Héritage

第2章 兄貴の背中

 神崎家の屋敷に戻っても、兄貴がいなくなった実感はなかった

 玄関を抜け、見慣れた廊下を歩く

 いつもなら、どこかで兄貴と顔を合わせることがあった

 仕事の話をすることもあれば、くだらない冗談を交わすこともある

 けれど、今日は誰とも言葉を交わさないまま、自分の部屋に戻った

 ネクタイを緩め、ソファに腰を下ろす

 静かだった

 この家は、昔からそうだ

 両親は海外を飛び回ることが多く、幼い頃から家を空けていた

 それでも、寂しいと思わずにいられたのは、兄貴がいたからだ

 学校から帰れば、兄貴の部屋へ行った

 仕事の邪魔だと追い返されることもあったが、しばらくすると何事もなかったように声をかけてくる

 ゲームで負ければ、俺が納得するまで付き合ってくれた

 今思えば、ずいぶん子ども扱いされていた気もする

 それでも、兄貴の隣は居心地がよかった

 神崎家の長男として、いつも周囲を気にかけていた兄貴も、俺の前ではただの兄貴だった

 俺にとって、家族という言葉は、あの人の存在と結びついていた

 だからだろうか

 兄貴がいなくなった今も、どこかで帰りを待っている自分がいる

 事故の知らせを受けたとき、何度も聞き返した

 何かの間違いだと思いたかった

 海に落ちた飛行機から、生存者が見つかる可能性を調べさせたこともある

 わずかな望みでも、手放したくなかった

 けれど、現実は俺の願いなど聞いてくれなかった

 今日、兄貴を送り出した

 もう二度と、あの声を聞くことはできない

 その事実が、ふいに胸を締めつけた

 俺は俯き、両手で顔を覆った

 泣いたところで、兄貴が戻ってくるわけじゃない

 そんなことは分かっている

 それでも、最後に交わした会話が、何度も頭の中を巡っていた

 『じゃあ行ってくる』

 『兄貴、気をつけて』

 たったそれだけだ

 いつもと同じ朝だったから、次に会えることを疑いもしなかった

 あのとき、何か言っておけばよかったのだろうか

 いや、何を言えばよかったのかさえ分からない

 ただ、もう一度会いたかった

 それだけだった

 俺はしばらく顔を上げられなかった

 やがて、深く息を吐き、背もたれに身体を預ける

 兄貴がいなくても、神崎家の時間は進んでいく

 金融、不動産、ホテル、航空、海運、エネルギー、IT、医療、ラグジュアリーブランド

 世界各地に広がる事業を、誰かが動かしていかなければならない

 俺はそのために経営や財務を学び、海外事業にも携わってきた

 兄貴の判断を支えられるように

 見落としたものがあれば、指摘できるように

 俺はずっと、そのつもりでいた

 神崎家を継ぐのは兄貴

 俺は、その背中を支える

 それが当たり前の未来だった

 兄貴がいなくなるまでは

 その日の夜、父親から書斎へ呼ばれた

 扉を開けると、父親はデスクの前に立っていた

「座れ」

 向かいのソファに腰を下ろすと、父親はすぐに本題へ入った

「瞬が担っていた役割については、各部門と調整を始めている。だが、一時的な代行だけでは済まない」

 父親が俺を見る

「これからは、お前が神崎家を継ぐ」

 予想していなかったわけじゃない

 兄貴がいなくなった以上、いずれ言われることだと思っていた

 それでも、実際に告げられると、胸の奥が重くなった

 俺が継ぐ

 兄貴が立つはずだった場所に、俺が立つ

 これまで学んできたことも、積み重ねてきた経験も、すべてはこのためだったのかもしれない

 けれど、俺が欲しかった未来は、こんな形じゃなかった

 兄貴の隣で仕事をして、時には意見をぶつけて、いつかあの人が築いたものをさらに大きくしていく

 そんな未来を、ずっと思い描いていた

 兄貴と並んで立つことは、もう叶わない

「……分かりました」

 それでも、答えた

 兄貴が残したものを、放り出すつもりはなかった

 父親は小さく頷き、続けた

「豊嶋家との関係についても、今後を考える必要がある」

 嫌な予感がした

「更との婚姻を進める」

 一瞬、言葉の意味を理解できなかった

 更と、結婚する

 兄貴が大切にしていた人と

 今日、海辺で一緒に兄貴を見送った女性と

「……更の意思は?」

 思わず尋ねていた

「これから確認する」

「本人の返事も聞かずに決めるんですか」

「両家にとって重要な話だ。個人の感情だけで判断できるものではない」

 父親の言い分は理解できた

 神崎家と豊嶋家の関係、これからの事業、両家が背負う責任

 父親は、それらを考えたうえで話している

 だが、俺の頭に浮かんでいたのは、海を見つめていた更の横顔だった

 兄貴を失ったばかりの更に、これから何を伝えるつもりなのか

 更は、どう受け止めるのだろう

「……更は、兄貴と結婚するはずだったんです」

 口にした途端、胸の奥に押し込めていたものが疼いた

 兄貴が生きていれば、こんな話にはならなかった

 更の隣に立つのも、これからの人生を共に歩くのも、俺ではなかった

 それが当たり前だった

 父親はしばらく俺を見つめていた

「だからこそ、時間を置いてから話を進める」

 俺は返事をしなかった

 時間が経てば、兄貴を失った悲しみが薄れるのだろうか

 更の中から、兄貴との思い出が消えるのだろうか

 そんなはずはない

 俺自身、今日一日で何度も兄貴の姿を探してしまったのだから

 書斎を出て、廊下を歩く

 兄貴の部屋の前で、足が止まった

 扉の向こうには、きっとあの人が使っていたものが、今もそのまま残っている

 ノブに手を伸ばしかけて、やめた

 今は、開けられなかった

 俺は兄貴の代わりにはなれない

 それでも、神崎家を継ぐ責任から逃げるつもりはなかった

 ただ、更との結婚については、まだ何も答えを出せずにいた

 兄貴がいなくなった現実さえ、受け止めきれていない

 そんな俺に、誰かの人生まで背負えるのだろうか
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