魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第六章 広がる匂い、届かない場所


リゼットの調合は、少しずつ部屋の外へ出ていった。
十五歳の夏、領都に香辛料を卸す商人が屋敷を訪れた。行商あがりの目利きで、名をダリオといった。彼は試食した焼き菓子を二口食べて、首を傾げた。
「この甘い樹皮の使い方……領都じゃ見ないね。どこで習ったんです」
「本と、台所と、失敗からです」
ダリオは笑って、荷から各地の見本を取り出した。王都の乾燥花、港の塩漬けの実、山向こうの苦い豆。リゼットは一つずつ香りを確かめ、産地の天候まで言い当てて、商人を本気で驚かせた。その日以来、ダリオは屋敷に寄るたびに「お嬢様の分」と小さな見本袋を置いていくようになった。代金はアルベールが「研究費」から几帳面に払った。
商人は話好きで、王都の流行も運んできた。貴族の間で香を競う遊びが流行っていること。食堂では南の辛味が持て囃されていること。――そして、辺境のヴァルディエ家の名を、王都の商人たちは「鼻の利く領主家」と呼び始めていること。
「お嬢様の噂ですよ、半分は」
ダリオの話の中でも、彼女が一番身を乗り出したのは、港町の香辛料問屋の話だった。主が船で死に、若い娘が店を継いで、十年で港一番の問屋に育てたという。「あの嬢ちゃんはね、客の好みを全部、頭に入れとる。帳面いらずだ」。リゼットはその話を、何度も思い返した。知らないはずの話なのに、聞くたびに胸の奥が、懐かしさで痛んだ。
照れくさくて、誇らしかった。自分の香りが、先に王都へ旅をしている。その事実が、彼女の「行きたい」を、また少し強くした。
一度だけ、ダリオが残念そうに言ったことがある。
「還流節の村の環の実、今年もまともなのが入りませんで。あの村の名産で、昔は樽で買えたもんですが、ここ数年、実が小さくて」
環の実。領の者なら誰でも知っている、還流節の近くの畑で採れる、香りの強い小さな実だった。リゼットは香り帳の隅に、小さく書き留めた。『環の実、不作が続く。理由は天候?』
その時は、ただの不作の話だと思っていた。
十六歳の年、リゼットはダリオから初めて「まとまった量」の買い付けを任された。季節の変わり目の仕入れだった。彼女はアルベールの教え通り、申請書の形で計画を作り、数量と理由と、余った場合の使い道まで書いた。ダリオはその書面を見て笑い、「お嬢様、商人泣かせの買い手になりましたな」と言いながら、値引きと、保存の良い倉庫からの出荷を約束した。
知識が、取引の力になる。病室の中の学びが、外の世界と交渉する道具になる。その手応えは、彼女の世界をまた少しだけ広げた。
十六歳の冬には、レオンの頼みで、冬季巡回の兵たちのための調合を作った。冷えた携帯食に振る、身体の温まる粉。緋椒を効かせすぎれば胃がやられる。弱ければ、ただの気休めだ。リゼットは兵の一人を部屋の外に呼んで、好みと胃の強さを聞き取り、三段階の辛さで用意した。
聞き取りは、一人では終わらなかった。中隊の最年長の兵が、礼を言いに来たのだ。
「若いのが、お嬢様に胃の心配をされるなんて、と照れてましてね。でも、夜の見張りで腹が冷えると、人は判断を間違える。あの粉は、武器ですよ」
調合が「武器」と呼ばれる日が来るとは思わなかった。彼女は香り帳に、その兵の言葉をそのまま写した。『調合は、食べる人の持ち場を支えるもの』
「お嬢様が、兵の胃の心配までする時代か」とレオンは笑ったが、帰還した兵たちは口をそろえて言ったらしい。「あの粉のおかげで、夜が越せた」と。
嬉しかった。嬉しかったのに、その話を聞くリゼットはベッドの中にいた。
兄たちは外へ行く。ユリウスは学府へ進み、手紙には図書館の匂いや温室の話が書かれるようになった。『温室の土の匂いは、雨の前がいちばん強い。君なら一日中いられるだろう』――その一文を、リゼットは何度も読み返した。行けない場所の匂いを、想像で嗅ぐ日が増えていった。
自分の香りは、部屋の外へ出ていく。なのに自分は、この部屋にいる。
その思いを、リゼットは誰にも言わなかった。心配をかけるのが分かっていたからだ。ただ、香り帳の隅にだけ、小さく書いた。
『私も、自分の足で、匂いのするところへ行きたい』
別の頁には、『まだ嗅いでいない香りの目録』を作った。温室の土。港の市場の朝。雨の王都の石畳。図書館の古い本の匂い。ユリウスの手紙と、兄たちの土産と、本の中の言葉から集めた、いつか自分の鼻で確かめたい香りの名が、少しずつ増えていった。目録は、行けない場所の地図であり、いつか行く場所の約束だった。
ユリウスが学府へ発つ朝も、リゼットは門までしか行けなかった。
本当は駅馬車の乗り場まで見送る予定だったのに、前夜に微熱が出たのだ。「門までなら」と母が許し、車寄せで兄の荷物に、小さな紙包みを忍ばせた。旅の香り。虫を避ける葉と、気分の悪さを紛らす柑橘の皮と、眠れない夜のための穏やかな花。ユリウスの好みに合わせて、三週間かけて調合したものだった。
「手紙に感想を書くよ。温室の匂いも、図書館の匂いも」
「約束ですよ」
馬車が角を曲がるまで、リゼットは門の内側に立っていた。門の外の道は、領都を抜けて、王都へ続いている。匂いのするところは、全部その向こうにあった。
その夜、熱の寝床で、リゼットは香り帳を開いた。ユリウスへの調合の記録の隣に、行き先のない願いを書いたのだった。
十六歳の冬には、教える側の経験もした。セラが「自分の町の味を、自分でも作れるようになりたい」と言い出したのだ。リゼットは自分の調合をそのまま教えなかった。まずセラの手で挽かせ、セラの舌で加減を決めさせた。
「私のは、私の舌の正解です。セラの正解は、セラの手で見つけて」
三度目に、セラは自分の味に辿り着いた。弟子というより、これは同業者の誕生だった。教えることは、独り占めの反対側にあるのだと、彼女はそのとき理解した。
ある夜、母が珍しく昔の話をした。王都の社交界で将来を嘱望されながら、辺境の侯爵家への縁談を選んだときの話だった。
「後悔はなかったの」と母は言った。「選ぶということは、ほかの全部を置いていくことだったけれど、その置いていく作業も含めて、私の人生でした。――あなたも、いつか選ぶのよ。言いなりでも、諦めでもなく」
リゼットは、その言葉を香り帳には書かなかった。書くまでもなく、覚えている種類の言葉だった。
十七歳の秋、領都の収穫祭に、リゼットは馬車の中からだが参加できた。叔父の条件付きの許可で、滞在は一時間、馬車からは降りない。
それでも、祭りの匂いは十分だった。焼ける穀物、揚げ物の油、果実酒、行き交う人々の体温と埃。屋台の老婆が、揚げたての菓子を馬車の窓越しに勧めてきた。添えられた粉の香りを嗅いで、リゼットは目を丸くした。
「この合わせ方……台所の人と、畑の人の、両方の匂いがする」
「昔から、この通りの味だよ」
食は、台所の中だけで作られるのではない。通りに、祭りに、人の流れの中にもあった。馬車で帰る道、彼女はずっと窓の外を見ていた。世界は、匂いのするところまで、あと少しのところまで来ていた。
*
十八歳、成人の春が近づいた年、リゼットは父に願い出た。
「春の浄化に、同行させてください」
父の顔が険しくなった。還流節の浄化は領主家の務めで、成人した子が一度は立ち会う習わしではあった。けれど、それは健康な子の話だった。
「お前は見学でも、半日の馬車だぞ」
「分かっています。結界の線からは出ません。疲れたら、すぐに馬車に戻ります。……でも父様、私はこの領の人間です。領の魔力の節目を、一度も見たことがない。それでいいのか、ずっと考えていました」
母が何か言いかけて、やめた。代わりに口を開いたのは、診察のために居合わせた叔父だった。
「条件付きで、許可すべきかと。現場にはクロードが医官見習いとして帯同します。ガスパールも護衛見習いで付ける。私が定めた上限を超えたら、理由を問わず即帰還。それでどうです」
父は長いこと黙っていた。やがて、重く頷いた。
「……線の外に出るな。一歩もだ」
出発の前の晩、リゼットは浄化隊の昼食のための調合を仕上げた。冷たい山の空気でも香りが立つように、温性のものを中心に、胃に優しく。作業の途中で手が止まってもいいように、経過の札を書いて、マレッタに渡してある。
調合箱を閉じると、十一本の瓶が静かに並び、一本だけ空だった。
明日は、自分の足で外へ行く。領の節目を見て、領の空気を嗅ぐ。
窓の外では、春の雨が上がったばかりの庭が、濡れた土の匂いをさせていた。
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