ハスノハカシパンは答えを知らない
ハスノハカシパンは答えを知らない
「ねぇ、くらげって死んだらどうなると思う?」
本を片手に部活にやってきた先輩は、開口一番そう尋ねた。
なぜそれを問うのだろう。会って一言目が挨拶ではなく質問だったことに、私は呆気にとられた。
「え、微生物にでも分解されるんじゃないですか」
いきなりの質問に答えられるはずもなく、とりあえず当たり障りのない言葉を返す。
「ふーん」
考えに浸っているようで、先輩は私の挨拶には耳もくれない。
「何故くらげの話になったんですか?」
「本に、死んだら溶けてなくなるって書いてあるから。どうしてなんだろうね」
「何故溶けるのかってことですか?」
相変わらず返事は返ってこない。
生物は得意じゃない。大した知識も出てこない私の返答を、先輩はじっと待っている。
先輩がわからなかったら誰がわかるのでしょうか。
そもそも理系と文系、三年生と一年生、そして特進と普通科。あまりにも知識の差がある。
それでも待ち続ける先輩に根負けした。
「じゃあ、きっと気合いで形を保ってるんですよ! 人間みたいに死んだら動かなくなるどころか、バラバラになっちゃう……とかどうですか?」
「悪くないね。もっと科学的な理由があるけどね」
何を望んで会話をしているのかわからない。先輩が聞きたいのはなんなのだろう。
「くらげって、体のほとんどが水分なんだって。骨もないし、硬い骨格もない。傘の部分の筋肉を動かして泳ぐんだけど、死んだら組織が崩れて、形を保てなくなることがあるらしいよ」
「答え知ってるじゃないですか」
「今読んだ」
先輩は部活に来る理由もよくわからない人だった。
受験前で忙しいだろうに、金曜日の夕方になると頻繁にやって来る。対して面白いものはない化学の実験、私には何がいいのかわからなかった。
呆れてものも言えなくなっている私を、先輩は都合よく解釈して扱った。
「くらげ見にいこう、今から」
「今から? もう日が暮れますよ」
「すぐ終わるから大丈夫だって。それに今日は人、集まらないみたいだし」
見渡した化学実験室には、先輩と私以外に人はいない。
先生だって忙しいから、引率しなくてもいい実験の予定だった。このまま一時間駄弁って終わるか、外に行くか。
「課外授業といこう。先生は俺ね」
強引に決まった課外授業は、目的もよくわからないままだった。
*
海に着いた頃には、すっかり日が傾いていた。
潮の匂いがする。風は少し冷たく、制服の上に羽織ったカーディガンでは心もとない。
「先輩、くらげってどこにいるんですか」
「さあ」
「さあ?」
「打ち上げられてるんじゃないかな」
「……それ、最初から調べてきてくださいよ」
「海に来れば何かしらあると思ったんだけど」
この人は本当に受験生なのだろうか。
私は思わず空を仰いだ。夕焼けが海の表面を赤く染めている。こんな景色を眺めるために来たのなら、まだわからなくもない。
けれど、先輩は海を眺めるでもなく、砂浜を歩き回っていた。
何かを探している。
「先輩、何探してるんですか?」
「くらげ」
「それは聞きました」
「死んだくらげ」
ああ、そうだった。
死んだくらげがどうなるのか。それが今日の課外授業のテーマだった。
「でも、溶けるんですよね? だったら、死んだくらげを探しても見つからないんじゃないですか」
「そうかもしれない」
「……先輩って、たまに何も考えてないですよね」
「よく言われる」
嘘だと思った。
この人が本当に何も考えていないのなら、こんなふうに私を振り回すことだってないはずだ。
何を考えているのかはわからない。けれど、何かを考え続けている人なのだと思う。
その何かが、私にはまったく理解できないだけで。
「あ」
先輩が足を止めた。
波打ち際から少し離れた砂の上に、白っぽいものが落ちていた。
手のひらに収まりそうな大きさで、薄く、平たい。表面には放射状の模様が広がり、ところどころに細かな穴が並んでいる。
「これ、くらげの骨じゃない?」
先輩はしゃがみ込んで、それを拾い上げた。
「ミズクラゲみたいですね」
「くらげに骨ってあるのかな」
「ないんじゃないですか?」
「じゃあ、何だろう」
知らない。
答えのない問いにほとほと困り果てる。
そんな私の気持ちなどお構いなしに、先輩は拾ったものを夕日に透かして眺めた。
「きれいだね」
その言葉に、私は少しだけ黙った。
確かに、きれいだった。
生き物の残骸だと思えば不思議な気持ちになったけれど、自然にできたものだと思えば、よくできた細工物にも見える。
「持って帰るんですか?」
「うん」
「くらげかどうかもわからないのに?」
「くらげだったものかもしれないよ」
先輩はそう言って、持っていた本を鞄にしまった。
「その本に載ってるんじゃないんですか?」
「知ったら今がおもしろくなくなっちゃうよ」
「知ることがいちばん楽しいように見えますけど」
「勉強ができるからって、知識が好きとは限らないのかもね」
くらげの本を読んで、くらげが死んだらどうなるのか気になって、海までやって来て、正体のわからない骨格を拾う。
ずいぶんと遠回りな人だった。
「先輩、受験勉強した方がいいと思います」
「してるよ。息抜き」
「息抜きの方向性がおかしいんですよ」
「そうかな」
「そうです」
食い気味に答える私に、先輩は笑った。
何がおかしいのか、やっぱり私にはわからなかった。
*
その後、先輩は何度か部活に顔を出した。
くらげの話をした日もあれば、まったく別の話をした日もあった。
あの日拾ったものが何だったのか、私は結局知らないままだった。
先輩が卒業してしまえば、聞く機会もなくなった。
もともと、卒業した先輩と連絡を取るほど親しかったわけではない。廊下ですれ違えば挨拶をする程度の関係だったし、先輩がいなくなったところで、私の日常は何も変わらなかった。
化学実験室には、人が増えた。
金曜日の夕方に先輩がやって来ることもなくなった。
それだけのことだった。
*
先輩が卒業してから、しばらく経ったある日の夜。
私は夕食を終え、居間でテレビを眺めていた。
特に見たい番組があったわけではない。家族がつけっぱなしにしていた旅番組を、なんとなく眺めていただけだった。
画面の中では、海辺の町を訪れた出演者が、浜に落ちているものを紹介していた。
「これはハスノハカシパンですね」
案内役の人が、白く薄い円盤状のものを手に取る。
放射状に広がる模様。
薄く、平たく、繊細な形。
夕日に透かして眺めた、あの白いもの。
私は思わず声を上げた。
「あ」
「どうしたの?」
台所にいた母が振り返る。
「なんでもない」
何でもなくはなかった。
テレビの中で、案内役はハスノハカシパンについて説明していた。
ハスノハカシパンはウニの仲間で、体は平たい円盤状をしている。生きている間は硬い骨格の表面を組織が覆っているが、死んで時間が経つと、柔らかい部分が失われ、白い骨格だけが浜辺に残ることがあるのだという。
私は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
ハスノハカシパン。
あの日、海で拾ったもの。
くらげの骨だと思っていたもの。
そもそも、くらげには骨がない。
先輩だって、あの日そう言っていたではないか。
どうして気づかなかったのだろう。
2人揃って読み上げた本の内容をすっぽかすなんて教科書の意味をなしていないじゃない。
なんて思い出しても読み返さなかったのは先輩のせいだ。それに、先輩がくらげだと断言したわけではない。私が勝手にそう思い込んだだけだ。
それでも。
あの日の先輩の顔を思い出す。
夕日に透かして、きれいだね、と言った横顔。
あの人は、あれを何だと思っていたのだろう。
くらげの骨だと信じていたのか。
それとも、最初から何かわからないものとして、ただ興味を持っていただけなのか。
今となっては、確かめようもない。
テレビでは、ハスノハカシパンの生態について説明が続いていた。
どこに棲み、何を食べ、どんなふうに暮らしているのか。
名前があり、体の構造があり、生きているときの姿もわかっている。
調べれば、いくらでも答えが見つかるのだろう。
それなのに、私はあの日の先輩のことを、何ひとつ知らないままだった。
——先輩。
くらげに骨はありません。
あの日、あなたが拾ったのは、ハスノハカシパンの骨格です。
今さらそんなことを伝えたところで、きっと先輩は「ふーん」と言うのだろう。
それから少し考えて、こう続けるのだ。
「じゃあ、くらげは死んだら、本当に何も残らないのかな」
私は目を閉じた。
ハスノハカシパンは、答えを知らない。
少なくとも、あの日の私たちが知りたかった答えは。
あぁ、答え、聞いとけばよかった。
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