君という夢を描いて【The after story】―Embraceit all―
第5話『甘い囁きは永遠の誓い』

囁く愛


 薄暗い部屋の中。

 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、床に細長い帯を落としていた。静かな室内には、二人分の呼吸だけが重なっている。

 梨歩は、亞紗斗の腕の中にいた。

 背中に回された腕は思っていたよりも強く、けれど少しも苦しくない。逃がさないように抱きしめられているのに、その体温に包まれていると、不思議なくらい心がほどけていく。

 すぐ近くにある銀色の髪。

 いつものようにきっちり上げられていた前髪は、今はすっかり落ちている。
 柔らかな髪先が額や頬にかかり、触れそうで触れない距離を揺れていた。

 ただでさえ整いすぎている顔が、無防備な髪型のせいで妙に幼く見えるのに。

 こちらを見つめるアイスグレーの瞳だけは、ひどく熱っぽかった。

 視線を向けられているだけなのに、肌の上を指でなぞられているような感覚がする。梨歩は落ち着かなくなって、彼のシャツを指先でそっと掴んだ。

「……亞紗斗さん」

 名前を呼ぶと、彼の腕に力がこもる。

 胸と胸の間にあったわずかな隙間がなくなり、彼の鼓動が自分のものと重なった。

 その近さに戸惑いながらも、梨歩は離れなかった。むしろ、触れている場所から伝わる熱を確かめるように、指先へ少しだけ力を込める。

 そして耳元に唇を寄せた亞紗斗が、低い声で囁いた。

“I love you.”

「……!」

 吐息が耳をかすめ、梨歩の肩が跳ねた。

 意味くらいはわかる。

 けれど、こんなに近い距離で、こんな声で言われるとは思っていなかった。耳の奥に落ちた言葉が、そのまま胸の内側へ染み込んでくる。

 驚きが、戸惑いに変わる。
 戸惑いはすぐに、どうしようもない嬉しさへ変わっていった。

“You’re so beautiful.”

「え……」

“I can’t stop looking at you.”

「ちょ、ちょっと待って」

 梨歩が慌てて顔を上げる。

 近すぎる距離で視線がぶつかり、息が触れ合った。亞紗斗の瞳には、からかうような色と、隠しきれない熱が混ざっている。

「亞紗斗さん、何言ってるの?」

「別に」

「別にじゃないでしょ!」

 絶対、甘いことを言っている。

 英語が堪能ではない梨歩でも、それくらいはわかる。

 ところが亞紗斗は、まったく悪びれない。

 むしろ日本語で訊かれた途端、少しだけ視線を逸らした。耳の先が、ほんのわずかに赤くなっている。

「……日本語では言いたくない」

「なんで?」

「小っ恥ずかしい」

「英語ならいいの!?」

「ああ」

「ずるくない!?」

 思わず声を上げると、亞紗斗がふっと笑った。

 低く、喉の奥でこぼれるような笑い声だった。その振動が触れ合った身体を通して伝わり、梨歩の胸が大きく鳴る。

 前髪を下ろした亞紗斗の笑顔。

 ただでさえ反則なのに。

 今は完全に、梨歩しか見えていない。

 その事実が嬉しくて、同時に恥ずかしくて、梨歩は視線を逸らそうとした。

 けれど亞紗斗は逃がさないように、梨歩の頬へ手を添えた。指先が肌を撫でるたび、そこだけ熱が集まっていく。

 触れられるたび、梨歩の中にあった警戒や照れが、少しずつ形を失っていく。代わりに残るのは、もっと近くにいたいという、素直な気持ちだった。

“You have no idea how much I love you.”

「……また言ってる」

 全部はわからない。

 けれど。

 love。

 その単語だけは、はっきり聞こえた。

梨歩の頬が熱くなる。耳まで熱が広がり、呼吸の仕方さえわからなくなった。

「今、愛してるって言った?」

「さあな」

「言った!」

 亞紗斗は答えない。

 代わりに梨歩の額へ口づける。

 触れた唇の温度が、じんわりと残った。

 それから頬。

 瞼。

 最後に唇へ。

 触れるだけだった口づけが、少しずつ深くなる。最初は確かめるようだった触れ方が、重なるたびにためらいを失っていく。息が乱れ、指先に力が入った。亞紗斗の服を掴んだ手が離せない。

 唇が離れた、その一瞬。

 名残を惜しむように、二人の間で細い吐息が揺れた。

 梨歩は、もう一度触れてほしいと思ってしまった。
 その願いを見透かしたように、亞紗斗の指が頬を撫でる。

“I want you close.”

 低い声が落ちてくる。

“Stay with me.”

「……亞紗斗さん」

“Don’t go anywhere.”

 今度は、なんとなくわかった。

 梨歩は亞紗斗の胸元を掴む。

 その下で、彼の心臓が速く打っているのを感じた。自分だけが動揺しているわけではないのだと知ると、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 同時に、彼もまた自分を求めているのだという実感が、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいった。

「……行かないよ」

 亞紗斗の目が細くなる。

 その表情があまりに優しくて。

 なのに、どうしようもなく色っぽい。

 梨歩の背中を抱く腕が、もう一度ゆっくりと強まった。体温も、呼吸も、鼓動も、すべてが近い。

“My beautiful girl.”

「……絶対また恥ずかしいこと言ったでしょ」

「日本語にするな」

「意味教えて」

「嫌だ」

「なんでよ」

「俺が耐えられない」

「自分で言ってるじゃん!」

 亞紗斗がとうとう吹き出した。

 声を立てて笑うほどではない。

 けれど、肩を揺らしながら本当に楽しそうに笑っている。その笑いが近くで響くたび、梨歩の頬にも自然と笑みが浮かんだ。

 そんな顔を知っている人は、きっとほとんどいない。

 梨歩は嬉しくなって、亞紗斗の首へ腕を回した。

 首筋に触れた指先から、彼の体温が伝わってくる。抱きつくと、亞紗斗は一瞬だけ目を見開き、それからさらに深く梨歩を抱き寄せた。

 その反応が嬉しくて、梨歩は初めて、自分から彼を求めることをためらわなかった。

「もっと言って」

「意味がわからなくても?」

「うん」

 少し考えるように亞紗斗が梨歩を見る。

 その視線にまた胸が騒いだ。まるで言葉を選ぶ時間さえ、梨歩を喜ばせるためのもののようだった。

 そして、もう一度抱き寄せた。

“I’m crazy about you.”

“I could stay like this forever.”

“I’ve never wanted anyone the way I want you.”

 次々と耳元に落ちてくる英語。

 吐息が耳をくすぐるたび、梨歩の身体が小さく震えた。意味はわからなくても、声の柔らかさと、抱きしめる腕の強さだけで、そこに込められた想いが伝わってくる。

 わからないことが、もう不安ではなかった。
 言葉のひとつひとつを理解できなくても、彼がどんな気持ちで囁いているのかは、触れ合う体温が教えてくれる。

「……全然わかんない」

「それでいい」

「でも……」

 梨歩は亞紗斗の胸に頬を寄せた。

 耳を澄ますと、すぐそばで彼の鼓動が鳴っている。規則正しいはずの音は、いつもより少し速かった。

「ものすっごく愛されてる感じはする」

 一瞬。

 亞紗斗が黙った。

 腕の中の空気が、わずかに変わる。

 そして、梨歩の髪に顔を埋める。銀色の髪が頬に触れ、彼の吐息が髪の間を通って首筋をくすぐった。

“That’s because you are.”

「……?」

 顔を上げた梨歩に、亞紗斗は日本語では答えなかった。

 ただ、もう隠す気など微塵もない目で梨歩を見つめている。

 その瞳に映る自分の姿が見えそうなほど、近い。

 こんな目で見られて。

 こんな声で囁かれて。

 夢中になるなという方が無理だった。

 梨歩は、もう英語の意味を尋ねなかった。
 尋ねなくても、今の言葉が自分へ向けられたものだと、はっきりわかったからだ。

「……ずるい」

「何が」

「英語」

「便利だろ」

「亞紗斗さんの照れ隠しにね」

「そうだな」

 否定すらしない。

 その素直さに、梨歩の胸がまた熱くなる。

 そして。

 梨歩の耳元に唇を寄せて。

 最後に、これだけはひどくゆっくりと。

“My love.”

 梨歩にもわかる言葉を、わざと選んで囁いた。

 声が耳の奥に残り、そこから全身へ熱が広がっていく。

「……っ」

「これはわかっただろ」

「……亞紗斗さんの馬鹿」

 真っ赤になって胸へ顔を隠す梨歩を見て。

 亞紗斗は満足そうに目を細める。

 梨歩の髪に頬を寄せ、背中をゆっくり撫でる。その手つきがあまりに優しくて、梨歩はもう顔を上げられなかった。

 けれど、今度は逃げたいとは思わなかった。

 恥ずかしさに顔を隠したまま、梨歩は亞紗斗の服を握り直す。離れないという意思を、言葉の代わりに伝えるように。

 日本語なら、とてもじゃないが言えない。

 けれど英語なら。

 恥ずかしさより先に、溢れそうな想いを伝えられる。

 そして梨歩もまた、まだ声にはできない想いを、抱きしめる腕の強さに託していた。

 だからその夜。

 亞紗斗は梨歩を腕の中に抱いたまま。

 互いの体温が冷めないように、何度も抱きしめ直しながら。

 普段の彼からは想像もできないほど甘く。

 何度も、何度も。

 愛を囁き続けた。

「ねえ。どうして、そんなに――?」

“Because I love you, my love.”

 やがて言葉が途切れても、二人は離れなかった。

 街灯の光が少しずつ床の上を移ろい、夜が静かに深まっていく。

 梨歩は亞紗斗の胸に頬を寄せたまま、目を閉じる。

 耳元に残った声も、背中を撫でる手の温度も、重なった鼓動も、すべてが消えずにそこにあった。

 意味を知らない言葉さえ、もう怖くない。

 あの声で呼ばれるたび、あの腕に抱かれるたび。

 梨歩は少しずつ、亞紗斗の中へ深く沈んでいった。

 そして亞紗斗もまた、梨歩を抱く腕を緩めることなく。

 誰にも聞こえないほど静かな声で、最後にもう一度だけ囁いた。

“My love.”

 まどろみかけた梨歩の唇が、かすかに動く。

「……行かないよ」

 返事の代わりに、抱きしめる腕が強くなる。

 少し迷ってから、梨歩はもう一度口を開いた。

“Because I love you too, my love.”

(あたしだって、愛してる。誰よりも、あなたのこと――って、そこまで言えたら格好いいんだけど)

 残念ながら、今の梨歩の英語力ではここが限界だった。

 それでも。

 亞紗斗には、充分すぎるほど伝わった。

「梨歩……」

「伝わった?」

“You’ve still got a long way to go.”

「え?」

「冗談だ」

「今、からかったでしょ」

「気のせいだ」

「嘘だ」

 亞紗斗は小さく笑って、梨歩の頬を撫でた。

“Your English doesn’t have to be perfect. I know exactly what you’re trying to tell me.”

「早すぎてわかんない」

 梨歩がむっとすると、亞紗斗は耳元へ唇を寄せた。
 今度は、ひどくゆっくりと。

“I understand.”

「何が?」

 亞紗斗の口元が、わずかに上がった。

“What you’re trying to say. Even with your clumsy English.”

「今、下手くそって言った?」

「そこまでは言っていない」

「ほぼ言ってるようなもんじゃん!」

 亞紗斗が声を殺して笑う。

 けれど、その腕は梨歩を離さない。

 たどたどしくても。
 言葉が足りなくても。

 彼女が何を伝えたかったのか。
 亞紗斗には、充分すぎるほど伝わっていた。

 そして、梨歩をもう一度胸元へ引き寄せる。

“I’m never letting you go.”

 その意味を、梨歩はまだ完全には理解できなかった。

 けれど――抱きしめる腕の強さだけで、充分だった。

 薄暗い部屋の中で、二人の鼓動だけが、いつまでも寄り添うように重なっていた。

 二週間後――。

 梨歩と亞紗斗は、婚姻届を提出した。

 もう、恋人でも。
 婚約者でもない。
 夫と、妻。

 あの夜、梨歩が告げた言葉の通り。
 彼女はどこへも行かなかった。

 これから先の人生を――亞紗斗の隣で生きていくことを選んだ。
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