十五分早く茶房へ着いた。格子戸の向こうに、小さな庭が見える。

 入口の横には、今日の菓子と茶の名前が書かれていた。

 その文字を読んでいるふりをしながら、息を整える。

 仕事帰りの服装でよかったのだろうか。

 紺のワンピースは地味すぎなかっただろうか。

 そんなことを考えたところで、昨夜、一度決めたはずでしょうと自分に言い聞かせる。

 今日は、話をしに来たのだ。


「白川さん」


 振り返る。

 鷹宮さんが、数歩先に立っていた。

 祝賀会のときよりもやわらかい色のジャケットを着ている。ネクタイはしていなかった。

 それだけで、少し印象が違った。


「お待たせしました」
「いえ、私が早く来すぎてしまって」
「俺も、そのつもりだったんだけど」

 彼が腕時計を見て、小さく笑った。


「先を越されましたね」


 その言い方に、緊張が少しほどけた。

 店へ入り、庭の見える席へ案内される。

 向かい合って座ると、鷹宮さんは私の顔を見た。


「その後、少しは休めましたか」
「はい。ありがとうございます」

 昨日の売上でも、父の返事でもなく。

 最初に聞かれたのは、私のことだった。

 私は膝の上の手を、そっとほどいた。

 注文を済ませ、店の方が離れていく。

 茶を淹れる湯の音が、奥からかすかに聞こえた。

「連絡をくれて、ありがとう」

 鷹宮さんが言った。

「こちらこそ。お忙しいところ、お時間をいただいて」
「会いたいと言ったのは、俺だから」

 まっすぐに返され、私は一瞬、言葉に詰まった。

 けれど今日は、そのまま曖昧に笑って終わらせたくなかった。


「あの、鷹宮さん」
「はい」
「いくつか、お聞きしてもよいでしょうか」
「もちろん」

 彼は椅子へ深くもたれず、私の話を待った。

 私は一度、庭へ目を向けた。

 葉の先から、小さな雫が落ちる。

 さっきまで、雨が降っていたらしい。


「先日のお話は……本当に、私との結婚を考えてくださっている、ということでよいのですか」
「はい」

 返事に迷いがなかった。

 私は彼へ視線を戻す。

「私の家に、何かご事情があるのでしょうか。それとも、お仕事のことで」

 口にしてから、失礼な尋ね方だったかもしれないと思った。

 だが、彼は不快そうにはしなかった。

「そう考えますよね。急な話だったから」

 少しだけ間を置く。

「家から縁談を勧められることはあります。でも、その話を断るために、白川さんへ申し込んだわけではありません」

 私は黙って聞いた。

「白川堂と仕事をご一緒する機会が、今後あるかもしれない。けれど、それと結婚は別です。あなたが断ったから取引をしないとか、承諾してくれたから何かを約束するとか、そういう話にはしません」

 言葉が、一つずつ置かれていく。

 私が不安に思っていることを、彼は面倒がらずに説明してくれた。

「それでは、なぜ……」

 同じ質問を、またしてしまう。

 鷹宮さんは、今度はすぐに答えなかった。

 庭から、私へ視線が戻る。

「以前から、あなたに好意がありました」

 私は息を止めた。

 湯の音も、隣の席の話し声も、一瞬、耳に入らなくなる。

「三年前、ということでしょうか」
「ええ」
「でも、私たちは」

 言いかけて、続きが出てこなかった。

 道場で会って、少し話をした。

 店に来てくださったとき、菓子を説明した。

 それだけ、だったはずなのに。


「もっと、あなたと話してみたいと思っていた」


 鷹宮さんの声は、あの夜と同じように静かだった。


「今も、そう思っています」


 運ばれてきた茶の香りに、ようやく呼吸を思い出した。

 私は湯呑みを見下ろしたまま、動けなかった。

 この人は、私の知らない時間の中で。

 私に、もう一度会うことを、望んでくれていたのだ。


 湯呑みの縁から、細い湯気が上がっていた。

 私はそれを目で追いながら、何と答えるべきか考えた。

 嬉しい、と言ってもいいのだろうか。

 まだ、自分の気持ちさえわからないのに。


「……気づきませんでした」


 ようやく出たのは、そんな言葉だった。

 鷹宮さんは小さく頷いた。


「伝えていなかったから」
「でも、何度もお店にいらしてくださっていたのに」
「お菓子が好きで来ていたのも、本当です」

 私が顔を上げると、彼は少しだけ口元をゆるめた。

「だから、そこは信じてください」

 その言い方に、肩からわずかに力が抜けた。
 店で交わした会話まで、全部、違う意味に置き換えなければいけないわけではない。彼は菓子を選び、私は説明した。その時間の中に、私の知らなかった気持ちがあった。

 今は、そう受け止めておけばよいのかもしれない。
 店の方が、二人の前へ菓子皿を置いた。

 薄い琥珀色の菓子と、小ぶりな生菓子が一つずつ。色を抑えた皿の上で、互いを引き立てている。

 普段なら、まず組み合わせの意図が気になるところだった。

 けれど今日は、目の前の人から意識を離せなかった。


「あの」
「はい」
「私は、鷹宮さんのお役に立てるような人間では、ないと思います」


 口にすると、思っていた以上に重い言葉だった。

 鷹宮さんの表情が、わずかに変わる。

 それでも彼は、何も言わずに続きを待った。


「お家のことも、お仕事のことも、ほとんど存じ上げません。あのような席での振る舞いにも、慣れていませんし」


 自分を低く言いたいわけではなかった。

 ただ、彼が私について何か誤解しているのなら、今、伝えておかなければと思った。


「店でも、まだ父や職人に教わることばかりです。できないことも、たくさんあります」


 言い終えると、恥ずかしくなった。

 頼まれてもいないのに、自分に足りないものを並べている。

 鷹宮さんはしばらく私を見てから、口を開いた。


「役に立つかどうかで、結婚相手を決めたいわけではありません」


 責める響きはなかった。


「それに、俺も白川さんの生活をほとんど知らない。店が忙しい時期も、家でどう過ごすのが好きかも、まだちゃんと聞いていない」


 私は顔を上げた。


「知らないことが多いのは、お互い同じです」


 彼の指が、湯呑みの脇へそっと置かれる。


「家の付き合いで、相談しなければならないことはあると思う。あなたに負担をかけることも、きっとある。それを、何も心配しなくていいとは言えません」


 その言葉を聞いて、かえって少し安心した。

 何も困らない結婚など、ないのだろう。

 けれど、困ったことが起きる前から、なかったことにしない人なのだと思った。


「だから、知る時間をもらいたいんです」


 鷹宮さんが、まっすぐに言う。


「俺といることが負担だと感じたら、それも教えてほしい」


 私は膝の上で重ねていた指を動かした。

 返事を待ってくれることが、怖くなくなってきた。

 そのぶん、いい加減な答えでは済ませたくなかった。


「すぐに、結婚のお返事はできません」
「はい」
「まだ、うまく考えられなくて。直人さんとのことも、終わったばかりですし」

 彼は頷いた。

 その顔に失望がないか、つい探してしまう。

 鷹宮さんは、私が次の言葉を選ぶのを待っていた。


「でも」


 私は息を吸った。


「あなたのことを、もう少し知りたいです」


 言った途端、胸が大きく鳴った。

 それは誰にも頼まれていない、私自身の希望だった。

 鷹宮さんの目元が、やわらぐ。


「それで十分です」


 彼は少し間を置いてから、続けた。


「次に会う約束をしてもらえますか」


 私は、今度は迷わず頷いた。



 それから、週に一度ほど会うようになった。

 仕事帰りに食事をする日もあれば、私の休憩に合わせて、短くお茶を飲む日もあった。最初のうちは、会う前に話題を考えていた。ホテルの改装について尋ねてもよいだろうか。
 忙しい時期に、店の小さな出来事を話して退屈させないだろうか。

 けれど、用意した話題を順番に使った日は、一度もなかった。


「今日は、少し眠そうですね」


 三度目に会った夜、鷹宮さんが言った。

 私は慌てて背筋を伸ばした。


「申し訳ありません」
「謝ってほしくて言ったんじゃなくて。忙しかった?」
「試作が、少し長引いてしまって」
「どんなものを?」

 季節の栗菓子だった。

 栗の香りを生かしたいのに、餡と合わせると、狙った味から遠ざかってしまう。

 私は簡単に説明するつもりで、話し始めた。


「甘さを減らせばよいというものでもなくて。冷めたときに、食感が変わるんです」

「店で食べるときと、持ち帰って食べるときでも違う?」

「はい。ですから、職人は、少し硬めに仕上げたほうがいいと言っていて。でも私は、最初の口当たりをもう少し――」


 そこまで言って、口を閉じた。

 鷹宮さんが、私を見ていた。

 話しすぎた。

 そう思った途端、顔が熱くなる。


「すみません。こんなお話ばかり」
「その先は?」
「え?」
「最初の口当たりを、どうしたいのか聞きたい」


 私は、膝の上へ視線を落としかけた。

 けれど、彼が本当に続きを待っているとわかって、もう一度顔を上げる。


「……噛む前に、少しほどけるようにしたいんです」


 鷹宮さんは頷いた。


「それなら、確かに硬くするだけでは違うんですね」
「はい」

 思わず、返事に力が入った。

 それが自分でもおかしくて、少し笑ってしまう。

 彼も笑った。


「今の話をしているときが、一番楽しそうだった」


 恥ずかしくなって、手元のグラスに触れた。

 冷たい水をひと口飲む。


「仕事のことになると、つい」
「好きなんですね」

 私は頷いた。

 それから、彼の前に運ばれてきた食後の菓子を見た。

 小さな皿に、三種類の焼き菓子が載っている。


「鷹宮さんは、どのようなものがお好きですか」
「甘いもの?」
「はい。以前、お店ではいろいろ召し上がってくださっていたので」

 彼は皿を見て、少し考えた。


「香ばしいものが好きかな。香りが強すぎるものは、少し苦手です」
「では、あの菓子は」


 記憶がつながり、私は思わず言った。

 彼が目を上げる。


「何か、心当たりが?」
「春に出していた、花の香りを移したお菓子です。いつも一度ご覧になってから、別のものを選ばれるので」


 鷹宮さんの手が止まった。


「覚えていたんですか」
「毎回、少しだけ迷っていらしたので。お勧めしようかと思ったことが、何度かありました」


 彼は私を見つめ、それから視線を皿へ落とした。
 口元が、わずかに動く。


「そうか」

 小さな声だった。何だか大切な返事を受け取ったような顔をするので、私は戸惑った。


「何か、失礼なことを」
「いいえ」

 彼は顔を上げた。

「こちらも、見てもらっていたんだなと思って」

 胸が、不意に温かくなった。あの頃、私が彼の来店を覚えていたことも、嬉しいと思ってくれる。それが意外で、少しだけ落ち着かなかった。


「今の試作ができたら、食べていただけますか」


 考えるより先に、口にしていた。鷹宮さんが頷く。


「ぜひ」

「お口に合うかは、まだわかりませんけれど」

「楽しみにしています」

 次に会う理由を、自分から一つ作っていた。

     *

 約束の日、店で包装機の調子が悪くなった。午後に受け渡す予定のまとまった注文があり、手作業で対応しなければならなくなる。人数を分け、店頭を真帆に任せて、私は奥の作業台へ回った。受け渡しには間に合った。

 けれど、ほかの作業が後ろへずれ込んでいた。壁の時計を見上げる。鷹宮さんとの待ち合わせまで、あと二十分。今から出れば間に合うかもしれない。

 そう考えて、作業台の上を見た。確認の終わっていない伝票と、明日の予約分の資材が残っている。

 ここで焦って手を離せば、誰かが困る。


「紗弓、あとは私が」


 真帆が声をかけてくれた。私は首を横に振る。


「ありがとう。でも、この変更は私が受けたから、ここまでは確認するね」


 携帯電話を取り出した。遅れると伝えなければ……文字を打ち始めたが、どこまで遅れるか見通しを立ててから、電話へ切り替えた。

 数回の呼び出しで、声がつながる。


『白川さん?』
「申し訳ありません。お店で対応が必要になってしまって」


 彼は私の説明を聞き、尋ねた。


『今日は難しそうですか。それとも、少し遅れれば会えそう?』
「四十分ほど、遅れてしまうと思います」
『わかりました。片づいたら連絡をください』
「でも、お待たせしてしまいますし」

 言いながら、過去の声が浮かんだ。

 だったら、最初から約束しなければよかったのに。

 直人さんに一度そう言われてから、仕事で予定を変えることが、ひどく怖くなった。

 鷹宮さんの声が、耳元へ戻ってくる。


『今日は、そのあとに予定はないから』


 私は黙った。


『待てる時間です。慌てて、けがをしないようにしてください』


 彼の声に急かす響きはなかった。私は作業台へ目を向け、残っているものをもう一度確かめた。


「……ありがとうございます。終わりましたら、ご連絡します」


 電話を切り、伝票を手に取った。

 ここをきちんと終わらせてから、会いに行こう。

 




 それからなんとか終わり、シャッターを半分下ろしたところで、外に人影が見えた。

 鷹宮さんだった。

 私は慌てて身体をかがめ、外へ出た。


「どうして、こちらに」
「迎えに来ました。終わるところでしたか」
「はい。今、ご連絡しようと」


 彼の視線が、店の中へ向く。真帆が奥から出てきたので、私は二人を紹介した。真帆はいつもより少しよそゆきの顔で挨拶をし、すぐに私へ向き直った。


「確認、全部終わってる。明日の人へのメモも置いたから」
「ありがとう。戸締まりは私がするね」
「いいよ。ここまでやったんだから、最後までやる」


 真帆は鍵を軽く持ち上げた。


「お疲れさま。あとは任せて」


 私は一瞬迷い、頷いた。


「お願いします」


 彼女に礼を言って、鷹宮さんと歩き出す。角を曲がったところで、彼が言った。


「店では、迷わず決めるんですね」


 私は足元へ視線を落とした。


「そう、見えましたか」
「誰に何を任せるかも、自分がどこまでやるかも」
「仕事ですから。私が迷っていると、周りも困ってしまうので」


 彼は、なるほどと頷いた。それから何も言わなかった。私は、その沈黙の間に、自分の言葉を考えた。仕事では決められる。どこを大切にしたいかも、何を変えればよいかも、自分の意見がある。

 それなのに、私生活では。


「お待たせしてしまって……」


 また謝りかけた。鷹宮さんが顔を向ける。私は一度、息を吸った。


「待っていてくださって、ありがとうございます」


 彼の表情が、少しやわらいだ。


「会えてよかった」


 それだけを言われた。言い訳を足さなくても、会えたことを喜んでくれる。私は、隣を歩く足の運びが少し軽くなった。


  

 予定していた店の予約は変更してもらい、近くの小さな店で遅い夕食を取った。食後、駅まで歩く道は、まだところどころ明るかった。私はバッグから、用意していた小さな包みを取り出した。


「お約束していたものです」


 鷹宮さんが受け取る。


「栗のお菓子?」
「はい。ただ、まだ試作なので、日持ちがしなくて。できれば今夜のうちに」


 彼は包みを両手で持ち直した。


「大事にいただきます」
「そこまでのお品では」


 言いかけると、彼が私を見る。

 私は口を閉じ、少し笑った。


「……お口に合ったら、嬉しいです」
「感想を伝えても?」
「はい。ぜひ」


 次に連絡をもらう理由ができて、嬉しかった。

 その気持ちに気づき、私は前を向いた。

 通りの向こうに、小さな和装小物の店があった。

 閉店後の明かりが残り、店先のガラスケースに、無地の手ぬぐいが並んでいる。

 深い藍色が目に留まった。

 稽古に通っていた頃、よく似た色のものを使っていた。

 足が少し遅くなる。


「何か、気になりましたか」


 鷹宮さんに聞かれ、私は首を横に振りかけた。


「いえ。昔、似たものを使っていたので」
「道場で?」
「はい」


 彼もガラスケースへ目を向けた。


「弓道は、もうやめたの?」


 何気ない尋ね方だった。

 それなのに、すぐには答えられなかった。


「店が忙しくなってしまって」


 私は言った。


「直人さんとお会いする日も、できるだけ空けておこうと思っていたので。気づいたら、行かなくなっていました」


 鷹宮さんは、私を見た。

 同情とも、非難とも違う目だった。


「やめたかった?」


 私は、店先の藍色を見つめた。

 考えないようにしていたことだった。

 好きか嫌いかではなく、続けられるかどうか。

 それだけを考えたつもりでいた。


「続ける余裕が、なかったので」
「そうか」


 彼は、それ以上問い詰めなかった。
 また始めればいいとも、どうしてやめたのかとも言わない。
 私はその横顔を見てから、言い足した。


「嫌いになったわけでは、ありません」


 鷹宮さんが頷く。


「うん」


 短い返事だった。

 私は、胸の奥に押し込めていたものを、少しだけ外へ出せた気がした。

   

 駅へ着いた。改札へ向かう人たちの間で、私たちは立ち止まった。

「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」


 いつもの挨拶を交わす。

 けれど、そのまま別れたくなかった。まだ、聞きたいことはたくさんある。彼がなぜ道場へ来なくなったのかも。

 仕事ではどんなことに腹を立てるのかも。休日は何時に起きるのかさえ、私は知らない。知らないからこそ、次も会いたいと思った。


「鷹宮さん」


 呼び止めると、彼が向き直った。


「はい」


 人が通り過ぎる。私は邪魔にならないよう、壁際へ少し寄った。

 彼も同じように移動し、私の前に立つ。


「先日のお話なのですが」


 その一言で、彼の表情が静かになった。

 真剣に聞こうとしてくれているのがわかった。

 私はバッグの持ち手を握り直した。


「結婚を考えるお付き合いを、させてください」


 言ってから、顔が熱くなる。

 けれど、目をそらさずに続けた。


「まだ、知らないことばかりですし、私の気持ちも、うまく説明できません。でも、このままお返事を曖昧にして、お会いし続けるのは違うと思って」


 鷹宮さんは黙って聞いている。

 私は、用意していなかった言葉を探した。


「助けていただいたから、とか、私にはもったいないお話だから、とか。そういう理由だけで決めたくありません」
「はい」
「あなたといると、自分が何を考えているのか、少しずつわかる気がするんです」


 うまく伝わっただろうか。

 不安になったが、今度は言葉を引っ込めなかった。


「また、会いたいんです」


 鷹宮さんが、息を吐いた。その顔を見て、初めて気づいた。彼も、緊張していたのかもしれない。返事を待つことは、何でもないことではなかったのかもしれない。


「嬉しいです」


 飾らない言葉だった。

 声が、先ほどまでより少し低い。


「ありがとう。大切にします」


 私は頷いた。

 それから、彼が両手で持っている包みを見る。


「あの、そちらは、そんなに慎重にお持ちにならなくても大丈夫です」


 鷹宮さんも包みへ目を落とした。

 少し間があってから、笑った。


「今は、何か持っていたほうが助かる」
「どうしてですか」


 尋ねると、彼は私を見た。いつもよりも、その目が近く感じられた。


「何も持っていなかったら、手を取りたくなるから」


 私は返事ができなかった。駅の案内放送が流れる。誰かの足音も、改札を通る電子音も、遠くなった。彼は私の反応を見て、少しだけ笑う。


「今日は、ここまでにしておきます」


 私は頷くことしかできなかった。



 帰宅すると、店の明かりは落ちていた。二階へ上がり、自室の扉を閉める。バッグを机へ置いたあとも、しばらくその場に立っていた。手を取りたくなるから。

 思い出した途端、また頬が熱くなる。もし、彼が包みを持っていなかったら。私は、差し出された手を取っただろうか。考えかけて、答えを急ぐのをやめた。

 上着を脱ぎ、部屋着へ着替える。棚の下段へ目が留まった。弓道の道具は、奥へまとめて置いたままだった。私は床へ膝をつき、手前の箱をどけた。懐かしい袋の布地に触れる。しばらく使っていなかったせいで、畳まれた部分にくっきりと癖がついていた。一つずつ取り出す。練習帳も、その中にあった。

 開くと、昔の自分の字が現れた。うまくいかなかった日の記録だ。教わったことや次の稽古で確かめたいこと。最後のページには、日付と、書きかけの文章があった。次に行ったときに続きを書くつもりで、そのままになっていた。

 私は指先で、余白へ触れた。携帯電話が震えた。鷹宮さんからだった。


【いただきました。最初のひと口で、話してくれた意味がわかった気がします。おいしかった。ありがとう】


 そのあとに、もう一通。


【次に会える日を、楽しみにしています】


 私は床に座ったまま、画面を見つめた。ちゃんと味わってくれたことも。話したことを覚えていてくれたことも。次があると、当たり前のように書いてくれたことも。全部、嬉しかった。


【召し上がってくださって、ありがとうございます。私も、楽しみにしています】


 送ってから、もう一度、練習帳を見る。まだ、再開すると決めたわけではない。仕事の調整も必要だし、以前と同じようにできるかもわからない。それでも、しまい直すのはやめた。

 道具の袋を棚の手前へ置く。練習帳は、机の上へ。いつかまた、続きを書くかもしれない。そのときの自分が何を望んでいるのか、今度は、ちゃんと聞いてみようと思った。




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