魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第一章 懐かしい香り


リゼット九歳の春は、ベッドの中で始まった。
正確には、庭で始まって、ベッドで終わった。昨日、調子がいいからと庭を一周しただけで、夜から熱が出たのだ。一周。それも、侍女に手を引かれて、ゆっくりと。なのに身体は文句を言う。朝になっても熱は下がりきらず、今日の予定――といっても、窓際で本を読むことと、兄ユリウスの家庭教師の声を隣室から聞くことくらいだったが――は、すべて取り消しになった。
窓の外では、庭師が薔薇の剪定をしている。切り落とされる枝が、かすかに青い匂いを運んでくる。リゼットは枕に頬を埋めたまま、その匂いを数えた。匂いを数えるのは、彼女の暇の潰し方だった。今日の屋敷は、焼きたてのパンの匂い、洗い立てのリネンの匂い、母の部屋から届く花の匂い。
昼食の盆が運ばれてきたとき、四つ目の匂いが混ざった。
「今日は少し、食欲が出るようにと。台所のマレッタが工夫してくれましたよ」
母が椀の蓋を取る。野菜のスープだった。湯気と一緒に立ちのぼったのは、青くて、少しだけ柑橘に似た、爽やかな香り。
リゼットの身体が、勝手に起き上がっていた。
知っている。この香りを知っている。
違う、と頭の半分が言った。今日のスープに浮かぶのは、刻んだ葉を乾かして挽いた粉だ。この領では香芹と呼ぶ、ありふれた薬味だ。初めて見るはずだった。なのに――。
ガラス瓶が並んだ棚。木のカウンター。黄銅の天秤の、かすかな金属の匂い。客が帰ったあとの店に残る、何十種類もの香辛料が混ざり合った空気。誰かの好みに合わせて、小さな匙で量り、紙の袋に落としていく手つき。常連の老婦人が「娘の嫁ぎ先で食べたスープの味が忘れられないの」と言って、恥ずかしそうに笑う顔。
あのとき私は、三つの調合を作って並べた。一つ目は再現、二つ目は冒険、三つ目は老婦人の今の台所に合うもの。再現品を嗅いで「これ」と言った彼女が、結局買って帰ったのは三つ目だった。「思い出は思い出。今の味がいいわ」――その言葉を、私はずっと大事にしてきた。調合とは、過去をなぞることではない。その人の、今の食卓に合う香りを探すことだ。
朝の店の匂いも思い出した。開店前に挽きたての粉の香りが、まだ客のいない店に満ちている時間。無口な老人がいつも同じ調合を買っていき、妻が亡くなった月から、私は何も言わずに、その調合の辛さをほんの少しだけ落とした。老人は気づいていたのだろう。ある日、袋を受け取りながら「ちょうどいい」とだけ言った。調合とは、言葉のない会話でもあった。
――ああ、私の店だ。
記憶は、夢の断片ではなかった。いつもは靄の向こうにあった景色が、その香りを鍵にして、一度にほどけた。私は大人だった。女だった。小さなスパイスの専門店を営んで、香りを組み合わせ、誰かの食卓に合う調合を考えるのが、私の仕事で、私の喜びだった。
そして、その日々はもう終わっている。
「リゼット? どうしました、顔が――」
気づくと、涙が落ちていた。驚いたのではない。悲しかったのでも、たぶん、ない。失くしたと思っていたものが、こんなに近くにあったことが、ただ嬉しくて、少しだけ悔しかった。あの店の空気の香りは、もう二度とそのままでは嗅げない。けれど、似た香りは、この世界にもちゃんとある。
「母様。この、青い粉。何ですか」
「香芹ですよ。台所にいつもあるものですけれど」
「生の葉と、種と、乾かす前のものが、見たいです」
母は少し困った顔をした。熱のある娘の頼みとしては、変わっていたからだ。でも母は、リゼットの「見たい」が本気かどうかを見分ける目を持っていた。やがて小さく頷いて、侍女に言いつけた。
「マレッタにそう伝えて。ほんの少しずつ、香りを嗅ぐだけです、と」
小皿が三つ、ベッドの脇机に並んだ。青い葉。乾いた葉。挽いた粉。リゼットは一つずつ、鼻先に寄せた。生の葉は水っぽくて若い香り。乾くと甘みが出る。挽くと、香りが一瞬だけ強く立って、すぐに丸くなる。
前世の知識が、指先に蘇ってくる。粉は熱に弱い。入れるのは最後。葉は刻むと香りが逃げるから、潰すように。
「……塩と、黒実も。ほんの少しだけ、もらえますか」
「リゼット」
「嗅ぐだけ。……できれば、混ぜてみたいの。十五分だけ」
交渉は、リゼットの勝ちだった。母は時間を計る砂時計を置いて、毛布をかけ直した。「十五分。それと、疲れた顔をしたらすぐ止めます」
小さな乳鉢は、薬調合用のものを借りた。香芹の粉、塩、砕いた黒実。匙の背で、ゆっくり混ぜる。手首はすぐに重くなったが、止めたくなかった。
一混ぜ目で、失敗した。黒実が強すぎる。舌に触れていないのに、香りだけで分かる。黒実の刺すような匂いが前に出て、香芹の青さが奥に引っ込んでいた。前世なら客に出す前に捨てる分量だ。リゼットは乳鉢をそっと脇へ寄せ、新しい小皿に、今度は黒実を半分にして取り直した。
思い出の中の手は、もっと速く、もっと正確だった。今の手は九歳で、病み上がりで、匙を持つだけで震える。でも、分かることは同じだった。香りの重なりを確かめながら、黒実をほんのひとつまみ減らし、香芹を足す。スープの野菜の甘さに合うように。熱で飛ぶ分を、先回りして。
できないことが増えたのではない。できる形が、変わっただけだ。
母が、小さな匙で味見をした。
「……あら」
「だめでしたか」
「いいえ。マレッタのスープより、香りが立つのに、優しい」
母はもう一口含んで、目を細めた。「これは、あなたが考えたの?」
戸口では、長兄アルベールが見ていた。母に促されて一口含み、彼は真顔で言った。
「……悪くない。だが、その黒実、一個いくらするか知っているかね」
「知りません」
「では次からは、量る前に聞きなさい。美味いものは、続かなければ意味がない」
九歳の彼女には半分しか分からなかった。けれど「続くこと」が大事だという言葉だけは、そのまま残った。
リゼットは頷いた。胸の奥が、熱とは違うもので温かくなっていた。庭を一周して寝込む身体でも、匙一本なら持てる。寝込んだ翌日でも、香りなら組み合わせられる。これは、誰かの真似ではない。私の仕事にできる。
「母様。私、もっと知りたいです。香りのする植物のこと。組み合わせること。……教えてくれる人を、探してもいいですか」
母はしばらく黙って、娘の額の熱を確かめた。それから、困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「まずは熱を下げてからね。それと、十五分が過ぎました」
名残惜しく乳鉢を手放すと、急に眠気がきた。目を閉じる間際、リゼットは指先をそっと鼻に近づけた。香芹と黒実と、かすかな塩の香り。この世界で初めて、自分で作った調合の香りだった。
一週間後、熱の落ち着いた日、リゼットは初めて台所の入口まで連れて行ってもらった。中へは入らない。入口の椅子に座り、匂いだけで台所を「見る」のが、その日の授業だった。
煮える鍋、焼ける皮、干物の棚、油の瓶。マレッタが次々と蓋を開け、彼女は目を閉じて名前を当てた。九つ正解、一つ外れ。外れたのは、領では珍しい、船で来た苦い豆だった。
「お嬢様の鼻は、台所に置くには惜しいねえ」
通りかかった父が、味見の椀を受け取り、一口含んで言った。
「……弟子入りだな、これは」
その一言が、許可だった。週に二度、十五分ずつ。彼女の学びは、屋敷の正式な日課になった。
記録の方法は、すぐに問題になった。自分で筆を持つと、十分で手が震え、字が崩れる。悔しくて泣いた夜、母が言った。
「上手に書くことと、残すことは、別のことです。あなたの言葉を、誰かの手で書けばいい」
翌日から、口述筆記が始まった。最初はユリウスがよく引き受けた。「黒実は喧嘩っ早い」と書くのを笑いながらも、彼は一字も変えなかった。母が付ける小さな花の絵と、彼女の震える署名が、各頁の隅に入った。
「これは、皆で作る本だね」
ユリウスの言葉に、リゼットは頷いた。自分の手の弱さは、欠陥のままではなかった。人とつながる形に、変わり始めていた。
失くした店は戻らない。けれど、香りはここにもある。材料も、きっとある。
――もう一度、自分の手で。
そう思ったのが、すべての始まりだった。
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