魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第三十八章 大巡りの日
朝から、空気の匂いが変わっていた。
大巡りの日。巡環網の魔力が一年で最も強く巡る日。還流節の祠のまわりに、各節の術者たちが配置についた。中継器の明かりが、一つずつ灯る。本部の机には、輪番表と、数値の記録と、彼女の撤退基準の文書が置かれていた。
配置の前、ハンスは若い術者たちの装備を、無言で一通り確かめて回った。前夜と同じ点検だった。ルネの留め具の緩みを、彼は指先で締め直した。「本番ほど、基本だ」。古参の口数は少なかったが、その朝、若い術者たちの背筋は、その点検で伸びていた。
午前、巡りが強まり始めた。最初は順調だった。各節の報告が、伝令で届く。流量は予測の範囲内。還流の口が、五十年ぶりに、少しずつ開いていく。
昼前、最初の異常が来た。五番の節の若手術者ルネが、負荷で膝をついた。
騒ぎにはならなかった。アデルの輪番表の通りに、予備の術者が前に出て、倒れた者は後方へ運ばれた。表は、人を守るためにあった。
続いて、二番の中継器が過熱した。安全機構が回路を切り、流れが乱れる。セドリックが予備器への切り替えを叫び、ノエルが手を動かす。その間、全体の調律が崩れかけた。
運ばれてきた予備器の継ぎ目には、朝の点検でハンスが付けた、小さな赤い印があった。点検済みの印。その印を見て、ノエルは迷わず組み付けた。朝の無言の点検が、正午の数分を救っていた。
――ここが、私の仕事だった。
リゼットは中心の節に立ち、目を閉じた。香りの大合唱のような流れの中で、ずれている場所を聞き分ける。濁りの甘い匂いが、押し寄せては引いていく。あの日の匂い。けれど今日は、一人で受けるのではない。受ける先が、網全体に、薄く広がっている。
「二番、切り替えの瞬間に、三番を半分閉じて。五番の分は、四番と六番で分けて。……今です」
流れが、持ち直した。還流の口が、大きく開く。溜まっていた澱みが、薄められ、運ばれ、土地へ戻っていく。祠のまわりの石が、かすかに鳴った。
そのとき、眩暈が来た。第二段階。約束の、合図だった。
あと少し、と言いたかった。流れはまだ不安定で、自分の耳なら、もう一度全体を揃えられる。――けれど机の上の文書が、目に入った。自分の字の署名が。
「……交代します」
自分の声で、そう言った。ガスパールが即座に彼女の腕を支え、後方の術者――ユリウスと、訓練を受けた調律手の組――が彼女の位置に入った。手順は、彼女の書いた札の通りだった。
節の鐘が、順に鳴り始めた。流れが戻ると、各地の節の鐘が共鳴して鳴る。遠くで、近くで、音が渡っていく。避難所では、厨房班のイナが、走ってきた伝令の報告に耳を澄ましていた。「井戸の水が、匂いが違うって。……あの、澱んだ匂いが、薄くなってるって」
祠の鐘の音は、避難所にも届いた。長老は椀を置いて、長く耳を澄ましていた。「……戻れるぞ」。誰にともなく言った、その一言で、広場の空気がほどけた。子どもが一人、鐘の音のするほうへ駆け出して、母に抱き止められていた。
*
その頃、本部では、アデルが輪番表を書き換え続けていた。倒れた者の名に線を引き、予備の名を書き込み、休憩の順番を組み直す。誰も彼女に指示を求めなかった。表そのものが、指示だった。後に残ったその日の表は、赤と青の書き込みで埋まっていた。「あの表が、本部の頭脳だった」と、後日、ローランは述懐している。
*
医療班の天幕で横になりながら、リゼットは外の音を聞いていた。報告の声。数値を読み上げる声。中継器の低い唸り。自分のいない場所で、網は巡り続けている。
横になったまま、彼女は香り帳を枕元に置かせた。震える字で、書いた。時刻、自分の症状、交代した相手の名、交代のときの流れの様子。「患者になっても、記録はできます」。自分の撤退もまた、検証のための一つの記録だった。書き終えて、彼女はようやく目を閉じた。
夕方、避難所の医療班から戻ったクロードが、天幕に入ってきた。別の節で怪我人が出て、治療に当たっていたという。彼は彼女の脈を取り、記録を見て、静かに言った。
「流量、基準を達成した。還流は、開いたままだ」
「……私が抜けたあとも」
「ああ。君が抜けたあとも、だ」
リゼットは目を閉じた。涙が、少しだけ零れた。悔しさではなかった。
窓の外の空気の匂いを、そっと嗅いだ。甘い澱みが、薄らいでいる。まだ完全ではない。けれど、流れのある匂いだった。