魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
序章 戻らない巡り


その日、還流節の祠は、濡れた石と若い草の匂いがした。
春の浄化は、辺境の領都から半日かかる山裾で行われる。巡環網の魔力を土地へ戻すための節――古い石組みの祠のまわりに術者たちが半円を描き、父である辺境侯がその中央に立っていた。成人を迎えたばかりのリゼット・ヴァルディエは、見学のためだけに同行を許されていた。ただし条件があった。結界の線から一歩も出ないこと。疲れたらすぐに馬車へ戻ること。
「分かっています」
リゼットは頷いた。護衛見習いのガスパールが、すぐ後ろで所在なげに立っている。彼はまだ二十歳で、剣を帯びる姿よりも、姉のように小さな従妹を見張る役目のほうに慣れていない顔をしていた。
「無理をするなよ、お嬢」
「ガスパール。今日、私は見ているだけです」
出発の朝、母は玄関で彼女の外套の留め金を、自分の手で留めた。
「無理をしたら、馬車に戻るのよ。約束」
「はい。見るだけです」
馬車の隣を歩く見習い護衛のガスパールは、緊張で剣の柄を握りすぎていた。父の「今日は娘を頼む」という一言に、彼は「はい」とだけ答え、その声が少し震えていたのを、リゼットは聞き逃さなかった。若い護衛と、病弱な令嬢と、初めての外。誰もが初めて尽くしの朝だった。
浄化の責任者は、還流節の祠を代々守ってきた老術者ヴェルグだった。彼は術者たちの顔と名前を一人ずつ確認し、負荷の配分を告げて歩いた。「今日の巡りは強い。無理と感じたら、声を上げろ。我慢は美徳ではない」――その言葉を、リゼットはなぜか覚えていた。
点呼の最後に、ヴェルグは彼女の前でも足を止めた。
「お嬢さん。今日あんたが見ているのは、この領の血の巡りだ。山で生まれ、里を潤し、海へ出て、ここで折り返す。止めれば腐る。急がせれば溢れる。ちょうどよく、が一番難しい」
「……ちょうどよく、ですか」
「分量の話だよ、お嬢さん。あんたの得意なやつだ」
老術者は笑って持ち場へ戻った。その背中を、リゼットは誇らしく見送った。領の巡りを守る人々の中に、自分の得意と同じ言葉があった。
開始の前に、父が彼女のところへ来て、膝をついて目線を合わせた。革の手袋と、馬と、朝の外気の匂い。
「寒くないか。脈は」
「大丈夫です。……父様こそ、真ん中は危なくありませんか」
「私には、ヴェルグと術者たちがいる」
父は彼女の頭に軽く手を置いて、持ち場へ戻っていった。みんな、持ち場があるのだ、とリゼットは思った。私の持ち場は、この線の内側。見ているだけの場所。今日はそれでいいはずだった。
術が始まると、空気の底が静かに揺れた。魔力が巡る音は、ほとんどの人には聞こえない。けれどリゼットには、それが香りの重なりとして届く。澄んだ水の匂い。温められた土の匂い。その下に、かすかな――焦げたような、甘く腐った匂い。
リゼットは顔を上げた。
おかしい。
香りは祠の奥から来ていた。本来なら土地へ戻っていくはずの流れが、逆に膨らんでいる。濁った魔力が、塞がれた川のように節の内側で渦を巻いていた。術者たちはまだ気づいていない。父の背中は遠い。
「止めて――」
声は小さかった。次の瞬間、石組みが鈍い音を立てて震え、濁流が噴き出した。
黒くはない。それは色のない圧力だった。けれどリゼットの目には、腐った甘さの霧が術者たちへ押し寄せるのが見えた。考えるより先に、身体が動いていた。結界の線を越え、両手を広げ、知っている限りの浄化を――いえ、浄化ではない。濁りを、自分のほうへ引き寄せていた。
甘い腐れ香が肺いっぱいに広がる。熱い。痛い、のではなく、自分の内側の細い糸が一度に引かれるような感覚だった。リゼットはそれを浄化して、外へ逃がした。逃がして、逃がして、逃がし続けた。術者たちが叫ぶ声が遠くなる。ガスパールが名前を呼ぶ声も。
最後に残ったのは、香りのない世界だった。
何も匂わない。それが、ひどく怖かった。
*
クロード・ヴァルディエが駆けつけたとき、従妹はもう倒れていた。
医官見習いとして浄化に帯同していた彼は、膝をつき、脈を取る。弱い。いや――取れた、と思った次の瞬間には、もう薄れている。魔力枯渇。それも、ただの消耗ではなかった。移した魔力が、底の抜けた器から零れるように消えていく。
「リゼット。聞こえるか、リゼット」
返事はない。手合わせで魔力を送る。結縁と調律――自分の持つ二つの属性を総動員して、彼女に合う形に整えて流し込む。けれど届いた端から霧散した。効率が悪すぎる。このままでは、あと数分で心臓が止まる。
父はまだ都の医務庁にいる。間に合わない。
クロードは、知っていた。古い医書にだけ載る、救命のための供給法を。接触の面積を最大にし、体温と呼吸と拍動を重ねて、一度に大量の魔力を渡す方法。戦場で生まれた術で、日常の医療では決して使わない。使うということは、彼女の意思を聞かずに、彼女の身体に触れるということだった。
逡巡は、一呼吸だけだった。
「……すまない」
誰に謝ったのか、自分でも分からなかった。ガスパールに目配せをすると、彼は即座に背を向け、外套で衝立を作り、近づこうとする者たちを声で制した。クロードは上着を脱ぎ、冷え切った彼女の身体を自分の体温で包み、耳元で呼吸を数えた。合わせて、ゆっくりと。拍動に、自分の魔力を乗せる。
整えて、渡す。整えて、渡す。
漏れていく分より多く。彼女の巡りの、どこかで焼け切れた場所を迂回して、無理やりにでも流れを作る。
どれほどの時間が過ぎたか分からない。自分の視界が狭まり、頭の奥に鈍い熱が溜まり始めた頃――腕の中の身体が、小さく震えた。
「……っ」
かすかな、呼吸。もう一度。脈が、指の下で確かに跳ねた。
クロードは目を閉じた。安堵で、腕の力が抜けそうになる。
助かった。助けてしまった、とも思った。
この方法でなければ彼女は死んでいた。それは事実だった。だが同時に彼は理解していた。彼女の魔力の巡りは、もう元には戻らない。あの噴出が焼き切った戻り路は、自分の魔力を渡し続けることでしか、つなぎ止められないだろう。
腕の中で、リゼットが微かに身じろぎした。何かを探すように、指が空を掴む。
香りを探しているのだ、とクロードは思った。幼い頃から、彼女はいつもそうだった。目覚めて最初に確かめるのは、世界の香りだった。
けれどその指は、すぐに力なく落ちた。
その夜から、リゼット・ヴァルディエの魔力は、一人では戻らなくなった。
帰路の馬車の中でも、クロードは彼女の呼吸を数え続けていた。十二で一巡り。乱れたら、手当ての手を強める。ガスパールは御者台の隣に座り、一言も発しなかった。彼の沈黙は、後の報告の正確さそのものだった。誰も、この道中のことを、後で多くは語らなかった。語るべきは数値と経過だけで、それは全部、記録に残った。
詰め所の医務室では、負傷者の処置が夜通し続いた。ヴェルグは両腕の痺れを押して担架の間を回り、「今日、死ななかったのは十八の娘のおかげだ。だが、その請求書は領が背負うものだ」と居合わせた父に告げた。父は深く頭を下げ、何も言わなかった。
その夜、ガスパールは初めての報告書を書いた。手が震えて、二度書き直した。三度目は、事実だけを書いた。時刻、場所、自分のしたこと、できなかったこと。感情は一行も入れなかった。報告とは、そういう形にするものだと、彼はその夜に決めた。後の彼の報告が常に正確で短いのは、この夜の書き直しから始まっている。
明け方、都から駆けつけた叔父がリゼットの巡りを精査し、クロードとガスパールにだけ、短く結論を伝えた。「戻り路が断たれている。治癒では、形は直らない」。ガスパールはドアの外で最後まで直立し、医官二人の会話を聞いていた。見習いの護衛は、その日、自分の持ち場の意味を理解した。守るとは、目の前の一歩だけではないのだと。
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