君という夢を描いて【The after story】―Embraceit all―
第1話 『すべてを抱いて、いきていく』
1.忘れなくていい
あの夢のステージから七年後の秋を迎えた。
若葉とエディは昨年の春に結婚して、最近子どもが生まれた。若葉そっくりの可愛い女の子で、エディがもう「これでもか!」ってくらいベタ惚れなんだとか。
あたしはあのステージの後、とあるレコード会社から声がかかって、念願の歌手デビューの夢が叶った。
先日、地方のライブツアーを終えて、今度は音楽のラジオ番組のゲストとして出演予定。
EDENは、もともとどこにも所属がないインディーズのまま活動していて、一躍有名にはなったけど、メンバーのそれぞれの進路もあり、あの素顔公開のライブ以降は活動を休止している。
忙しくも充実した毎日を送っている反面、どこか物足りなさを感じることもある。
その正体が何なのかわからないまま、二十五歳を過ぎた頃。
若葉とエディの結婚が決まったと聞いて、あたしは真っ先に二人の元へ駆けつけた。
結婚式では、友人代表スピーチを務めさせてもらった。
二人の幸せそうな姿を見て、あたしは心からの祝福をした――つもりだった。
そして、同時に気づいてしまった。
もし、涼ちゃんがまだ生きていたら。
あたしにも、こういう未来があったのかもしれない……と。
でも、今更そんなことはできない。
涼ちゃんが遺してくれたこの指輪。未だに外せずにいたけれど。
少し前から、涼ちゃんのことをあまり考えなくなっていることに気づいた。
あたし、涼ちゃんのこと……忘れかけている?
途端に、怖くなった。
でも、涼ちゃん以外の人と恋をするイメージがどうしてもできなくて。
いや、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。
本当は、既に別の人を見始めている。
あたしの今、一番気になる人。
それは……。
☆
あたしには、柴田涼平――涼ちゃんという恋人がいた。
あたしの十九歳の誕生日に遺してくれた私の似顔絵と、桜を象った指輪。
それを受け取った時には、もう涼ちゃんはこの世にいなかった。
その事実を知った直後、あたしは発作を起こし、生死の境を彷徨った。
涼ちゃんはきっと、あたしがこうなることを分かっていた。
だから最後まで、自分の病気のことを隠していたんだと思う。
涼ちゃんのお姉さんから渡された、この指輪。
病床で、あたしのために選んでくれたもの。
あたしはその指輪と、涼ちゃんの想いを連れて、あの夢のステージに立った。
そして、そのステージで初めてEDENのメンバーと顔を合わせた。
憧れだった彼らは、いつしか“遠い世界の人たち”ではなくなっていった。
若葉とエディを通して、プライベートでも何度か会うようになったからだ。
そんなある日のこと。
「梨歩さん、その指輪、綺麗ですね」
キリト君が、あたしの左手を見て言った。
「ああ、これ? あたしの大切な人からもらったもので――」
本当に、何気なく答えただけだった。
なのに。
「……あれ?」
自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。
「え!? 梨歩さん!? 俺、何かまずいこと――」
「うわ、キリト泣かせた」
「ミナト! そういうこと言わない!」
「いや俺じゃねーし!」
「あんたにはデリカシーってもんがないのか!」
「は~ァ? それ、お前が言うのかよ」
一瞬で、辺りが騒がしくなる。
あたし自身、どうすればいいのか分からなかった。
泣くつもりなんてなかった。
あのステージに立って、涼ちゃんの分まで生きていこうって……そう決めたはずなのに。
まだ、こんなふうに涙が出るんだ。
その時だった。
静かに、ヴァイオリンの音が響いた。
「…………」
誰も何も言わなくなった。
奏でていたのは、亞紗斗さんだった。
口数が少なくて、いつも冷静で。
どこか近寄りがたい人。
正直、最初は少し苦手だった。
でも。
その時の音色は、とても温かかった。
何の曲なのか、その頃のあたしには分からなかった。
ただ。
泣いていていい。
無理に止めなくていい。
そう言われているような気がした。
実際に、亞紗斗さんは……あたしに何も聞かなかった。
涼ちゃんのことも。
どうして泣いたのかも。
ただ、あたしの涙が止まるまで、静かに。
何度も同じ旋律を繰り返しながら、ヴァイオリンを弾いていた。
言葉ではなく、音で包んでもらったような気がした。
――この人、思っていたよりずっと優しいんだ。
たぶん、だけど。
最初は、それだけだった。
それが、始まりだったのかもしれない。
それから何度も顔を合わせるうちに。
気づけば、あたしは亞紗斗さんを目で追うようになっていた。
そして、いつの間にか――。
彼に惹かれていた。
☆
*
「何をしている」
背後から聞こえた声に、肩が跳ねた。
(亞紗斗さん……?)
振り返れなかった。
手の中には、桜を象った指輪。
捨てようとして。
結局、捨てられなくて。
あたしは、それを握りしめたまま泣いていた。
「選べない……」
ようやく、それだけが声になった。
「できない……。涼ちゃんを、忘れることなんてできない……」
亞紗斗さんは、何も言わなかった。
あの時のように。
言い訳も。慰めも。
急かす言葉もなく。
ただ、あたしの後ろに立っていた。
しばらくして、
「忘れなくていい」
静かな声が落ちてきた。
「……え?」
「それは、梨歩にとって大切なものじゃないのか」
あたしは、握りしめていた手をゆっくり開く。
涙で滲んだ視界の中で、小さな桜が光っていた。
「……わからない」
大切。
そんなの、わかっているはずなのに。
「わからない……。大切なはずなのに。涼ちゃんだけを感じていたいのに、最近は……涼ちゃん以外の人のこと、考えたりして……」
言葉にするたび、胸が痛くなる。
「涼ちゃんのこと、忘れたくないのに……その人のことを思うと、苦しくて……」
亞紗斗さんは黙って聞いていた。
「これを外せば、次に進めるかもしれない。楽になるかもしれない。涼ちゃんのお姉さんも、手放してもいいって言ってくれた」
それでも。
「でも、涼ちゃんがそう言ったわけじゃないし……」
もう。
「もう涼ちゃんに聞くこともできないから……どうしたらいいのかわからない……」
返事は、永遠に返ってこない。
それが、たまらなく苦しかった。
「梨歩……。好きなやつが、できたのか」
「…………」
心臓が大きく跳ねた。
答えられない。
代わりに、彼にずっと聞きたかったことを口にした。
「亞紗斗さんなら……どう思う?」
「何がだ」
「前の恋人からもらったものを、いつまでも持ってる人」
怖かった。
それでも聞いた。
「やっぱり、いい気はしないよね。いつまでも過去に執着する、未練タラタラな人って思うよね」
声が震える。
「そんな人のこと、好きになんて……なれないよね……」
沈黙。
「やだ、あたし……何でこんなにベラベラ喋っちゃってんの。ごめんなさい、こんな話聞きたくないよね。いいの、聞き流して――」
「梨歩」
「……なに?」
「俺が好きなのか?」
一瞬、時が止まる。
「え?」
今度は、思考が止まった。
「少なくとも、そう聞こえたんだが」
「…………」
しまった。
「あ……えっと……」
今さら誤魔化せるわけもない。
「あ、あははは……」
「何故笑う」
「あっははは! あたしってば、間抜けすぎる!」
涙を拭いながら、無理やり笑った。
「うっかり本人を目の前にして、口を滑らせるなんて。最悪。恥ずかしすぎ――」
「俺は別に構わない」
ん?
「え?」
「そもそも」
亞紗斗さんの視線が、あたしの手の中へ落ちた。
「忘れる必要があるのか?」
「で、でも……」
「手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない」
「…………」
「誰に何を言われようと、それが梨歩にとって大切なら、それでいい」
違う。
そんなに簡単じゃない。
「それだと……涼ちゃんにも、亞紗斗さんにも悪いっていうか……」
指輪を握りしめる。
「こんな中途半端な気持ちなら、そもそも、もう恋なんてしない方が――」
その瞬間。
背中に、温もりが触れた。
「――!」
後ろから伸びてきた腕が、あたしの身体を包み込んだ。
亞紗斗さんだった。
声も出なかった。
いつだって冷静で。
必要以上に人との距離を詰めようとしない人が。
あたしを、抱きしめている。
(う、うそ……嘘でしょ。 何この状況……、何が、どうなってるの?)
「それなら、俺が全部受け入れる」
「…………え?」
耳元で聞こえる声は、いつもと変わらない。
落ち着いていた。
だからこそ。
一言一言が、胸の奥へまっすぐ入ってきた。
「梨歩が涼平を愛したことも、涼平に愛されたことも」
「…………」
「過去は消えない。でも、その過去があるから今の梨歩がいる」
亞紗斗さんの腕に、わずかに力がこもる。
「過去も含めて梨歩の一部なら、それを否定する必要がどこにあるんだ」
涙が、また溢れた。
「だから、忘れなくていい」
ずっと。
誰かに言ってほしかったのかもしれない。
忘れなくていい、と。
涼ちゃんを好きなままでいい、と。
「梨歩の過去も、今も」
静かな声。
「これから先の未来も、俺が全部受け入れる」
「亞紗斗さん……」
「だから、もう迷うな」
そんなこと――できるわけがないと思っていた。
どちらかを選ばなければいけないと思っていた。
涼ちゃんを選ぶなら、ずっと一人でいる。
亞紗斗さんを選ぶなら、涼ちゃんを過去にする。
そのどちらかしかないと。
「俺は涼平の代わりにはなれない」
亞紗斗さんが言った。
「…………」
「なるつもりもない」
その言葉に、胸が震えた。
「でも、これからの梨歩を支えることは……俺にもできる」
一度、言葉が途切れた。
迷っているわけではなかった。
亞紗斗さんは、いつだってそうだ。
自分の言葉を、自分の意志で選ぶ。
そして。
「いや、少し違うな」
あたしを抱きしめる腕が、少しだけ強くなった。
「俺が……そうしたい」
「…………」
「梨歩」
「……うん」
「彼を忘れろとは言わない」
涙が頬を伝う。
「指輪も、持っていればいい」
「…………っ」
「涼平を愛した自分を、否定するな」
もう。
我慢できなかった。
「梨歩の明るさも、素直さも、傷つきやすいところも」
「…………」
「俺は、梨歩の全部を知っているわけじゃない」
「…………」
「それでも、俺が知っている梨歩を、俺は好きになった」
「……亞紗斗さん……」
「俺は俺で」
静かに。
けれど、何ひとつ迷いのない声で。
「梨歩が好きだ」
胸の奥で。
何かが、ほどけた。
「梨歩の過去も何もかも……全部持ったまま、俺のところに来ればいい」
涼ちゃん。
ごめんね。
そう言いそうになって。
やめた。
代わりに。
手の中にある桜の指輪を、そっと握った。
忘れない。
忘れなくていい。
涼ちゃんを愛したことも。
今でも大切に思っていることも。
そして。
この人に惹かれていることも。
全部。
全部、あたしなんだ。
若葉とエディは昨年の春に結婚して、最近子どもが生まれた。若葉そっくりの可愛い女の子で、エディがもう「これでもか!」ってくらいベタ惚れなんだとか。
あたしはあのステージの後、とあるレコード会社から声がかかって、念願の歌手デビューの夢が叶った。
先日、地方のライブツアーを終えて、今度は音楽のラジオ番組のゲストとして出演予定。
EDENは、もともとどこにも所属がないインディーズのまま活動していて、一躍有名にはなったけど、メンバーのそれぞれの進路もあり、あの素顔公開のライブ以降は活動を休止している。
忙しくも充実した毎日を送っている反面、どこか物足りなさを感じることもある。
その正体が何なのかわからないまま、二十五歳を過ぎた頃。
若葉とエディの結婚が決まったと聞いて、あたしは真っ先に二人の元へ駆けつけた。
結婚式では、友人代表スピーチを務めさせてもらった。
二人の幸せそうな姿を見て、あたしは心からの祝福をした――つもりだった。
そして、同時に気づいてしまった。
もし、涼ちゃんがまだ生きていたら。
あたしにも、こういう未来があったのかもしれない……と。
でも、今更そんなことはできない。
涼ちゃんが遺してくれたこの指輪。未だに外せずにいたけれど。
少し前から、涼ちゃんのことをあまり考えなくなっていることに気づいた。
あたし、涼ちゃんのこと……忘れかけている?
途端に、怖くなった。
でも、涼ちゃん以外の人と恋をするイメージがどうしてもできなくて。
いや、そう思い込みたかっただけなのかもしれない。
本当は、既に別の人を見始めている。
あたしの今、一番気になる人。
それは……。
☆
あたしには、柴田涼平――涼ちゃんという恋人がいた。
あたしの十九歳の誕生日に遺してくれた私の似顔絵と、桜を象った指輪。
それを受け取った時には、もう涼ちゃんはこの世にいなかった。
その事実を知った直後、あたしは発作を起こし、生死の境を彷徨った。
涼ちゃんはきっと、あたしがこうなることを分かっていた。
だから最後まで、自分の病気のことを隠していたんだと思う。
涼ちゃんのお姉さんから渡された、この指輪。
病床で、あたしのために選んでくれたもの。
あたしはその指輪と、涼ちゃんの想いを連れて、あの夢のステージに立った。
そして、そのステージで初めてEDENのメンバーと顔を合わせた。
憧れだった彼らは、いつしか“遠い世界の人たち”ではなくなっていった。
若葉とエディを通して、プライベートでも何度か会うようになったからだ。
そんなある日のこと。
「梨歩さん、その指輪、綺麗ですね」
キリト君が、あたしの左手を見て言った。
「ああ、これ? あたしの大切な人からもらったもので――」
本当に、何気なく答えただけだった。
なのに。
「……あれ?」
自分でも気づかないうちに、涙が頬を伝っていた。
「え!? 梨歩さん!? 俺、何かまずいこと――」
「うわ、キリト泣かせた」
「ミナト! そういうこと言わない!」
「いや俺じゃねーし!」
「あんたにはデリカシーってもんがないのか!」
「は~ァ? それ、お前が言うのかよ」
一瞬で、辺りが騒がしくなる。
あたし自身、どうすればいいのか分からなかった。
泣くつもりなんてなかった。
あのステージに立って、涼ちゃんの分まで生きていこうって……そう決めたはずなのに。
まだ、こんなふうに涙が出るんだ。
その時だった。
静かに、ヴァイオリンの音が響いた。
「…………」
誰も何も言わなくなった。
奏でていたのは、亞紗斗さんだった。
口数が少なくて、いつも冷静で。
どこか近寄りがたい人。
正直、最初は少し苦手だった。
でも。
その時の音色は、とても温かかった。
何の曲なのか、その頃のあたしには分からなかった。
ただ。
泣いていていい。
無理に止めなくていい。
そう言われているような気がした。
実際に、亞紗斗さんは……あたしに何も聞かなかった。
涼ちゃんのことも。
どうして泣いたのかも。
ただ、あたしの涙が止まるまで、静かに。
何度も同じ旋律を繰り返しながら、ヴァイオリンを弾いていた。
言葉ではなく、音で包んでもらったような気がした。
――この人、思っていたよりずっと優しいんだ。
たぶん、だけど。
最初は、それだけだった。
それが、始まりだったのかもしれない。
それから何度も顔を合わせるうちに。
気づけば、あたしは亞紗斗さんを目で追うようになっていた。
そして、いつの間にか――。
彼に惹かれていた。
☆
*
「何をしている」
背後から聞こえた声に、肩が跳ねた。
(亞紗斗さん……?)
振り返れなかった。
手の中には、桜を象った指輪。
捨てようとして。
結局、捨てられなくて。
あたしは、それを握りしめたまま泣いていた。
「選べない……」
ようやく、それだけが声になった。
「できない……。涼ちゃんを、忘れることなんてできない……」
亞紗斗さんは、何も言わなかった。
あの時のように。
言い訳も。慰めも。
急かす言葉もなく。
ただ、あたしの後ろに立っていた。
しばらくして、
「忘れなくていい」
静かな声が落ちてきた。
「……え?」
「それは、梨歩にとって大切なものじゃないのか」
あたしは、握りしめていた手をゆっくり開く。
涙で滲んだ視界の中で、小さな桜が光っていた。
「……わからない」
大切。
そんなの、わかっているはずなのに。
「わからない……。大切なはずなのに。涼ちゃんだけを感じていたいのに、最近は……涼ちゃん以外の人のこと、考えたりして……」
言葉にするたび、胸が痛くなる。
「涼ちゃんのこと、忘れたくないのに……その人のことを思うと、苦しくて……」
亞紗斗さんは黙って聞いていた。
「これを外せば、次に進めるかもしれない。楽になるかもしれない。涼ちゃんのお姉さんも、手放してもいいって言ってくれた」
それでも。
「でも、涼ちゃんがそう言ったわけじゃないし……」
もう。
「もう涼ちゃんに聞くこともできないから……どうしたらいいのかわからない……」
返事は、永遠に返ってこない。
それが、たまらなく苦しかった。
「梨歩……。好きなやつが、できたのか」
「…………」
心臓が大きく跳ねた。
答えられない。
代わりに、彼にずっと聞きたかったことを口にした。
「亞紗斗さんなら……どう思う?」
「何がだ」
「前の恋人からもらったものを、いつまでも持ってる人」
怖かった。
それでも聞いた。
「やっぱり、いい気はしないよね。いつまでも過去に執着する、未練タラタラな人って思うよね」
声が震える。
「そんな人のこと、好きになんて……なれないよね……」
沈黙。
「やだ、あたし……何でこんなにベラベラ喋っちゃってんの。ごめんなさい、こんな話聞きたくないよね。いいの、聞き流して――」
「梨歩」
「……なに?」
「俺が好きなのか?」
一瞬、時が止まる。
「え?」
今度は、思考が止まった。
「少なくとも、そう聞こえたんだが」
「…………」
しまった。
「あ……えっと……」
今さら誤魔化せるわけもない。
「あ、あははは……」
「何故笑う」
「あっははは! あたしってば、間抜けすぎる!」
涙を拭いながら、無理やり笑った。
「うっかり本人を目の前にして、口を滑らせるなんて。最悪。恥ずかしすぎ――」
「俺は別に構わない」
ん?
「え?」
「そもそも」
亞紗斗さんの視線が、あたしの手の中へ落ちた。
「忘れる必要があるのか?」
「で、でも……」
「手放すのも苦しいほど大切なものなら、手放すべきじゃない」
「…………」
「誰に何を言われようと、それが梨歩にとって大切なら、それでいい」
違う。
そんなに簡単じゃない。
「それだと……涼ちゃんにも、亞紗斗さんにも悪いっていうか……」
指輪を握りしめる。
「こんな中途半端な気持ちなら、そもそも、もう恋なんてしない方が――」
その瞬間。
背中に、温もりが触れた。
「――!」
後ろから伸びてきた腕が、あたしの身体を包み込んだ。
亞紗斗さんだった。
声も出なかった。
いつだって冷静で。
必要以上に人との距離を詰めようとしない人が。
あたしを、抱きしめている。
(う、うそ……嘘でしょ。 何この状況……、何が、どうなってるの?)
「それなら、俺が全部受け入れる」
「…………え?」
耳元で聞こえる声は、いつもと変わらない。
落ち着いていた。
だからこそ。
一言一言が、胸の奥へまっすぐ入ってきた。
「梨歩が涼平を愛したことも、涼平に愛されたことも」
「…………」
「過去は消えない。でも、その過去があるから今の梨歩がいる」
亞紗斗さんの腕に、わずかに力がこもる。
「過去も含めて梨歩の一部なら、それを否定する必要がどこにあるんだ」
涙が、また溢れた。
「だから、忘れなくていい」
ずっと。
誰かに言ってほしかったのかもしれない。
忘れなくていい、と。
涼ちゃんを好きなままでいい、と。
「梨歩の過去も、今も」
静かな声。
「これから先の未来も、俺が全部受け入れる」
「亞紗斗さん……」
「だから、もう迷うな」
そんなこと――できるわけがないと思っていた。
どちらかを選ばなければいけないと思っていた。
涼ちゃんを選ぶなら、ずっと一人でいる。
亞紗斗さんを選ぶなら、涼ちゃんを過去にする。
そのどちらかしかないと。
「俺は涼平の代わりにはなれない」
亞紗斗さんが言った。
「…………」
「なるつもりもない」
その言葉に、胸が震えた。
「でも、これからの梨歩を支えることは……俺にもできる」
一度、言葉が途切れた。
迷っているわけではなかった。
亞紗斗さんは、いつだってそうだ。
自分の言葉を、自分の意志で選ぶ。
そして。
「いや、少し違うな」
あたしを抱きしめる腕が、少しだけ強くなった。
「俺が……そうしたい」
「…………」
「梨歩」
「……うん」
「彼を忘れろとは言わない」
涙が頬を伝う。
「指輪も、持っていればいい」
「…………っ」
「涼平を愛した自分を、否定するな」
もう。
我慢できなかった。
「梨歩の明るさも、素直さも、傷つきやすいところも」
「…………」
「俺は、梨歩の全部を知っているわけじゃない」
「…………」
「それでも、俺が知っている梨歩を、俺は好きになった」
「……亞紗斗さん……」
「俺は俺で」
静かに。
けれど、何ひとつ迷いのない声で。
「梨歩が好きだ」
胸の奥で。
何かが、ほどけた。
「梨歩の過去も何もかも……全部持ったまま、俺のところに来ればいい」
涼ちゃん。
ごめんね。
そう言いそうになって。
やめた。
代わりに。
手の中にある桜の指輪を、そっと握った。
忘れない。
忘れなくていい。
涼ちゃんを愛したことも。
今でも大切に思っていることも。
そして。
この人に惹かれていることも。
全部。
全部、あたしなんだ。