魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第二章 習うこと、合わせること


熱が下がると、約束は本当になった。
週に二度、台所のマレッタがリゼットの部屋へ小さな盆を持ってくる。盆にはその日の香辛料が少しずつ並んでいて、マレッタは名前と使い方を、料理人の言葉で教えた。
「香芹はね、お嬢様、優しい子です。煮ちゃいけない、最後にふわりと。黒実は喧嘩っ早い。入れすぎると、ほかのみんなを追い出します」
言葉だけでは終わらなかった。次の授業でマレッタは、小さな椀を二つ用意した。一つは適量の黒実、もう一つは倍量だった。
「飲んでご覧なさい。倍のほうを、先に」
倍量の椀は、最初の一口から全てが黒実だった。素材の味がしない。適量のほうは、椀の中で素材同士が順番に挨拶した。
「追い出す、って、こういうこと」
「そう。強い子はね、量で飼い慣らすんです」
この「舌で学ぶ」授業の進め方が、彼女の後の相談の聞き取りの原型になった。まず、相手の椀を味わうところから始めるのだ。
リゼットの知っている知識と、マレッタの言葉は、半分だけ重なった。前世の店では産地と等級で覚えたものが、この世界では料理人の手の感覚で伝わっている。足りない半分が知りたくて、リゼットはノートを取り始めた。字を書き続けると疲れるので、途中からは口述して、侍女に書いてもらう。兄のユリウスが来ている日は、彼が代筆した。
「『黒実、マレッタ曰く喧嘩っ早い』……本当にこのまま書くのか」
「そのまま書いて。あとで読んで、笑えるから」
庭師のトマ老人からは、植物の側を習った。歩けない日は、切ってきた枝葉が部屋に届く。根の匂い、雨の後の匂い、陽に当たった葉と影の葉の違い。トマは香辛植物を「育つ場所を覚えているもの」と呼んだ。
「同じ香芹でも、川辺のと丘のじゃ、香りが違います。水を吸いすぎた年は、青さが鈍る」
ある日、トマは小さな鉢を彼女の部屋の窓辺に置いた。香芹の苗だった。
「お嬢様の分です。水やりは、土の匂いで決めます。乾いた土は、乾いた匂いがする」
水やりの分量を決めるのは、彼女の仕事になった。体調のいい日に鉢を膝へ運んでもらい、土の匂いを嗅ぎ、霧吹きの回数を決める。芽が出て、葉が増えて、初めて自分の手で摘んだ香芹が、自分の椀に入った日、香り帳には大きな丸が付いた。植物は待ってくれる。けれど待たせすぎれば枯れる。その加減を、トマは何も言わずに見守っていた。
その言葉を裏付けるように、ある日、リゼットは小皿の一つをそっと押し戻した。
「この香芹、なんだか、沼の匂いがします」
マレッタが目を丸くした。その粉は新しい納入分で、台所ではまだ誰も使っていない。調べると、納入業者が保存の途中で湿気の多い倉庫に置き、底のほうはわずかに黴びかけていた。匂いは、人の鼻では分からないほど微かだったという。
その夕方、診察に来た叔父が、リゼットの前に三つの小瓶を並べた。中身はすべて同じ薬草の粉だった。
「目を閉じて。当ててみなさい。一番古いのはどれだ」
リゼットは一つずつ嗅いだ。香りの下に、別のものが重なっている。古い瓶には、置かれていた木棚の匂いと、湿った季節を越えた澱みがあった。真ん中のを指さすと、叔父は静かに頷いた。
「残響だね。物に残った魔力の履歴を、君は香りとして読んでいる」
四属性。その一つを、彼女は粉の仕分けに使っていた。
話を聞いた父は、しばらく天井を見上げてから言った。
「……四属性の使い道として、歴代で一番静かだな」
「褒めていますか」と母が聞くと、父は咳払いをした。「領の守りに使う力だとは思うが。まあ、台所の守りも、守りには違いない」
その父が、ある夕方、猟犬の子犬を小脇に抱えて彼女の部屋に現れたことがある。「外の匂いを、少しでも」というのが彼の理屈だった。子犬は彼女の膝で、乳と藁と、まだ知らない野原の匂いをさせて眠った。
「ありがとう、父様」
「……犬は、誰の病室にも入れるからな」
不器用な優しさだった。父の持ってくる「外」は、いつもこういう形をしていた。
天気の読める鼻として、彼女は屋敷の中で小さな評判も得た。雨の前の土の匂い、風の変わり目の匂い。洗濯の番の侍女が「お嬢様、明日は干せますか」と聞きに来るようになり、当たると台所で小さな自慢話になった。外れると、トマが「天気は、匂いだけじゃ決めない」と慰めた。屋敷の暮らしの中に、彼女の居場所が、少しずつ形を持ち始めていた。
長兄アルベールはもっと実際的だった。彼はリゼットの試料代を家計のどこに付けるか真剣に考え、「研究費」という項目を新しく作った。次兄レオンは領外へ行くたびに、道で見つけた香りのものを土産に持ち帰るようになった。三つ子のようにはいかないが、この家の誰も、彼女の「変わった趣味」を止めようとはしなかった。
ただ、叔父の注意だけは、はっきりしていた。
「残響を深く読むと、頭痛がするはずだ。香りが重なって聞こえすぎたら、すぐやめること。君の力は強いが、器のほうが追いついていない。いいね」
「はい」
分かっていた。実際、納入分の粉を嗅いだ日は、そのあと夕食まで頭が重かった。力は、使えばいいというものではないらしい。前世の店では考えもしなかった制限だった。
*
初めて「誰かのため」に調合したのは、十一歳の秋だった。
新しく入った侍女のセラが、食事をほとんど取れないのだという。南の港町から出てきたばかりで、領都の料理はどれも「香りが足りない」と零しているらしい。マレッタが気を悪くする前に、何とかならないかと相談された。
リゼットはセラを部屋に呼んだ。
「あなたの町のスープは、どんな香り?」
セラは驚いた顔をして、それから遠慮がちに話し始めた。魚の出汁。赤い実の粉を油で温めた、煙のような辛さ。酸っぱい果実の皮。母は日曜だけ、特別にそれを作った。
材料は、この領には半分しかなかった。赤い実の粉の代わりは緋椒だが、辛さの質が違う。酸味は、干した山査子で近づけられる。魚の出汁は台所にある。
リゼットは三つの調合を作った。一つ目は、セラの話の再現。二つ目は冒険。三つ目は――思い出の中の老婦人の言葉を思い出しながら――今のセラの台所、つまり領都の材料で無理なく作れるもの。
セラは三つ目を口にして、椀を持ったまま泣いた。
「違います。全然違うのに……同じ、ごはんです」
その意味が、リゼットにはよく分かった。故郷の味は、材料の名前ではない。食べたときに帰れる場所のことだ。
その夜、香り帳の新しい頁に、リゼットは震える字でこう書いた。
『セラ。南の港のスープ。今の台所用に調合。泣いていたけれど、全部食べた』
頁の隅に、小さく付け足した。
『この世界での、最初のお客様』
月に一度、納入の検品の日が設けられるようになったのも、この頃だった。台所の倉庫に彼女が椅子ごと運ばれ、粉と乾物の匂いを一つずつ確かめる。湿気た粉の件以来、マレッタが「お嬢様の鼻は、倉庫の番人です」と公言するようになったのだ。検品は十五分まで。けれどその十五分は、彼女が屋敷の役に立っていると、はっきり感じられる時間だった。
「役に立つ、というのは、こういう匂いがするんだ」
倉庫を出た彼女が呟いたのを、付き添いのセラは聞いていた。
冬の年越しには、リゼットは家族と使用人の何人かに、小さな香り袋を作って贈った。一人ひとり、違う調合だった。父には革と外気の中で邪魔にならない、静かな樹脂の香り。母には眠りの前の花の香り。働き手には、疲れの取れる柑橘に似た皮の香り。誰に渡すか考える時間そのものが、彼女にとっては年越しの支度だった。
セラはその香り袋を、故郷から持ってきた小さな巾着と一緒に、大事に仕舞ったという。噂は台所から使用人部屋へ広がり、「お嬢様の粉」を求める声は、その冬から少しずつ増えていった。
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