放課後、キス、しませんか
第2話 昨日の続き
翌朝は、嘘みたいによく晴れていた。
昇降口の地面はもう乾きかけていて、昨日の雨がどこにあったのかもわからない。紗季は、壊れた傘を入れた鞄を抱えて、いつもより少し早歩きに教室へ向かった。傘は、帰りにどこかで直せるか見てもらおうと思っていた。思っていただけで、あてはない。
「紗季、おはよー」
「おはよ、昨日どうだった? ちゃんと帰れた?」
「うん、帰れたよ。でも傘が壊れててさ」
「え、最悪じゃん。どうやって帰ったの?」
ここで「三浦に入れてもらった」と言えば、たぶん、話はあれこれと広がる。紗季はそれをわかっていた。かといって、嫌だったわけではない。ただ、昆日のあれを、今ここで話題にするのは、ちょっともったいない気がした。
「走って帰った」
「うわ、ガチじゃん」
友達が笑う。紗季も、同じ高さの声で笑う。
ちゃんと笑えたと思う。
そのとき、教室の後ろのドアが開いた。
三浦直人が入ってくる。いつもと同じ、眼のやりどころのない歩き方。制服は、もちろん乾いている。
目が合った。
というより、紗季が見ていたのを、直人が見つけた、という感じだった。
「……昨日、ありがとね」
友達の輪を抜けて、少しだけ近づいて、紗季は言った。声は小さめにした。
「うん」
それだけだった。直人は自分の席に座って、鞄から筆箱を出し始める。
紗季は、一秒だけそこに立っていた。続きを待っていたわけではない。ただ、「うん」のあとに何かあると思っていたのに、何もなかった。それに、少し拍子抜けしただけだ。
「紗季、三浦と何かあったの?」
席に戻ると、友達が小声で聞いてきた。
「え、なんで?」
「だって今、メッチャ見てたから」
「見てないよ。対面にいたから、目が合っただけ」
「ふーん」
友達は納得したような、していないような顔をして、今度は昼休みのランチの話を始めた。紗季は高く相槌を打ちながら、さっきの「見てないよ」が、少しだけ嘘だったことに気づいていた。
四限の英語の小テストは、思ったよりできた。
四十五ページまで。昨日、帰り道で言われた「四十五」を忘れずにいたからだ。この一点が、小テストをしっかり助けてくれた。紗季は、こっそり、発見したような気持ちになった。
とはいえ、彼には言えない。言う理由がない。
昼休み。友達と横並びで弁当を広げていると、斜め後ろから足音が近づいてきた。
「小坂」
振り向くと、直人が、プリントを一枚、手にして立っていた。
「英語の宿題、この第三問って、どうやって解くの?」
紗季は、ちょっと驚いた。こちらに話しかけてくることは、ないと思っていたからだ。友達の二人も、箸を止めてこちらを見ている。
「えと、どれ?」
「これ。『この文の空所に入る語を選べ』ってやつ」
紗季はプリントを受け取って、問題文を読んだ。中学のときから英語は得意だった。誰かに教えるのは、あまり得意ではないけれど。
「これは、前の「that」を見るといいよ。関係代名詞だから、先行詞が人か物かで……」
ここまで言って、紗季は口をつぐんだ。いつもの自分なら、相手がわからない顔をしたときに、先回りして言い直す。
直人は、紗季の言葉を、じっと黙って聴いていた。言葉を急かすことも、わかったふりをすることもしない。
「……つまり、前の語が人だから、ここは「who」」
「あ、そうか」
「うん」
「わかった。切り分けが、先だったんだ」
直人は、プリントに手早く答えを書き込んだ。文字は、思ったよりきれいだった。
「ありがとう」
「うん。いや、別に」
「昨日のお礼。これで、ということで」
さらっとそう言って、直人は自分の席に戻っていった。
紗季は、プリントを渡した手を、しばらく空中に置いたままだった。
「ちょっと、あれなに? いい感じじゃん」
「何が。宿題を聞かれただけだよ」
「でも、紗季に聞くって、ちょっと意外でしょ」
友達が面白がっている。紗季は「別に普通だよ」と笑って返した。
心のどこかで、答えを思い出していた。「昨日のお礼。これで、ということで」。
これで、ということで。
つまり、貸しも貸りもなし。そう言いたかったのだろう。うまいやり方だと、紗季は思った。そして、なぜか、少しだけ残念だとも思った。
残念。
その単語に、紗季は自分で首を傾げた。
放課後。
友達の二人が、鞄を肩にかけて立ち上がる。
「紗季、帰ろー。駅前のクレープ、今日こそ行こうよ」
「あ、うん。行こう行こう」
紗季は鞄を手に取り、最後にもう一度だけ、教室を見回した。
直人は、もう席を立っていた。
鞄を肩にとって、誰にも声をかけずに、すっとドアのほうへ歩いていく。誰かが「三浦、またね」と声をかけ、直人が「うん」と片手を上げる。
紗季には、何も言わなかった。
あたり前だと思う。約束しているわけでもないし、名前を呼ぶほどの関係でもない。昨日、傘に入れてもらった。それだけのことだ。
「紗季、何見てるの?」
「別に」
第一話でも、そう言った気がする。
二人の友達と並んで廊下を歩きながら、紗季は、さっき直人が消えたドアの方角を、もう一度だけ見た。
ドアの向こうは、もう誰もいなかった。
昇降口の地面はもう乾きかけていて、昨日の雨がどこにあったのかもわからない。紗季は、壊れた傘を入れた鞄を抱えて、いつもより少し早歩きに教室へ向かった。傘は、帰りにどこかで直せるか見てもらおうと思っていた。思っていただけで、あてはない。
「紗季、おはよー」
「おはよ、昨日どうだった? ちゃんと帰れた?」
「うん、帰れたよ。でも傘が壊れててさ」
「え、最悪じゃん。どうやって帰ったの?」
ここで「三浦に入れてもらった」と言えば、たぶん、話はあれこれと広がる。紗季はそれをわかっていた。かといって、嫌だったわけではない。ただ、昆日のあれを、今ここで話題にするのは、ちょっともったいない気がした。
「走って帰った」
「うわ、ガチじゃん」
友達が笑う。紗季も、同じ高さの声で笑う。
ちゃんと笑えたと思う。
そのとき、教室の後ろのドアが開いた。
三浦直人が入ってくる。いつもと同じ、眼のやりどころのない歩き方。制服は、もちろん乾いている。
目が合った。
というより、紗季が見ていたのを、直人が見つけた、という感じだった。
「……昨日、ありがとね」
友達の輪を抜けて、少しだけ近づいて、紗季は言った。声は小さめにした。
「うん」
それだけだった。直人は自分の席に座って、鞄から筆箱を出し始める。
紗季は、一秒だけそこに立っていた。続きを待っていたわけではない。ただ、「うん」のあとに何かあると思っていたのに、何もなかった。それに、少し拍子抜けしただけだ。
「紗季、三浦と何かあったの?」
席に戻ると、友達が小声で聞いてきた。
「え、なんで?」
「だって今、メッチャ見てたから」
「見てないよ。対面にいたから、目が合っただけ」
「ふーん」
友達は納得したような、していないような顔をして、今度は昼休みのランチの話を始めた。紗季は高く相槌を打ちながら、さっきの「見てないよ」が、少しだけ嘘だったことに気づいていた。
四限の英語の小テストは、思ったよりできた。
四十五ページまで。昨日、帰り道で言われた「四十五」を忘れずにいたからだ。この一点が、小テストをしっかり助けてくれた。紗季は、こっそり、発見したような気持ちになった。
とはいえ、彼には言えない。言う理由がない。
昼休み。友達と横並びで弁当を広げていると、斜め後ろから足音が近づいてきた。
「小坂」
振り向くと、直人が、プリントを一枚、手にして立っていた。
「英語の宿題、この第三問って、どうやって解くの?」
紗季は、ちょっと驚いた。こちらに話しかけてくることは、ないと思っていたからだ。友達の二人も、箸を止めてこちらを見ている。
「えと、どれ?」
「これ。『この文の空所に入る語を選べ』ってやつ」
紗季はプリントを受け取って、問題文を読んだ。中学のときから英語は得意だった。誰かに教えるのは、あまり得意ではないけれど。
「これは、前の「that」を見るといいよ。関係代名詞だから、先行詞が人か物かで……」
ここまで言って、紗季は口をつぐんだ。いつもの自分なら、相手がわからない顔をしたときに、先回りして言い直す。
直人は、紗季の言葉を、じっと黙って聴いていた。言葉を急かすことも、わかったふりをすることもしない。
「……つまり、前の語が人だから、ここは「who」」
「あ、そうか」
「うん」
「わかった。切り分けが、先だったんだ」
直人は、プリントに手早く答えを書き込んだ。文字は、思ったよりきれいだった。
「ありがとう」
「うん。いや、別に」
「昨日のお礼。これで、ということで」
さらっとそう言って、直人は自分の席に戻っていった。
紗季は、プリントを渡した手を、しばらく空中に置いたままだった。
「ちょっと、あれなに? いい感じじゃん」
「何が。宿題を聞かれただけだよ」
「でも、紗季に聞くって、ちょっと意外でしょ」
友達が面白がっている。紗季は「別に普通だよ」と笑って返した。
心のどこかで、答えを思い出していた。「昨日のお礼。これで、ということで」。
これで、ということで。
つまり、貸しも貸りもなし。そう言いたかったのだろう。うまいやり方だと、紗季は思った。そして、なぜか、少しだけ残念だとも思った。
残念。
その単語に、紗季は自分で首を傾げた。
放課後。
友達の二人が、鞄を肩にかけて立ち上がる。
「紗季、帰ろー。駅前のクレープ、今日こそ行こうよ」
「あ、うん。行こう行こう」
紗季は鞄を手に取り、最後にもう一度だけ、教室を見回した。
直人は、もう席を立っていた。
鞄を肩にとって、誰にも声をかけずに、すっとドアのほうへ歩いていく。誰かが「三浦、またね」と声をかけ、直人が「うん」と片手を上げる。
紗季には、何も言わなかった。
あたり前だと思う。約束しているわけでもないし、名前を呼ぶほどの関係でもない。昨日、傘に入れてもらった。それだけのことだ。
「紗季、何見てるの?」
「別に」
第一話でも、そう言った気がする。
二人の友達と並んで廊下を歩きながら、紗季は、さっき直人が消えたドアの方角を、もう一度だけ見た。
ドアの向こうは、もう誰もいなかった。


