放課後、キス、しませんか
第1話 雨宿り
四限が終わるころから、空はずっと低かった。
帰りのホームルームが終わって昇降口に出ると、案の定、雨が降っていた。灰色の線が、校庭の砂を細かく叩いている。
「うわ、最悪」
誰かが言って、誰かが笑った。紗季も、その輪の中で「ほんとだー」と笑った。友達の二人は折りたたみ傘をばさりと開いて、「紗季、またね」と手を振って行ってしまう。反対方向のバスに乗るのだ。
一人になって、紗季は鞄から自分の傘を取り出した。
開いた瞬間、嫌な感触が手に伝わった。骨が一本、根元から折れている。布が片側だけだらりと垂れて、傘というより、疲れた鳥の羽みたいだった。
「……うそでしょ」
小さく声に出してみる。誰も聞いていない。せめて直せないかと、折れた骨を指で押し戻してみたけれど、余計に曲がっただけだった。
昇降口の屋根の下で、雨は強くなる気配しか見せない。駅までは歩いて二十分。走れば十分かもしれないけれど、制服も鞄も、中のプリントもだめになる。
「傘、壊れたの?」
後ろから声がした。振り向くと、同じクラスの三浦直人が、自分の傘を片手に立っていた。
三浦。教室では少し離れた席にいる人。たぶん、話したことは三回もない。
紗季は、壊れた傘を持ったまま、少し身構えた。なんとなく、見られたくないところを見られた気がしたのだ。
「見ればわかるでしょ」
思ったよりきつい声が出た。言ってから、しまった、と思う。
直人は、少しだけ目を瞬かせた。それから、真面目な顔のまま言った。
「じゃあ、聞かなくてもよかったか」
一拍、間があった。
紗季は、思わず吹き出した。
自分でも驚くくらい、素直な笑いだった。友達の前で出す「ちゃんとした笑い」とは違う、喉の奥から勝手に出てしまうやつ。
「ごめん。今の、感じ悪かったね」
「別に。聞かなくてもわかること、聞いたのはこっちだし」
直人はそれだけ言うと、自分の傘を開いた。紺色の、少し小さめの傘だった。
「駅、行くでしょ」
「えっ、うん」
「入れば」
言い方は、財布から小銭を出すみたいにあっさりしていた。紗季は一瞬迷って、壊れた傘を畳もうとして、うまく畳めずにそのまま鞄に突っ込んだ。
「……じゃあ、お願いします」
「うん」
並んで歩き出す。
一本の傘の下は、思っていたより狭い。紗季は、自分の肩が相手に触れないように、少しだけ外側に寄った。直人の傘は、そのぶん紗季のほうへ傾いている。気づかないふりをしたけれど、直人の左肩が、もう濡れ始めているのが視界の端に入った。
何か言ったほうがいい。紗季はそう思った。
沈黙が続くと、落ち着かない。
「三浦って、家、駅のほう?」
「うん。同じ電車だと思う」
「そうなんだ。知らなかった」
「うん」
会話が、そこで途切れた。
雨が傘を打つ音だけが、ぱらぱらと続く。足元の水たまりを、二人の靴が交互に踏んでいく。
紗季は、次の話題を探した。天気。部活。先生の悪口。どれも、この人には少し違う気がした。
「明日、英語の小テストあるよね」
結局、出てきたのはそれだった。
「あるね。範囲、四十ページから」
「そこまでだっけ。五十まであると思ってた」
「四十五。昨日、先生が言ってた」
「……聞いてなかった」
「寝てたから」
「寝てない!」
「寝てた。口、ちょっと開いてた」
紗季は、もう一度笑ってしまった。言い返そうとして、うまい言葉が見つからなかった。
不思議だった。笑わせようとして話しているわけじゃないのに、会話が勝手に前へ進む。
この人は、特別に面白いことを言うわけでも、気を遣って話を盛り上げるわけでもない。ただ、聞かれたことに、ちゃんと答えるだけだ。
それが、思ったより楽だった。
駅前の交差点で、信号が赤になった。二人は並んで立ち止まった。
雨は少し弱まって、傘の縁から落ちる水滴が、一定の間隔で地面を叩いている。紗季は、それを数えるともなく数えていた。
「小坂」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「ん?」
「その傘、家で直るかも。骨だけ替えればいいから」
「え、そうなの?」
「たぶん」
直人は前を向いたまま言った。紗季は、何か言い返しかけて、やめた。信号が青に変わる。
駅の改札の前で、直人は傘を畳んで、軽く水を払った。左の袖が、思ったよりも濡れている。紗季は、それを指摘しようか迷って、結局、言わなかった。言ったら、気を遣わせる気がしたのだ。
「ありがとう。助かった」
「うん」
「じゃあ、また……」
言いかけて、紗季は口をつぐんだ。また、と言えるほどの間柄だろうか。迷っているうちに、直人が先に言った。
「じゃあ」
短く言って、改札の向こうへ歩いていく。ICカードの電子音が、ひとつ鳴った。
人混みに紛れていく背中を、紗季はしばらく見ていた。
──もう少し、話してもよかったのに。
そんな考えが、頭のどこかに浮かんで、自分で驚いた。
なぜそう思ったのかは、わからなかった。ただ、さっきまで隣にあった傘の影が、急になくなったような気がした。
紗季は、鞄の中の壊れた傘に、そっと手を触れた。折れた骨の先が、指に当たる。
駅の外では、雨がまた少し、強くなっていた。
帰りのホームルームが終わって昇降口に出ると、案の定、雨が降っていた。灰色の線が、校庭の砂を細かく叩いている。
「うわ、最悪」
誰かが言って、誰かが笑った。紗季も、その輪の中で「ほんとだー」と笑った。友達の二人は折りたたみ傘をばさりと開いて、「紗季、またね」と手を振って行ってしまう。反対方向のバスに乗るのだ。
一人になって、紗季は鞄から自分の傘を取り出した。
開いた瞬間、嫌な感触が手に伝わった。骨が一本、根元から折れている。布が片側だけだらりと垂れて、傘というより、疲れた鳥の羽みたいだった。
「……うそでしょ」
小さく声に出してみる。誰も聞いていない。せめて直せないかと、折れた骨を指で押し戻してみたけれど、余計に曲がっただけだった。
昇降口の屋根の下で、雨は強くなる気配しか見せない。駅までは歩いて二十分。走れば十分かもしれないけれど、制服も鞄も、中のプリントもだめになる。
「傘、壊れたの?」
後ろから声がした。振り向くと、同じクラスの三浦直人が、自分の傘を片手に立っていた。
三浦。教室では少し離れた席にいる人。たぶん、話したことは三回もない。
紗季は、壊れた傘を持ったまま、少し身構えた。なんとなく、見られたくないところを見られた気がしたのだ。
「見ればわかるでしょ」
思ったよりきつい声が出た。言ってから、しまった、と思う。
直人は、少しだけ目を瞬かせた。それから、真面目な顔のまま言った。
「じゃあ、聞かなくてもよかったか」
一拍、間があった。
紗季は、思わず吹き出した。
自分でも驚くくらい、素直な笑いだった。友達の前で出す「ちゃんとした笑い」とは違う、喉の奥から勝手に出てしまうやつ。
「ごめん。今の、感じ悪かったね」
「別に。聞かなくてもわかること、聞いたのはこっちだし」
直人はそれだけ言うと、自分の傘を開いた。紺色の、少し小さめの傘だった。
「駅、行くでしょ」
「えっ、うん」
「入れば」
言い方は、財布から小銭を出すみたいにあっさりしていた。紗季は一瞬迷って、壊れた傘を畳もうとして、うまく畳めずにそのまま鞄に突っ込んだ。
「……じゃあ、お願いします」
「うん」
並んで歩き出す。
一本の傘の下は、思っていたより狭い。紗季は、自分の肩が相手に触れないように、少しだけ外側に寄った。直人の傘は、そのぶん紗季のほうへ傾いている。気づかないふりをしたけれど、直人の左肩が、もう濡れ始めているのが視界の端に入った。
何か言ったほうがいい。紗季はそう思った。
沈黙が続くと、落ち着かない。
「三浦って、家、駅のほう?」
「うん。同じ電車だと思う」
「そうなんだ。知らなかった」
「うん」
会話が、そこで途切れた。
雨が傘を打つ音だけが、ぱらぱらと続く。足元の水たまりを、二人の靴が交互に踏んでいく。
紗季は、次の話題を探した。天気。部活。先生の悪口。どれも、この人には少し違う気がした。
「明日、英語の小テストあるよね」
結局、出てきたのはそれだった。
「あるね。範囲、四十ページから」
「そこまでだっけ。五十まであると思ってた」
「四十五。昨日、先生が言ってた」
「……聞いてなかった」
「寝てたから」
「寝てない!」
「寝てた。口、ちょっと開いてた」
紗季は、もう一度笑ってしまった。言い返そうとして、うまい言葉が見つからなかった。
不思議だった。笑わせようとして話しているわけじゃないのに、会話が勝手に前へ進む。
この人は、特別に面白いことを言うわけでも、気を遣って話を盛り上げるわけでもない。ただ、聞かれたことに、ちゃんと答えるだけだ。
それが、思ったより楽だった。
駅前の交差点で、信号が赤になった。二人は並んで立ち止まった。
雨は少し弱まって、傘の縁から落ちる水滴が、一定の間隔で地面を叩いている。紗季は、それを数えるともなく数えていた。
「小坂」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「ん?」
「その傘、家で直るかも。骨だけ替えればいいから」
「え、そうなの?」
「たぶん」
直人は前を向いたまま言った。紗季は、何か言い返しかけて、やめた。信号が青に変わる。
駅の改札の前で、直人は傘を畳んで、軽く水を払った。左の袖が、思ったよりも濡れている。紗季は、それを指摘しようか迷って、結局、言わなかった。言ったら、気を遣わせる気がしたのだ。
「ありがとう。助かった」
「うん」
「じゃあ、また……」
言いかけて、紗季は口をつぐんだ。また、と言えるほどの間柄だろうか。迷っているうちに、直人が先に言った。
「じゃあ」
短く言って、改札の向こうへ歩いていく。ICカードの電子音が、ひとつ鳴った。
人混みに紛れていく背中を、紗季はしばらく見ていた。
──もう少し、話してもよかったのに。
そんな考えが、頭のどこかに浮かんで、自分で驚いた。
なぜそう思ったのかは、わからなかった。ただ、さっきまで隣にあった傘の影が、急になくなったような気がした。
紗季は、鞄の中の壊れた傘に、そっと手を触れた。折れた骨の先が、指に当たる。
駅の外では、雨がまた少し、強くなっていた。
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