君という夢を描いて【The after story】―Embraceit all―

2. 未来を重ねて


*

 半年後。

 久しぶりに、亞紗斗さんと予定が合った。

 本当に、久しぶりだった。

 あたしは地方のイベント出演を終えて、その翌日が午前移動。
 亞紗斗さんは同じ街で、別のアーティストのライブにサポートヴァイオリニストとして出演していた。

 同じ県内にいる。

 たったそれだけのことなのに。

「会えるかもしれない」

 そう思った瞬間から、落ち着かなかった。

 仕事が終わってケータイを見ると、亞紗斗さんからメッセージが一件。

『終わった。そっちは?』

 短い。

 いつも通り。

『あたしも終わった!』

 送った直後。

『ホテルはどこだ』

 一瞬、どきりとした。

 場所を伝えると――『今から行く』

 それだけ。

「…………」

 思わず口元が緩んだ。

 たった五文字で、こんなに嬉しくなるなんて。
 
 我ながら単純だと思う。 

*

 あたしの泊まるホテル近くの川沿い。

 夜風が、少し冷たかった。

 それは、四月に入ってまもなくの頃だった。

 昼間は暖かくなってきたけれど、夜になるとまだ薄手の上着が欲しくなる。

 あたしは遊歩道のベンチに座って、亞紗斗さんを待っていた。

 遠くに橋の灯りが見える。

 川面に反射して、細長く揺れている。

 左手に目を落とす。

 桜の指輪。

 涼ちゃんが遺してくれたもの。

 七年以上経っても――今でも、ここにある。

 あの日。

 捨てようとして。

 できなくて。

 そのあたしに、亞紗斗さんは言った。

 ――忘れなくていい。

 ――全部持ったまま、俺のところに来ればいい。

 あの言葉に救われた。

 でも。

 救われたからといって、全部の迷いが消えたわけじゃない。

 あれから亞紗斗さんと付き合うようになって。

 幸せな時間が増えて。

 それと同時に――ふと、怖くなる瞬間もあった。

 涼ちゃんを思い出さない日が増えた。

 昔なら、朝起きた瞬間に思い出していたのに。

 最近は……

 仕事の予定を確認して。

 今日の衣装を考えて。

 亞紗斗さんから連絡が来ていないか確認して。

 そうして一日が始まる。

 それが怖かった。
 
 でも。

 前ほど、その恐怖にも飲み込まれなくなった。

 忘れているんじゃない。

 あたしの中に、ちゃんといる。

 毎日思い出さなくても、涼ちゃんを愛したことがなくなるわけじゃない。

 そんなふうに思えるようになったのは、たぶん。

 亞紗斗さんのおかげだ。

「待たせた」

 玲瓏とした彼の声に、あたしは顔を上げる。

「亞紗斗さん」

 いつもの銀髪をオールバックにした姿。

 黒いジャケット。

 ライブ帰りなのか、片手には細長いヴァイオリンケースを持っていた。

「お疲れさま」

「そっちもな」

 隣に腰掛ける。

 いつもの距離。

 近すぎず、遠すぎず。

「今日どうだった?」

「問題ない」

「感想それだけ?」

「何を期待している」

「あはは。いつも通りだね」

 あたしが笑うと――亞紗斗さんが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 
 それだけで嬉しい。

 昔だったら……こんなクールな人を好きになるなんて、想像もしていなかった。

 あたしは、どちらかというと……ちょっと間抜けで不器用で、あたしをいっぱい笑わせてくれる人がタイプだった。
それで、あたしのやりたいことをいつだって応援してくれて。
 一緒にいて、飽きない人。

 口数が少なかったり、あまり感情を表に出さない人は、どこか苦手だった。

 はずなのに。

 いつの間にか、好きになっていた。

 涼ちゃんの不器用な優しさが好きだったけど、亞紗斗さんの優しさは……いつだって不意打ちで。

 あたしは毎回、それにやられてしまう。

 一見、何を考えているのかわからないくらい物静かなのに。
 本当に苦しい時には、いつだって一番近くにいてくれる。
 無理に励ますこともなく。
  忘れろとも言わず。
 ただ、そばにいてくれる。

 それだけで、充分だと思えるようになった。
 
 きっと――そういうところを、あたしは好きになったんだと思う。

 
 「梨歩」

「ん?」

「明日は何時に出る?」

「十時くらい。亞紗斗さんは?」

「昼過ぎだ」

「そっか。じゃあ朝ごはんくらい一緒に食べられる?」

「ああ」

 それだけの約束が、嬉しい。

 本当に。

「なんかさ」

「何だ」

「あたしたち、恋人っぽくないよね」

「今さら何を言っている」

「だって普通、もっとこう……毎週デートしたり、休みの日は一日一緒にいたりするもんじゃない?」

「普通が何かは知らない」

「ですよね」

 あたしは笑った。

 でも。

 亞紗斗さんは続けた。

「俺はこれでいい」

「え?」

「会える時に会えばいい」

「…………」

「毎日会えなくても、関係が変わるわけじゃない」

 さらりと言う。

 簡単に。

 でも。

 その言葉が、やけに胸に沁みた。

「あたしさ」

「何だ」

「たまに不安になるんだよね」

「何が」

「会えない時間が長いと」

 少し迷った。

 でも、言った。

「また、大切な人が遠くに行っちゃう気がして」

 亞紗斗さんは黙った。

 あたしは続ける。

「涼ちゃんの時とは違うって、分かってるんだけどさ」

 生きてる。

 連絡できる。

 次に会う約束だってできる。

 全部違う。

 でも。

 体のどこかが、まだ覚えている。

 突然失う怖さを。

「だから、返事がないと勝手に心配したりする」

「…………」

「重いよね。未だにこんな話、亞紗斗さんにしちゃうなんて。きっと……困らせてるよね、あたし」

 笑って誤魔化そうとした。

 でも。

 亞紗斗さんは、笑わなかった。

「重くない」

「え?」

「それで不安になるなら、俺に言え」

「でも忙しいでしょ」

「忙しいことと、梨歩を不安にさせることは別だ」

「…………」

 そういうことを。

 この人は、本当にさらっと言う。

 ずるい。

「亞紗斗さんってさ」

「何だ」

「たまに反則だよね」

「意味が分からない」

「分からなくていい」

 笑った――その時。

  亞紗斗さんが、ヴァイオリンケースとは反対の手を、ジャケットのポケットへ入れた。

「梨歩」

「ん?」

 何かを取り出す。

 小さな箱。

「…………」

 理解するまでに、数秒かかった。

「え」

 亞紗斗さんが、こちらを見る。

 いつもと同じ。

 落ち着いた目。

 アイスグレーの瞳。
 

 でも。

 どこか、いつもより真剣だった。

「開けろ」

「え、ちょ、ちょっと待って」

「何故だ」

「いや、だって、これ……」

「いいから」

 亞紗斗さんに差し出され、あたしは受け取る。

 それは、小さなケース。

 指先が震えた。

「……これ、まさか」

「開ければ分かる」

「あの……あたしには、心の準備ってものが」

「以前も同じことを言っていたな」

「何の話?」

「婚約者だと公表した時」

「はぁ! それ今言う!?」

 思わず声が裏返る。

  あれは、亞紗斗さんと付き合い始めて三カ月くらい経った頃の夜。
 あたしは、亞紗斗さんといるところを週刊誌に撮られて――世間では熱愛だ、密会だと騒がれて。

 連日、群がるように待ち伏せた記者たちに囲まれた亞紗斗さんが。

『彼女は俺の恋人ではありません。婚約者です』
と。

 あっさり勝手に全国へ発表した。

 いや。

 婚約の話は、付き合い始めて割と早い段階から、あたしたちの間でもしていた。

「いつか結婚しよう」じゃなくて、亞紗斗さんは最初から「いずれ結婚する」と言っていて。
 あたしも、それを拒んだことはなかった。
 だけど。

 (だからって、正式なプロポーズより先に全国発表するなんて、誰が思うのよ)

「あれ本当にびっくりしたんだからね」

「事実だっただろ」

「まだ正式にプロポーズされてなかった!」

「だから今している」 

「順番!!」

 また。

 亞紗斗さんの口元が、少しだけ緩んだ。

「開けろ」

「……もう」

 観念して、ケースを開く。

 息が止まった。

 細身のプラチナリング。

 小さなダイヤが並んでいて。

 中央は、わずかに柔らかな曲線を描いている。

 派手じゃない。

 でも。

 細部まで繊細なデザインで――とても綺麗だった。

 亞紗斗さんらしいと思った。

 無駄がなくて。

 静かで。

 でも、ちゃんと目を引く。 

「綺麗……」

 あたしは思わず呟いた。

 そして、気づく。

 その形。

「これ……」

 左手を見る。

 桜の指輪。

 もう一度、新しいリングを見る。

「もしかして」

 胸が震えた。

「これ……重ねられるの?」

「そうだ」

 即答だった。
 
「…………」

 言葉が出なかった。

 亞紗斗さんは続ける。

「梨歩の指輪に合うように作ってもらった」

「…………っ」

「店で何度か調整した」

「何度か?」

「ああ」

「わざわざ?」

「当然だ」
 

 当然。

 その言葉に、涙が滲んだ。

「どうして……」

 分かってる。

 聞かなくても分かる。

 でも、聞きたかった。

「どうして、この形にしたの?」

 亞紗斗さんが、あたしの左手を見る。

 桜の指輪。

「外せないんだろ」

「…………」

「涼平の指輪」

 胸が詰まる。

「それは、梨歩にとって大切なものだ」

「……うん」

「なら、外す必要はない」

「でも……」

 声が震えた。

「でも、これ……婚約指輪なのに……」

 普通なら。

 前の恋人の指輪を外して。

 新しい人の指輪をつける。

 そういうものなんじゃないの。

「亞紗斗さん、嫌じゃないの?」

「何が」

「自分が贈った指輪の隣に、涼ちゃんのがあるの」

「別に」

 亞紗斗さんは少しも迷わなかった。

「…………」

「同じ意味の指輪じゃないだろ」

「え……?」

「涼平のそれは、梨歩が涼平に愛された証だ」

 静かな声だった。

「俺のこれは」

 亞紗斗さんがケースからリングを取り出す。

「これからの約束だ」

 涙が落ちた。

 
「過去と未来は、意味が違う」

 亞紗斗さんが、あたしの左手を取る。

「一つを選ぶために、もう一つを捨てる必要はない」

「…………っ」

「俺は前にも言ったはずだ」

 亞紗斗さんの指が、あたしの桜の指輪にそっと触れる。

「全部持ったまま、俺のところに来ればいいと」

「亞紗斗さん……」
 

 もう。

 涙が止まらなかった。

「ずるい……」

「何が」

「ほんと、ずるいよ……」

 涼ちゃんを忘れなくていい。

 指輪も外さなくていい。

 それなのに。

 未来までくれる。

 そんなの。

「そんなことされたら……」

 声が震える。

「もっと好きになるじゃん……」

 亞紗斗さんが、わずかに目を細めた。

「それでいい」

「……っ」

「梨歩」

 あたしは呼ばれる。

 真っ直ぐで、逃げ道なんて与えない亞紗斗さんの声で。

「俺は涼平の代わりになるつもりはない」

「うん」

「涼平と梨歩が過ごした時間に、入っていくつもりもない」

「うん……」

「でも」

 握られた手に力がこもる。

「これから先の時間は、俺にくれ」

 息が止まった。

「…………」

「梨歩がどこへ行こうと、何をしようと、仕事を続けようと構わない」

 亞紗斗さんらしい。

 あたしに仕事を辞めろとは、絶対に言わない。

「俺も今の仕事を続ける」

「うん」

「だから、会えない時間はなくならない」

「うん」

「すれ違うこともある」

「……うん」

「それでも」

 アイスグレーの瞳が――まっすぐ、あたしを見る。

「俺は、梨歩と生きたい」

「…………っ」

 だめだ。

 もう。

 涙で、ほとんど見えない。

「梨歩」

 一度、静かに息をついて亞紗斗さんが言った。

「結婚してくれ」

 世界が、静かになった。

 川の音も。

 遠くの車の音も。

 何も聞こえなくなった。

 ただ――目の前にいる人の声だけが。

 胸の中に残った。

(結婚――あたしが……誰かと)

 
 昔。

 考えたことがあった。

 涼ちゃんと。

 もし、病気なんてなくて。

 事故なんてなくて。

 あのまま一緒にいられたら。

 いつか結婚するのかなって。

 でも。

 その未来は叶わなかった。

 だから。

 もう一度誰かと未来を考えることが、ずっと怖かった。

 約束したら、また失うかもしれない。

 幸せになったら、また壊れるかもしれない。

 でも、今は。

 それでも。

「……うん」

 声が震えた。

「亞紗斗さん」

 あたしは、涙を拭う。

 ちゃんと見たかった。

 この人の顔を。

「何だ」

 もう一度。

 今度は、はっきり。

「あたしも、結婚したい……亞紗斗さんと」

 亞紗斗さんは、大げさに笑ったりしなかった。

 ただ、少しだけ。

 本当に少しだけ。

 嬉しそうに笑った。

 その表情を見た瞬間――胸がいっぱいになった。

「左手、出せ」

「……うん」

 あたしは、亞紗斗さんに左手を差し出す。

 桜の指輪。

 涼ちゃんが遺してくれたもの。

 亞紗斗さんは、それを外さなかった。

 その指輪に寄り添うように、新しい指輪を通していく。

 ゆっくり。

 ゆっくり。

 二つのリングが、ぴたりと重なった。

 はじめから、本当に一緒につけるために作られていたみたいに。

 桜の花を包むように。

 新しいリングの曲線が寄り添っている。

「……綺麗」
 

 涙が、また落ちた。

「ほんとに……綺麗……」

 涼ちゃん。

 見てる?

 あたし。

 指輪、外さなかったよ。

 あなたを忘れたわけでもない。

 でも。

 あたし――未来を選んだよ。

 もう、「ごめんね」とは思わなかった。

 代わりに、心の中で「ありがとう」と言った。

 涼ちゃん。

 あたしを好きになってくれて。

 あたしに、あんなに大切な時間をくれて。

 ありがとう。

 そして。

「亞紗斗さん」

「何だ」

「ありがとう」

「何に対してだ」

「全部」

 亞紗斗さんは、少しだけ困ったように息を吐いた。

「抽象的すぎる」

「いいの」

 あたしは笑った。

 泣きながら。

 それでも、ちゃんと笑えた。

「全部だから」

 過去も。

 今も。

 これからも。

 涼ちゃんを愛したあたしも。

 亞紗斗さんを愛しているあたしも。

 全部。

 何ひとつ。

 消さなくていい。

 何ひとつ。

 捨てなくていい。

 二つの指輪が重なった左手を。

 亞紗斗さんが、そっと包み込む。

「帰るか」

「え?」

「冷えてきた」 

「あ、うん」

 あたしたちは、立ち上がる。

 少し歩いて、あたしは亞紗斗さんの腕に、自分の腕を絡めた。

「何だ」

「いいでしょ。婚約者なんだから」

「好きにしろ」

「あはは」

 いつも通り。

 でも。

 もう、少しだけ違う。

 左手には、二つの指輪。

 一つは。
 あたしが愛した人から。

 もう一つは。
 これからを一緒に生きる人から。

 どちらも、あたしの人生。
 どちらも、大切な愛。

 だから、全部。
 抱えていく。

 これが、あたしの選んだ未来だから。

 あたしのすべてを受け入れてくれた彼に、あたしのすべてをかけて。

 彼の未来ごと、抱きしめていく。

 涼ちゃんを愛した過去も。
 亞紗斗さんを愛する今も。

 これから二人で歩いていく未来も。

 あたしはこれからも、生きていく。

 彼らと共に、生きていく。

 
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