魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第三十七章 前夜の取り決め
大巡りの日の前夜、本部は静かな緊張に包まれていた。
夕食は、厨房班の作った温かい汁物だった。リゼットの調合した、胃に優しく身体の温まる粉が使われている。何十人もの術者と技師が、同じ鍋のものを食べた。誰かが言った。「これで明日は大丈夫だ」。大丈夫の根拠としては曖昧だったが、士気としては十分だった。
食後、クロードが避難所の医療班から戻り、最後の診察をした。数値は安定。パッチの残量も十分。彼は一枚の文書を取り出した。
その前に、各持ち場では小さな前夜の儀式があった。カヤは節の水盤に故郷のやり方で水を供え、ハンスは若い術者たちの道具を一つずつ点検して回り、アデルは輪番表の最終版を、本部の壁に貼った。「表は、明日の朝、ここから始まります」
ユリウスは、調査班の最終報告の写しを、彼女の部屋の戸口に置いていった。添えられた走り書きには、こうあった。『数値は、こちらで任せろ。耳の仕事は、お前の持ち場だ。無理はするな。数値のほうは、逃げない』。兄の応援は、いつも実務の形をしていた。
「明日の、撤退基準だ。確認して、署名してほしい」
症状の第一段階(疲労、香りの薄れ)で報告義務。第二段階(眩暈)で即時撤退。判断は現場指揮と主治医の記録に基づき、本人がその場で異議を唱えても、事前のこの署名を優先する。撤退の実行は、ガスパール。
「……私が、止まると約束する文書ですね」
「君は昔、十五分の約束を守るのに、砂時計が要ったそうだな」
母から聞いたのだろう。リゼットは笑って、署名した。
「明日、私が『あと少し』と言ったら、この紙を見せてください。ガスパール、あなたにも頼みます。腕を掴んででも、連れ出して」
「承知しました」
ガスパールの答えは短かった。
その頃、術者たちの宿舎では、眠れないルネが起き出していた。ハンスが無言で、自分の分の熱い茶を半分、彼の椀に移した。「寝ろ。本番は、寝た者が勝つ」。前夜の緊張は、持ち場ごとに、誰かの小さな手当ての上で、ほどけていった。
署名の写しは、その場で二部作られた。一部は本部の机へ、一部は医療班へ。アデルが言った。「原本がどこにあっても、判断の根拠は、持ち場に置きます」。約束は、人の記憶の中だけでなく、紙の配置でも守られるようになっていた。
廊下へ出る前、リゼットはクロードに言った。
「……明日が終わったら、普通の話をしましょう。患者と医者ではない、普通の話を」
「ああ」と彼は言った。「約束する。――そのためにも、明日は約束通りに、帰ってこい」
その夜、リゼットは決められた時刻に、決められた通り、床に入った。窓の外では、最終点検の明かりが遅くまで動いていた。自分のいない場所で、明日の準備が進んでいる。その明かりを見ながら眠るのは、もう寂しいことではなかった。
その夜更け、還流節の祠のほうから、小さな届け物があった。老術者ヴェルグは、もう節の実務からは退き、祠守の小屋で静かに暮らしている。届いたのは、彼が長年使ってきた、巡りの分量を量る古い柄杓と、短い文だった。
『お嬢さん。あの日、あんたは全部を一人で引き受けた。明日は、そうするな。ちょうどよく、皆で分けるんだ。それが、巡りの守り方だ』
リゼットは柄杓を手に取り、明日の自分の持ち場――中心の節の、祠の台の上――に置くことを決めた。十八歳のあの日、線の内側で聞いた言葉が、巡り巡って、明日の自分の仕事を支えに来たのだった。
柄杓は、その夜のうちに、彼女自身の手で布に包まれ、明日の道具一式のいちばん上に置かれた。明日の朝、手順通りに動くための、小さな準備。置く場所も、置く時刻も、決まっていた。
床に入る前、母が夜の茶を持ってきた。明日の話はしなかった。代わりに、庭の花の話をした。「あの白い花ね、今年は株が増えたの。来年は、もっと増えるわ」。来年の話を、当たり前のようにする。それが母の、勇気の付け方だった。
父が、廊下で声をかけた。
「明日は、無事に帰ってこい。それが、領主からの命令だ」
「はい、父様。……計画通りに、帰ります」
父はしばらく彼女を見て、頷いた。それ以上は何も言わず、彼女の部屋の戸が、きちんと閉まるのを確認して去っていった。
その足で、父は本部へ寄り、避難名簿の最後の照合をした。一軒だけ、点呼の印のない家があった。使いを走らせると、その家の老婆は、隣村の娘の家へ前日から移っていたのだという。名簿の欄外に、行き先が書き足された。仕組みの穴は、仕組み自身の確認で見つかることもある。前夜の領主の仕事は、その穴を埋めるまでだった。