君という夢を描いて【The after story】―Embraceit all―
第6話『幸せの足音』

愛し子


「また、ダメだった……」

 リセット。

 亞紗斗との子どもを望んで数か月ほど経った。
 病院では何の問題も見つからなかった。
 亞紗斗も、「俺が原因かもしれない」と一緒に検査までした。
 異常なし。

 人工授精、または体外受精という方法もある。

 でも、原因不明なだけあって、余計に踏み出せずにいた。

「授かりものとはいうけど……こんなにも苦戦するとは思わなかったな」

 親友の若葉は、現在第二子を妊娠中だ。若葉は結婚してから、割と早くに第一子を授かった。自分もまだ若いから、すぐ授かると思っていた。

「比べたって、仕方ないのに」

 若葉。

 しばらく会っていない。

 でも、急に会いたくなった。

「連絡、してみようかな」

 電話をかけた。

「……出ない」

 呼び出し音が鳴るだけ。

 切ろうとした直前。

『梨歩?』

「若葉……」

『ごめんね、瑠花(るか)がジュースこぼしちゃって着替えさせてたの』

「そうなんだ」
 
『梨歩、どうしたの?』

「え?」

『何か、元気ないみたいだけど』

「……うん」

『何かあった?』

「ちょっとね」

 若葉に言うべきか。

 妊娠中の彼女に、余計な心配はかけたくない。

 でも。

「あのさ、若葉」

『何?』

「今から、行ってもいい?」

『え、構わないけど。結構散らかってるけどいい?』

「それは大丈夫。ごめんね、急に」

『いいわよ、私も一日ワンオペで誰かと話したいときあるし』

「じゃあ、今から行くね」

『わかった。気を付けて』

 梨歩は、若葉の厚意に甘えることにした。

 自分だけではどうにも解決できない。

 病院に行けばいいのだろうけど。ほしい答えが返ってくるとは限らない。

 誰かに聞いてほしかった。

 それだけだった。

 梨歩は行きがけに手土産を買い、若葉の家に行った。

 建てたばかりの新築の一軒家。
 真新しい木の香りが漂う。

「あ、梨歩。いらっしゃい」
「ちは」
と、瑠花。
「わ、瑠花ちゃんまで。若葉、急にごめんね。あ、これお土産。あとで食べて」
「あら、ありがとう。散らかってるけど、上がって」
「じゃあ、お邪魔します」

 リビングには、瑠花が遊んだ痕跡がいくつかある。

「若葉そっくりだね、瑠花ちゃん」

「うん、それよく言われる」

「エディ、デレデレじゃない?」

「デレるどころか……すっかり懐柔されてるわ」

「え、こんな小さい子に?」

「もう病気レベル」

「そうなんだ。だいたい想像つくけど」

 エディは日中美容師として働いているので、家を空けることが多い。土日は基本仕事なので、若葉はワンオペ。結婚式場の装花スタッフとして勤務する若葉は、瑠花ちゃんの育休中に第二子を授かったため、このまま産前休暇に入るらしい。

「ところで梨歩。今日はどうしたの?」

「あ、そのことなんだけど」

 梨歩は少し迷った。

「若葉は、妊活っていつから始めたの?」

「え、妊活?」

「うん」

「えっと……籍入れて、結婚式終わるまでは控えてたから……終わった直後かな」

「それで、すぐ始めたの?」

「そうね。さあ、これから妊活しよう! って張り切ってやっていたわけじゃないけど。それでも、何度かリセットして落ち込むことあった」

「え、リセットって……若葉も、そうだったの?」

「うん? まさか、梨歩……それで悩んでたの?」

「うん。半年くらい経つ」

「そっか。亞紗斗さんは?」

「焦る必要はない。俺は梨歩がいればそれでいいって、言ってくれる」

「亞紗斗さんらしいけど。でも、それだけじゃないでしょ。梨歩が悩むってことは」

「え?」

「そう言ってくれる亞紗斗さんが、梨歩との子どもを望むような瞬間があったから、苦しいんじゃない?」

「!」

「やっぱり」

「何でわかるの?」

「顔に書いてある」

「え!」

「あ、あかちゃん」

「どうしたの? 瑠花」

 瑠花が梨歩を指さして言った。

「あかちゃん、あかちゃん」

「え? 赤ちゃんは今、ママのお腹にいるよ。瑠花はもうすぐ、お姉ちゃんになるんだよ」

「こっち」

「え? 何? あたし?」

「あかちゃん、笑った」

「瑠花ちゃん? おばちゃん、あかちゃんいないよ」

「いるの! ママにも、おばちゃんにも!」

「瑠花?」

「ママがさき。おばちゃんはもうすこしあと。どっちもおとこのこ。どっちもパパにそっくり。おばちゃんのあかちゃん、おじちゃんそっくり」

 無言。

「ねえ。瑠花、こんなに喋ったの初めてなんだけど」
「え、そうなの?」
「もっとたどたどしい話し方だったのに、こんなに急に喋り出すものなのかな……?」
「さあ……」

「ねえ、梨歩」
「何?」

「これは、私の勘だけど」

「うん」

「着床出血の可能性、ない?」

「え、でも……生理かと思うくらいの量、出てたから」

「それ以降は?」

「あれ? そういえば……」

「何?」

「あれっきり、だったかも」

 さっきの瑠花の発言といい、若葉の勘といい。

 気になる要素がいくつかある。

「梨歩、私……検査薬のあまりがあるの。良かったら、試してみたら?」

「え、でも……」

「万が一ってこともあるから」

「うん」

 梨歩は若葉に促され、検査薬を試すことにした。

「怖いけど……」

 じわじわと、判定終了の線が浮き出ていく。

 気になるのは、その隣の小窓の反応。

「え……何、これ……?」

 見たことのない反応に、一瞬――蒸発線かもしれないと思った。

 期待するのは、まだ早い。

 二度見。

 三度見。

 何度も、何度も確かめた。

 陽性なら、線は二本。

 陰性なら、線は一本。

 これまで何度も試してきたはずなのに、何度も何度も見てしまう。

 結果は、もう明らかだった。

 判定終了の線がくっきり出たのを確認し、梨歩は若葉のいるリビングに戻った。

「…………」

 言葉が出ない。

「梨歩?」

「……若葉、あたし……」

 梨歩はその場に座り込む。

「梨歩?」

 検査薬を握りしめた梨歩。

「若葉……これ」

 そこには。

 くっきりと、二本の線が。

「あたし……」

「梨歩……」

「あかちゃん。やっぱりいた」と瑠花。

「うう……」

「梨歩、おめでとう」

「本当に、来てくれた……」

「うん」

 *

 その夜。

「亞紗斗さん」

「何だ?」

「あの、あたしね……」

 梨歩は、検査薬を亞紗斗に見せた。

「できた、みたい」

 その瞬間。

 広い腕が梨歩を包んだ。

「梨歩……」

「亞紗斗さん?」

「病院は、行ったのか?」
 肩越しに聞こえる亞紗斗の声。

「うん。まだ袋しかみえなかったけど」

「そうか」
 亞紗斗の声が、いつもより揺らいでいる。
「また、次の週に来てくださいって。心拍が確認できたら、母子手帳ももらいにいって、それから――」
「ありがとう」

 亞紗斗の腕に、少し力が込められる。
「亞紗斗さん?」

「次は、一緒に行こう」

「うん……」

 そして、翌週。
 梨歩は亞紗斗と病院へ向かった。

「ああ、緊張する」
 妊娠反応が見られてからは、院内の景色が違って見えた。

 待合で何人かの妊婦を見るたびに、いたたまれない気持ちになっていた頃もあった。

 人気の産院ということもあり、待合はかなり混雑している。
「亞紗斗さん、座らなくて大丈夫?」
「いや、俺はいい」
「あの人は座っているけど」
「混雑した産院の待合で、男が堂々と座るのは気が引ける」
「それもそうか」
 亞紗斗は待合のソファーの横にかがみ、時折立ち上がりながらやり過ごす。
「ねえ、足しんどくない?」
「俺のことはいい」
「亞紗斗さん、背高いから……それに、さっきから異様な視線を感じる」
「何のだ」
「さっき、隣にいた人。亞紗斗さんのことガン見してた」
「気のせいだ」
「そんなわけないじゃん」
「だとしたら、物珍しさだろう」

 念のため、と亞紗斗は普段と違う出で立ちで外出していた。亞紗斗も梨歩も、世間に顔を知られている。
 亞紗斗は前髪を下ろし、色つきの眼鏡にマスク姿。
 梨歩は髪を後ろで一つにまとめ、黒縁のだて眼鏡にマスク姿。

 それでも、亞紗斗は目立つ。
「声かけられないだけ、まだマシか」
「おい、あんまり会話してると気づかれる」
「ああ、ごめんごめん」
「声がデカい」

 そして、順番が来た。
 梨歩と亞紗斗は診察室前の椅子まで移動する。
「二時間近く待ったね」
「ああ」
「終わったら昼ご飯食べに行きたいな」
「終わったらな」
「あ」
「何だ」
「やばい、緊張してきた」
「さっきまで飯のことしか頭になかっただろ」
「だって、お腹空いたんだもん」
「本来の目的を忘れるな」
「うう」

 診察室のドアが開いた。
「次の方、どうぞ」

 診察室に入る。
「体調はどう?」
「あ、全然何ともないです」
「気持ち悪いとか、出血はないですか?」
「はい。今のところは」
「では、今から内診しますね。奥様はこちらでお着替えを」
「はい」
「ご主人は少しこちらでお待ちください」
「はい」

 梨歩は内診台に座る。
「はい、椅子倒れます」
「うわあっ」
「足も開きますよ。力抜いて」
「ああ、まだこの椅子……慣れないな」
「機械入ります」
「い、痛い……」
「深呼吸しましょう。力はいっていると余計痛いからね」
「はい……」
「ご主人、こちらへ。奥様の肩のあたりでモニター見ててくださいね」
「はい」

 白黒の映像が画面に表示された。
「この黒い丸が胎嚢で、中にある白のリング状のものが卵黄嚢です。赤ちゃんは、ここから栄養をもらって大きくなります。心拍は……」

 モニターに映る小さな小さな点。
「点滅しているの、わかります?」
「はい。チカチカしてる」
「元気に動いてますね、赤ちゃんの心拍。確認できましたよ。おめでとうございます」

 モニター越しに、何度もチカチカと点滅する――小さな光。

 溢れ出す涙。

「ありがとうございます」
「よかった……ちゃんと、元気に動いてて……」 

 内診を終え、梨歩は診察室へ戻る。

「今日無事に心拍が確認できたので、次からは妊婦健診が始まります。それまでに、母子手帳を用意して、健診の時には必ず持ってきてください。母子手帳の受け取り方法ですが、このあと書いていただく妊娠届を持って管轄地域の窓口へ提出すればもらえます」
「はい」

 梨歩と亞紗斗は、その足で管轄の窓口へ向かった。

 *

 移動中の車の中。

「はああ、緊張したあ」
 梨歩は助手席で大きくのびをする。
「とりあえず、第一関門クリアだな」
「うん」
 手に持った妊娠届を眺める梨歩。
「ねえ、出産予定日だけどさ」
「ああ」
「このままの計算だと、四月二十一日だって」
「そうだな」
「亞紗斗さんの誕生日と一緒」
「あくまで予定日だろう。しかも、まだ確定じゃない。ずれる可能性もあると言われただろう」
「嬉しいくせに」
「……否定はしない」

 *

 「あの、母子手帳の交付をお願いします」
 梨歩は窓口にいる女性に、妊娠届を提出した。

「おめでとうございます。お二人にとっては、初めてのお子様ですね」
「はい」
「では、こちらが母子手帳になります。妊婦健診の際は、必ずお持ちください。受診券もセットでついています。妊婦健診は保険適用外なのですが、この受診券があれば、上限はありますが公費負担で受けることができます。検査内容によっては、支払いがない場合もあります。母子の健康のためにも大切な検査になるので、必ず受診してください」
 保健師からの説明を受け、市町村の行政サービスや、両親学級、各施設や相談窓口の一覧など、冊子やパンフレットをいくつかもらう。
そして。

 マタニティマーク。

「妊娠初期はまだお腹に赤ちゃんがいることに気づかれにくいです。これからつわり症状も出てくると思うので、是非ご活用ください」

「つわり……」

 そういえば、まだない。

「あの、つわりって……全くない人もいるんですか?」

「はい、もちろんいます。つわりがないからといって、赤ちゃんが心配になる人もいますが。基本は普段通りの生活で大丈夫です。もし、気になる症状があれば医療機関にご相談されるといいですね。ただ、お酒やたばこは控えるようにしてください。今の時期は、赤ちゃんの器官形成の大切な時期です。それを阻害する要因は、極力避けてください」
「妊娠中は色々制限があるって聞いたことあるけど、本当に気を付けることがいっぱいあるんですね」
「全部を神経質に避ける必要はありません。ただ、飲酒や喫煙のように、はっきり避けたほうがいいものはあります。わからないことがあれば、一人で判断せず相談してくださいね」
「つまり、避けられるリスクは避けろということだな」
「さすがご主人。頼もしいですね」
「亞紗斗さん……」
「俺たちの子だ。生まれてくるまでは、梨歩にしかその子は守れない。だが、それ以外のことはなるべく俺がやる」
「うん、ありがとう」

 *

 母子手帳を手にした梨歩。
「父、母……か」

「何だ」

「親になるんだなって思って」

 先程、保護者の欄に記名を済ませた。

「出産予定日、か」

「次の次までには決まると言われたな」

 現在、妊娠七週。もうすぐ三ヶ月目に入る。

「まだこんなに小さいんだね。数ミリなんて」

「ああ」

「あと数ヶ月でこんなに大きくなるんだ」

「そうだな」

「ねえ、そういえばさ」

「何だ」

「妊娠がわかる前に若葉の家に行った時なんだけど。瑠花ちゃんに不思議なこと言われたの」

「瑠花、喋るのか?」

「若葉もびっくりしてた。こんなにはっきり喋ったの、初めてだって」

「瑠花は、何て言ったんだ」

「それがね……『おばちゃんの赤ちゃん、男の子。おじちゃんそっくり』って」

「……!」

「その時、あたしまだ自分が妊娠してると思ってなくてさ。おばちゃんに赤ちゃんいないよって言ったの。そしたら『いるの! ママが先。おばちゃんは少し後。どっちもパパに似た男の子』って。そのあと若葉に勧められて検査薬試したら、ビンゴだった……」

「末恐ろしい子どもだな」

「子どもって、そういうのわかるのかな」

「かもな」

 思わぬ形で発覚した妊娠。

 この十数年後。

 この子の存在を誰よりも早く言い当てた瑠花が、今、お腹の中にいる小さな命にとって、かけがえのない人になる。

 そして、やがて――。

 そんな未来が待っていることを、この時はまだ、誰も知らなかった。

 妊娠初期。
 梨歩はつわりが、全くなかった。
 
 一度も吐かなかったし、匂いで気持ち悪くなることも、食べられないものが増えることもない。
 むしろ……。

「亞紗斗さん、お腹空いた」
「……またか」
「またって何よ」
「二時間前に食っただろ」
「二時間も経ってるじゃん」
「……」
 食欲だけが、ものすごい勢いで増えた。
 最初の頃は、亞紗斗も喜んでいた。
「食べられるなら、その方がいい」
 そう言って、梨歩が「おにぎり食べたい」と言えば握り、「果物」と言えば切って与えた。「プリン」と言えばすぐに買いに走った。

 ただ。
 妊娠五か月。
「梨歩」
「ん?」
「……体重」
「え?」
「増えてないか」
「妊娠してるんだから増えるでしょ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
 体重計の表示は、妊娠前よりプラス八キロ。
「……」
「……」
「何、その沈黙」
「まだ五か月だよな」
「そうだけど」
「……順調だな」
「何が!?」
 梨歩の食欲は、体重と共に日増ししていく。
 その増え方に、亞紗斗だけが早くも一抹の不安を覚えていた。

 そして妊娠七か月。
 体重はプラス十二キロ。
「……梨歩」
「何」
「今日、健診だったな」
 亞紗斗は運転席から、助手席の梨歩に言った。
「うん」
「体重、測るよな」
「測るね」
「……」
 沈黙。

「何」
「いや」
「その顔やめて」
「何も言ってない」
「顔が喋ってる!」
「……俺は何も」
「『怒られるんじゃないか』って顔してる!」
「……」
「否定してよ!」
「……気をつけて行ってこい」
「あ、逃げた!」

 *
 今日の産院は、比較的空いていた。
 受付で先に紙コップを渡され、梨歩はトイレへ。
「ちょっと出してくるね」
「出すとか言うな」
「だって、体重測定までに少しでも減らさないと」
「なら普段の食事を加減しろ」
「無理」
「……」
 トイレの扉が閉まった。

 亞紗斗は待合のソファーの後ろの壁面に貼られたポスターを見る。

 『ガーディナー亞紗斗ステファン ソロリサイタル』
「こんなところにまで……」

「お待たせ」
「ああ」
「あ、亞紗斗さんだ」
「声がデカい」
「あ、ごめん」

 梨歩はソファーに腰掛けた。
「あーあ、お腹重い。出し足りない」
「だから、出すとか言うな」
「頑張ったのに少ししか出ないってどういうこと?」
「……知らん」

 待合に流れるオルゴールのBGM。時折、赤ちゃんの泣き声がランダムに入りまじる。

「わあ、可愛い。新生児の声って癒されるね」
「そうだな」
「でも、あれが夜中に二~三時間おきにあると……エディは死んだらしいよ」
「あいつは生きているだろう」
「この前、職場で倒れたんだって。それも、寝不足で。玲君の夜間授乳のたびに起こされて、だいぶダメージ食らったっぽい」
「……そんなに頻繁なのか?」
「瑠花ちゃんは、わりと早い段階で夜通し寝てくれたみたいだけど。玲君は、しょっちゅう起きるらしくて。若葉もかなり参ってた」
「そうなのか」
「男の子と女の子では、違うのかな」
「さあな」

 そして、いよいよ体重測定。

「ガーディナーさん」
「はい」
 助産師さんが記録を見ている。
 その目線が、体重の欄で止まった。
「……ちょっと増えるペースが速いですね」
「……ですよね」

 自覚はある。
 ものすごくある。
「前回から、何キロ増えました?」
「……二・五キロ」
「四週間で?」
「はい……」
「少し気をつけましょうか」
「はい……」

 やっぱり、怒られた。
 いや、正確には怒鳴られたわけじゃない。
 ものすごく穏やかな声で、
「このペースで増え続けるのはよくないですよ」
と、きっちり注意された。

 待合に戻ると、亞紗斗さんが待っていた。
「どうだった」
「赤ちゃんは順調」
「そうか」
 明らかに安心した顔。
「……で」
「何」
「体重」
「……」
「……」
「怒られた」
「……そうか」
「笑っていいよ」
「笑わない」
「でも今、ちょっと口元緩んだ」
「緩んでない」
「緩んだ!」
「安心しただけだ」
「何に!」
「俺が言う前に、病院で言ってもらえた」
「亞紗斗さん!」
 ただ、そこからは気をつけた。
 夜食を減らした。
 甘いものも控えた。
 散歩もした。
 したのに。

「おかしいな」
 息をするだけで体重が増える説が、濃厚になりつつある。

 妊娠九か月。
 プラス十六キロ。

 どんなに気を付けていても、増えるものはしっかり増えた。

 そして臨月。
 体重計に乗る。

「……」
「……」
「……亞紗斗さん」
「見えてる」
「まだ何も言ってない」
「数字は見えてる」

 妊娠前から、プラス十八キロ。

 亞紗斗が、完全にフリーズした。
「……十八」
「言わないで」
「十八キロ」
「言わないでって!」
「……十八」
「三回言う必要ある!?」

 亞紗斗が、梨歩を見る。
 次に、大きくなった梨歩のお腹を見る。
 また、梨歩を見る。
「……全部、この子じゃないよな」
「わかってるよ!」
「せめて、三キロ前後だよな」
「だから計算しないで!」
「羊水と胎盤を入れても――」
「計算するなって言ってるでしょ!」
 思わずクッションを投げる。
 亞紗斗が片手で受け止めた。

「さすがに増えすぎ――」
「でも!」
「何」
「あたしだって気をつけてるんだから!」
「それは、わかってる」
「最近なんて夜食も我慢してるし」
「ああ」
「散歩だってしてるし」
「毎日付き合ってる」
「甘いものも減らしたし!」
「……隠れて食ってるだろ」
「!」
「昨日、冷蔵庫にプリンが三つあった」
「……」
「今朝、一つになってた」
「……」
「俺は食ってない」
「……」
「誰が食ったんだ」
「赤ちゃん」
「胎児は冷蔵庫を開けない」
「細かい!」
「細かくない」
 亞紗斗が、ため息をついた。
 でも、怒っているわけではない。
 ゆっくり近づいてきて、大きなお腹へ手を当てる。
「まあ」
「……」
「母子ともに問題ないなら、それが一番だ」
「亞紗斗さん」
「ただし」
 嫌な予感。

「産後は俺も一緒に歩く」
「え」
「運動」
「……」
「無理しない範囲でな」
「今から産後の話しないでよ!」
「十八キロだからな」
「また言った!」
 お腹の中で。
 ぐに。
「!」
「あ」
 大きく胎動した。
 さっきまで体重の数字に絶句していた男が、それだけで、ものすごく優しい顔になる。
「元気だな」
「ね」
「もうすぐ会えるな」
「うん」
「……」
「何?」
 亞紗斗が、梨歩をじっと見る。
「何キロ増えてても」
「……うん」
「梨歩が無事ならいい」
 胸が、きゅっとなる。
「赤ちゃんも」
「うん」
「梨歩も」
 そっと、額にキスされた。
「無事に生まれてくれれば、それでいい」
……ずるい。
 こんなの。
 怒れない。

「……産んだら痩せるもん」
「期待してる」
「そこは『そのままでもいい』って言うところじゃない!?」
「健康ならな」
「現実的すぎる!」
「十八キロだから」
「もう言うなぁ!」

 臨月。
 赤ちゃんは順調。
 梨歩も元気。

 そして亞紗斗は――

 妻の体重に絶句しながらも、結局最後まで。

 毎晩「お腹空いた」と言われれば、
「……何食いたい」
 と、台所へ立ってしまうのだった。

 いよいよ、その時が来た。
 本陣痛。
 予定日よりも、二週間早く来たのは想定外だった。
 そして、想像していたよりも――遥かに激痛だった。

 あまりの痛みに、全身の骨が砕けそうな感覚に陥る。
「いっ……たぁぁぁぁぁぁい!!」

 今までにないくらいの雄叫びを上げながら、梨歩はベッドの上をのたうち回る。
 痛みが治まったと思ったら、またすぐに次の波が来る。
 その無限ループが、たまらなく堪えた。
「ああああっ!! 何これ! 無理!! 無理――!!」
「梨歩」
「亞紗斗さん! 痛い! これほんっと痛い!!」
「わかってる」
「わかるわけないでしょおおお!」
「……そうだな」
 そこは認めるんだ、と梨歩は思った。
 しかし、そんなことを考える余裕すら、すぐに次の痛みで吹き飛んだ。
「っ、うぅ……!」
 握っていた亞紗斗さんの手に、思いきり力を込める。
「痛っ」
「ご、ごめん……!」
「いい。握れ」
「でも」
「俺の手くらい、どうなってもいい」
「いや、それはダメでしょ……!」
 つかの間の間歇。
 また痛みが来れば、そんな理性は全部なくなる。

「亞紗斗さんっ!」
「ああ」
「むり! もう無理!」
「大丈夫だ」
「何を根拠に!」
「梨歩ならできる」
「精神論やめてぇぇぇ!」

 その瞬間。
 亞紗斗さんが、ほんの少し笑った。

「今、笑った!?」
「笑ってない」
「絶対笑ったぁ!」
「喋れるならまだ大丈夫だ」
「くぅぅっ! 覚えてろぉぉぉ……!」

 こんな時まで、亞紗斗は冷静だった。
 いや。

 手を握る力。
 額に浮かぶ汗。
 あたしを見る目。
 亞紗斗も、恐れている。

 それでも、梨歩の前では崩れないようにしている。
 梨歩が縋る場所を失わないように。

 梨歩がそのことに気づいた瞬間、痛みの合間に胸が熱くなった。

 (この人も、あたしと同じように、まだ見たことのない未来を怖がっている。それでも、一緒に進もうとしてくれているんだ)

 *

 どれくらい時間が経っただろう。

 梨歩はもう体感として、よくわからなくなっていた。

「もう少しです」
 そう言われても、その「もう少し」が長い。
 (もう少しが、長すぎんのよ!)

「あぁ……ッ!」
「梨歩」
 亞紗斗の声が、梨歩の隣に落ちる。
「ここにいる」
 その一言だけで。
 少しだけ。
 ほんの少しだけ。

 呼吸が戻る。
「亞紗斗さん……」
「ああ」
「手……」
「離さない」
「絶対?」
「絶対だ」

 その言葉が、痛みより深く梨歩の中に落ちた。

 (絶対なんて、簡単には信じられないと思っていた)
 失うことを知ってしまった梨歩には、永遠も、約束も、いつか壊れるものに見えていた。
 (それでも今だけは。この人の声だけは、信じたい。だから――)
 

「はい、いきんで!」

 もう一度。
 力を込めた。
「うぅ……っ!」

 そして。

「――ほにゃあっ……!」

 小さな泣き声が。
 部屋いっぱいに響いた。
「……」
「……」

 一瞬。

 何が起きたのかわからなかった。
 ただ。
 泣き声だけが聞こえる。
 梨歩の身体の中から、長い時間をかけて外へ出てきた、小さな命の声。

 その声が、胸の奥に残っていた不安も、怖さも、全部震わせた。

「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
 その言葉を聞いた瞬間。
 梨歩は涙が溢れた。

「……生まれた?」
「生まれた」
 亞紗斗の声。
 少しだけ震えていた。
 その震えを聞いて、ようやく実感が追いついた。

 ああ。
 この人も、ずっと待っていたんだ。と。

「ほんとに?」
「ああ」
「赤ちゃん……?」
「ああ」
 梨歩の視界に――小さな、小さな身体が映った。
「……ちっちゃ」
 震える声で。
 それしか言えなかった。

「こんな……ちっちゃいんだ」
 涙が止まらない。
 怖かった。
 ちゃんと母親になれるのか。
 この子を守れるのか。
 梨歩の中に残る過去や傷を、この子に背負わせずにいられるのか。
 そんな不安が、ずっと消えなかった。
 けれど。
 今、目の前にいるこの子は、何も知らずに泣いている。
 ただ生きようとしている。
 その小さな声を聞いているうちに、梨歩もまた、この子と一緒に生きていきたいと思った。
「亞紗斗さん」
 返事がない。 
「亞紗斗さん?」
 横を見る。
 そして。

 思わず笑ってしまった。

「……泣いてる」
「泣いてない」
「いや、泣いてるじゃん」
「……うるさい」
 声が完全に震えてる。

「ふふっ」
「笑うな」
「だって」
 あの亞紗斗が。
 普段何があっても冷静で。
 どんな時でも表情をほとんど変えない亞紗斗が。
 今。

 静かに、瞳を潤ませていた。

 その姿を見て、梨歩は自身の中にあった緊張が、ようやくほどけていった。

 (この人も、完璧じゃない。怖くて、戸惑って、それでもあたしとこの子のそばにいたいと思ってくれている)

 その事実が、何より嬉しかった。

「亞紗斗さん」
「ああ」
「今日、何の日だっけ?」
「……梨歩の、誕生日だな」
 四月六日。梨歩は二十八歳の誕生日を迎えた。
 待望の我が子の誕生と重なったことが、何よりのギフトだと思える瞬間だった。

「予定日は、亞紗斗さんの誕生日だったのにね」
「それまで待ちきれなかったんだろう」
「いずれにしても、運命感じるね」
「そうだな」
「抱っこする?」
 亞紗斗がフリーズした。
「……俺が?」
「パパでしょ」
「……」
「怖い?」
「少し」

 珍しく、やけに素直だった。
 でも、その答えが、梨歩は嬉しかった。
 怖いと言えるくらい、この子を大切に思っているのだと思えたから。

 やがて。
 亞紗斗は抱き方を教えてもらいながら、生まれたばかりの小さな我が子を腕の中へ。
 
「……軽い」

 亞紗斗の声が、今までにないほど優しく響いた。
 その声を聞いた瞬間、梨歩の胸の奥に、静かな灯りがともった。
 (この人の腕の中なら。この子はきっと、大丈夫だ)

「亞紗斗さん」
「何だ」
「顔、すごいよ」
「何が」
「見たことないくらい優しい」
「そうか?」
「うん」
 亞紗斗は、しばらく何も言わずに我が子を見つめていた。
 その横顔には、喜びだけじゃなく、戸惑いも、責任への恐れも浮かんでいた。
 きっとこれから、うまくいかないこともある。
 眠れない夜も、泣き止まない朝も、どうしていいかわからなくなる瞬間もある。

 それでも。
 亞紗斗は逃げない。
 梨歩には、そう思える瞬間だった。
 そして。

「……初めまして」
 ぽつり。
「父親だ」
 それだけ。
 亞紗斗らしい、短くて、不器用でも――その言葉の奥には、これから何度でもこの子に向き合うという決意があった。
「もっと何かないの?」
「急に言われても出てこない」
「ふふ」
 少しすると。
 我が子の小さな手が、亞紗斗の指を握った。
「……」
 亞紗斗は、再びフリーズした。
「亞紗斗さん?」
「……握った」
「うん」
「俺の指」
「うん」
「……」
「嬉しい?」
「……かなり」

 (ああ。やっぱり。この人の「かなり」は、最上級なんだ)
 梨歩はその一言だけで、胸がいっぱいになった。

 この子がいつか大きくなって、今日のことを覚えていなくても。
 あたしたちはきっと、何度でも話すのだろう――と。

 初めて握った小さな手のことを。
 初めて聞いた泣き声のことを。
 そして、三人で始まったこの日のことを。

 *

 少し落ち着いた後、今度は梨歩の腕に赤ちゃんが抱かれた。
「……こんにちは」
 小さな顔。
 閉じた瞼。
 小さな口。
 (こんな子が、ずっと。あたしのお腹の中にいたんだ)

 不思議だった。
 梨歩の身体の中で育った命が、今は腕の中にいる。
 嬉しいのに、まだ夢のようで。
 触れれば消えてしまいそうで。
 それでも、確かな重みがあった。

「亞紗斗さん」
「何だ」
「家族だね」
「ああ」
「三人になった」
「ああ」
 その返事を聞いた途端、梨歩は胸の奥がじんと熱くなった。
 家族。
 その言葉に、梨歩はずっと、失う怖さを重ねていた。
 けれど今は違う。

 家族は、過去に置いてきたものだけじゃない。
 これから一緒につくっていくものでもあるのだ。
 亞紗斗が、梨歩の髪を撫でる。
 そして、額にキスをした。
「梨歩」
「うん」
「よく頑張った」
 その一言で。
 また泣きそうになる梨歩。
「……うん」
「ありがとう」
「またそれ言う」
「何度でも言う」
 その言葉に、梨歩は目を閉じた。

 頑張ったのは、今日だけではなく。
 ここまで来るまでに、何度も迷って、立ち止まって、それでも歩いてきた。
 その全部を、亞紗斗は知っている。
 だからこそ、その「ありがとう」が、梨歩の過去までそっと抱きしめてくれるように感じた。
 亞紗斗が、梨歩と我が子をまとめて包み込むように、そっと抱きしめる。
 強くもなく、苦しくもない。
 いつもの、絶妙な力加減。
 だけど。
 今までで一番、温かい抱擁。

 三人の体温が重なっている。
 小さな呼吸が聞こえる。

 その中にいると、これまで抱えてきた寂しさが、完全に消えたわけではないのに、もう梨歩一人のものではないように思えた。
「幸せだな」
 亞紗斗が言った。

 それは恐らく、梨歩がこれまで聞いた中で――一番素直な彼の言葉だった。

 その声を聞いて、梨歩はようやく、幸せになることを怖がらなくてもいいのだと思えた。
 幸せは、失う前提で遠ざけるものじゃない。
 失うかもしれない怖さを抱えたままでも、今ここにある温かさを受け取っていい。
「あたしも」
 梨歩は、腕の中の小さな命を見つめながら静かに笑った。

 悲しいことも。
 失ったものも。
 忘れられない人も。
 全部抱えたまま。
 それでも。

 こうして、新しい命を愛している。
 過去を消さなくても。
 傷がなくならなくても。
 未来はちゃんと。
 ここまで続いていた。

 そして、これからも続いていく。
 泣き声に起こされる朝も。
 眠れない夜も。
 三人で笑える日も。
 きっと、思い通りにならないこともある。
 それでも。
 隣には亞紗斗がいて。
 腕の中には、この子がいる。

 (あたしはもう、ひとりで未来を見つめなくていい。
 亞紗斗さんと、この子と、今度は三人で)

 梨歩はまた、新しい人生を歩いていく。
 窓の向こうには、まだ見えない明日が待っている。
 その先に何があるのかは、誰にもわからない。
 けれど。
 三人で見つめる未来なら。
 きっと、どんな景色も受け止めていける。
 小さな手が、梨歩の指を握った。
 反対側では、亞紗斗の指を握っている。
 その温もりを感じながら。
 梨歩は静かに目を閉じた。

 今日、生まれたのは、この子だけじゃない。
 梨歩と亞紗斗。そして、愛しい我が子との三人の、新しい時間もまた。
 今、ここから始まったのだ。

 *

 翌朝。

「い……痛い」
 トイレから戻ると、梨歩はベッドの端に手をつく。
「地獄過ぎる……」

 会陰が裂けた。
 そして、トイレのたびにその傷に塩を塗りたくられたような激しい痛みに加え――。
「ガーディナーさん、悪露のチェックしますね」
「ひいっ! 無理矢理!」
「子宮が収縮してる最中だから痛いかもしれないけど、我慢してね」
「嫌だ、超痛いから」
「はい、横になりますよ」
 助産師の悪露チェック。からの……。

「あら? 悪露が少ないですね。子宮の戻りも確認します。ちょっとお腹触りますよ」
「くぅ……っ」
「子宮の戻りがちょっと悪いですね。中に悪露が溜まってるかもしれないので、ちょっと押しますね。せーの……」
「ぎゃああああ!!」
「やっぱり少し溜まっているみたいなので、ここでしっかり出しておきましょうね。溜まったままだと、もっと後が大変だから」
「拷問級に痛いの無理――!!」
「はい、もう一回押しますね」
「んがああああっ!!!!」
 
 ただでさえ、子宮が元の大きさへ戻ろうと収縮するたびに襲ってくる後陣痛。
 そこへさらに、腹部を押される痛みまで重なる。
 産むまでの痛みが最高潮だと思っていた。
「……お腹も、お股も……これ以上、殺さないで」
 梨歩には、問答無用で押された腹部の痛みが焼き付いて離れず、鮮明な恐怖として残った。

 そして、亞紗斗が梨歩の元に帰って来る。
「ものすごい悲鳴だったが……生きてるか?」
「亞紗斗さん……」
 梨歩は涙目で訴える。

「裂けたお股の傷にさ、オシッコかかるときの痛みって……想像できる?」
「……想像したくない」
「今まさにそれなんだよ、あたし」
「……エグいな」
「さらに、大きくなった子宮が元の大きさに戻っていこうとするのって……内臓が内側からベリベリ剥ぎ取られるくらい痛いの」
「剥がれたことないから、わからん」
「あたしも初めてだよ! これ、陣痛よりヤバいかも」
「男には永遠にわからない痛みだな」
「そのお腹をさ、圧かけて押されるんだよ! 勢いで中の臓物絞り出そうになるの! 圧かけられたお腹に助産師さんの手の平が当たるだけでピリピリした痛みもあるのに、内側からも内臓が裂けたかってくらいの鋭い痛みが全身に走るの! 産んで終わりじゃなかったの! 痛みはエンドレス!」

「……つまり、どうしようもない痛みが今も続いて。どうにもならんことを喋らずにはおれんってことか」
「よくわかんないけど、そんな感じ」
「ほんま、エグいな」
「……」
 梨歩が沈黙する。

「何だ」
「今、違う人と喋ってるのかと思った」
「?」
「関西地方にいるような錯覚に陥った」
「!」
「亞紗斗さん、出身どこだっけ?」
「アメリカだ」
「日本じゃないんだ」
「アメリカで生まれて、日本に来た」
「そうか。でも、確か亞紗斗さんのお母さんって――」
「日本人だ。それ以外の何者でもない」
「?」
「さっきの、拷問級の痛みだったんだろう。辛かったな」
「ああ、そうだ。それそれ。明日もこれがあると思うと……」
「とりあえず、飲んどけ」
 亞紗斗が買い込んだドリンクを置いた。

「亞紗斗さん」
「何だ」
「あたしに、オシッコさせようとしてる?」
「むしろ、出さないとダメだろう。まさか、痛みが怖くて水分摂取を避けているわけじゃ……」
「ギクッ」

「図星か」
「……だって、お股裂けてるから。水分避けるのは、自然の摂理というか」
「逆効果だ」
「亞紗斗さんも、お股裂ければわかるよ」
「たとえ裂けたとしても、俺なら気合いで飲む」
「気合いじゃどうにもならないこともあるんだって!」
「飲んでから言え」
「裂けてから言え!」
 二人の掛け合いは、エンドレスに続いた。

 産後三日目の朝。母子同室が始まり、梨歩の部屋に新生児用のコットに寝かされた赤ちゃんがやってきた。

 小さな寝息が聞こえる。
 梨歩はベッドの上で、腕の中の我が子を見つめていた。
「……かわいい」
「ああ」
 隣に座る亞紗斗も、同じようにその顔を見ている。
 生まれたばかりの、小さな男の子。

 梨歩が指先を近づけると、小さな手がきゅっと握った。
「亞紗斗さん」
「何だ」
「名前……決めた?」
「ああ」
 梨歩が顔を上げる。
「ほんと?」
「ああ」
「教えて」
「律」
「……りつ?」
「ああ」
 亞紗斗は、息子の小さな手をそっと包んだ。

「ガーディナー律エリオット」
「律……エリオット」
 梨歩が、確かめるように繰り返す。

「すごく綺麗な名前。品があって」
「そうか」
「どうして律なの?」
 亞紗斗は少しだけ黙った。

「音楽の律だ」
「……音楽?」
「ああ」
 ヴァイオリンを奏でる父。
 歌を歌う母。
「音には、それぞれ律がある」
「うん」
「速いものも、遅いものもある。誰かに合わせることもあれば、自分で刻むこともある」
「……うん」
「こいつには、自分の律で生きてほしい」
 梨歩の瞳が、少し潤んだ。

「誰かと同じじゃなくていい」
「うん」
「俺とも、梨歩とも違っていい」
「うん……」
「自分の音を見つければいい」

 梨歩は、眠る息子の顔を見つめた。
 夢を押しつけるのではなく、誰かと同じ道を歩ませるのでもない。ただ、自分の心に耳を澄まし、自分で選んだ人生を歩んでほしい。そんな願いが、亞紗斗の言葉には込められていた。
「じゃあ、エリオットは?」
「……響きが好きだった」
「それだけ?」
「悪いか」
「ふふ。亞紗斗さんらしい」
 けれど、亞紗斗は静かに続けた。
「それと、こいつには日本だけじゃなく、もっと広い世界を見てほしいと思った」
「……世界」
「ああ。どこに生まれたとか、どこの国の血が流れているとか、そういうものに縛られずに」
「うん」
「自分が行きたい場所へ行けばいい」
 梨歩は、腕の中の小さな命を見つめる。

 いつか、この子にも好きなものができる。夢ができる。大切な人ができる。
 そのとき、誰かの決めた道ではなく、自分の心が選んだ道を歩いていけるように。

「なんか、律にすごく似合う気がする。名前の響きといい、賢い子になりそう」
「ああ」
「それに、何より」
「何だ」
「パパそっくり」
「それは知らん」
「そっくりだよ」
「まだわからないだろう」
「この髪色といい、目の色といい。絶対亞紗斗さんだし」
「それだけだろ」
「充分遺伝要素揃ってるじゃん」
「……だな」
「そうだ。瑠花ちゃんの予言」
 梨歩は思い出したかのように言った。
「ドンピシャだったね」
「そうだな。すっかり忘れていた」

 エディと若葉の娘・瑠花。
 誰よりも早く梨歩のお腹にいる律の存在に気づき、男の子であることはもちろん、亞紗斗そっくりの子だと言い当てていた。
 そんな瑠花は今、少し前に生まれた弟・玲の世話をしたくて仕方がないらしい。何でも自分でやりたがり、大人に止められるたびに「イヤ!」。若葉いわく、弟が生まれてから別の意味でイヤイヤ期が加速しているのだとか。
 

「ねえ、律」
 梨歩が微笑む。
「パパがね、すっごく考えてくれたんだよ」
「余計なこと言うな」
「照れてる?」
「照れてない」
「ふふっ」
 亞紗斗が息子の額へ指先を触れる。

「律」
 初めて、その名を呼ぶ。
「好きに生きろ」
 梨歩が思わず笑った。

「最初に言うこと、それ?」
「大事だろ」
「まあ……亞紗斗さんらしいけど」
 梨歩は、亞紗斗の肩にそっと頭を預ける。
 静かな部屋で、律は穏やかな眠りについている。
 自分だけの音を見つけ、誰かと違うことを恐れず、広い世界のどこへでも歩いていけるように。

 愛する父と母の願いをその名に宿し、小さな命は静かな寝息を立てていた。

 彼の名は――
 ガーディナー律エリオット。
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