Héritage
第1章 海に消えた兄貴
海は、兄貴を飲み込んだ日と同じ色をしていた
午後の光を受けて、波の表面が細かな銀色に揺れている
風は冷たかった
黒いスーツの隙間から入り込んで、首筋を撫でていく
告別式を終えたばかりの身体には、その冷たさが妙に現実的だった
少し先に、更が立っている
波打ち際に近い場所で、黙って海を見ていた
長い髪が風に煽られ、頬にかかった髪を細い指で耳へかける
その横顔を、俺は昔から知っている
更とは、子どもの頃から何度も顔を合わせてきた
神崎家と豊嶋家は昔から付き合いが深く、家族同士で食事をすることもあったし、互いの家を行き来することも珍しくなかった
だから、更が俺の兄貴の婚約者になったことも、俺にとっては突然の話ではなかった
兄貴は昔から、更を気にかけていた
更がまだ小さかった頃、転んで泣けば真っ先に駆け寄るのは兄貴だった
人の多い場所では自然と更のそばにいて、何か困っていれば誰より早く気づいた
俺はそんな兄貴を、何度も見てきた
いつからだったのかは分からない
ただ、兄貴にとって更が特別な存在だったことだけは、ずっと知っていた
更が兄貴の婚約者になったときも、驚きはしなかった
むしろ、そうなるのが自然なことのように思っていた
兄貴は更を大切にしていた
更も兄貴を信頼していた
それが恋愛だったのかどうかなんて、俺には分からない
ただ、二人ならきっと、穏やかな家庭を築いていくのだろうと思っていた
それが、もう叶わない
兄貴に最後に会ったのは、事故が起きた日の朝だった
あの日も、いつもと何も変わらなかった
「じゃあ行ってくる」
「兄貴、気をつけて」
「おう」
それだけだった
特別な言葉なんて、何もなかった
兄貴はいつものように笑って、俺の肩を軽く叩いた
それが、最後になった
数時間後、兄貴を乗せた飛行機が海に落ちた
知らせを聞いたとき、何を言われているのか理解できなかった
何度も聞き返した
事故だと分かってからも、どこかで生きているんじゃないかと思っていた
けれど、時間が経つほど、その可能性が一つずつ消えていった
そして今日、兄貴を送り出した
更は、告別式の間、一度も取り乱さなかった
泣いていなかったわけじゃない
人目につかないところで、何度も涙を拭っていた
それでも、誰かに支えてもらうこともなく、最後まで自分の足で立っていた
今もそうだ
海を見つめたまま、静かに立っている
何を考えているのか、俺には分からない
兄貴のことなのか
これから先のことなのか
それとも、何も考えられないほど頭の中が空っぽなのか
聞くつもりはなかった
大丈夫か、と声をかけることもできなかった
大丈夫なはずがない
そんなことを聞いたところで、更を困らせるだけだ
しばらくして、更がこちらを振り返った
目元は赤い
それでも、その表情は不思議なくらい穏やかだった
俺と目が合う
何か言わなければと思ったのに、言葉が出てこない
そのとき、背後から声がした
「輝さん」
振り返ると、俺の秘書が少し離れた場所に立っていた
「そろそろ……」
「分かった」
短く答えて、更を見る
「更」
「……はい」
「帰ろう」
更は一度だけ海へ視線を戻した
それから、小さく頷いた
「……はい」
俺たちは並んで歩き出した
背中から波の音が追いかけてくる
兄貴が大切にしていた女性が、今、俺の隣を歩いている
その事実が、妙に重かった
兄貴が最後に見た海は、どんな色だったのだろう
そんなことを考えながら、俺は黙って更の隣を歩いた
午後の光を受けて、波の表面が細かな銀色に揺れている
風は冷たかった
黒いスーツの隙間から入り込んで、首筋を撫でていく
告別式を終えたばかりの身体には、その冷たさが妙に現実的だった
少し先に、更が立っている
波打ち際に近い場所で、黙って海を見ていた
長い髪が風に煽られ、頬にかかった髪を細い指で耳へかける
その横顔を、俺は昔から知っている
更とは、子どもの頃から何度も顔を合わせてきた
神崎家と豊嶋家は昔から付き合いが深く、家族同士で食事をすることもあったし、互いの家を行き来することも珍しくなかった
だから、更が俺の兄貴の婚約者になったことも、俺にとっては突然の話ではなかった
兄貴は昔から、更を気にかけていた
更がまだ小さかった頃、転んで泣けば真っ先に駆け寄るのは兄貴だった
人の多い場所では自然と更のそばにいて、何か困っていれば誰より早く気づいた
俺はそんな兄貴を、何度も見てきた
いつからだったのかは分からない
ただ、兄貴にとって更が特別な存在だったことだけは、ずっと知っていた
更が兄貴の婚約者になったときも、驚きはしなかった
むしろ、そうなるのが自然なことのように思っていた
兄貴は更を大切にしていた
更も兄貴を信頼していた
それが恋愛だったのかどうかなんて、俺には分からない
ただ、二人ならきっと、穏やかな家庭を築いていくのだろうと思っていた
それが、もう叶わない
兄貴に最後に会ったのは、事故が起きた日の朝だった
あの日も、いつもと何も変わらなかった
「じゃあ行ってくる」
「兄貴、気をつけて」
「おう」
それだけだった
特別な言葉なんて、何もなかった
兄貴はいつものように笑って、俺の肩を軽く叩いた
それが、最後になった
数時間後、兄貴を乗せた飛行機が海に落ちた
知らせを聞いたとき、何を言われているのか理解できなかった
何度も聞き返した
事故だと分かってからも、どこかで生きているんじゃないかと思っていた
けれど、時間が経つほど、その可能性が一つずつ消えていった
そして今日、兄貴を送り出した
更は、告別式の間、一度も取り乱さなかった
泣いていなかったわけじゃない
人目につかないところで、何度も涙を拭っていた
それでも、誰かに支えてもらうこともなく、最後まで自分の足で立っていた
今もそうだ
海を見つめたまま、静かに立っている
何を考えているのか、俺には分からない
兄貴のことなのか
これから先のことなのか
それとも、何も考えられないほど頭の中が空っぽなのか
聞くつもりはなかった
大丈夫か、と声をかけることもできなかった
大丈夫なはずがない
そんなことを聞いたところで、更を困らせるだけだ
しばらくして、更がこちらを振り返った
目元は赤い
それでも、その表情は不思議なくらい穏やかだった
俺と目が合う
何か言わなければと思ったのに、言葉が出てこない
そのとき、背後から声がした
「輝さん」
振り返ると、俺の秘書が少し離れた場所に立っていた
「そろそろ……」
「分かった」
短く答えて、更を見る
「更」
「……はい」
「帰ろう」
更は一度だけ海へ視線を戻した
それから、小さく頷いた
「……はい」
俺たちは並んで歩き出した
背中から波の音が追いかけてくる
兄貴が大切にしていた女性が、今、俺の隣を歩いている
その事実が、妙に重かった
兄貴が最後に見た海は、どんな色だったのだろう
そんなことを考えながら、俺は黙って更の隣を歩いた