魔力が漏れる体の辺境令嬢は、前世の調合スキルと従兄の溺愛で生きていきます
第七章 選ぶための約束


目覚めたのは、三日後だった。
最初に分かったのは、匂いだった。薬草の苦い匂い。洗った布の匂い。誰かの袖の、温かい匂い。ああ、世界にはまだ匂いがある――そう思って、リゼットは泣いた。泣いたことで、自分が生きているのだと分かった。
病室には叔父がいて、ゆっくりと、隠し事なしに説明した。
還流節で逆流した汚染を、彼女は一身に引き受けて浄化した。術者たちに死者はなく、領都への被害もなかった。けれど過負荷で、彼女の体内の魔力の巡り――使った魔力を身体へ戻すための路が、焼け切れた。
「回復しても、留まらない。漏れていくんだ。眠っても、食べても、帳尻が合わない」
「……治せないのですか。治癒では」
「傷は閉じられる。けれど、君の巡りは『こういう形だ』と身体が覚えてしまった。形そのものは、傷ではないんだ」
では、どうやって生きていくのか。その問いに、叔父は少し言いよどんでから答えた。
「外から、魔力を入れ続けるしかない。合う形に整えて、定期的に。……できるのは、クロードだけだ。血縁で拒絶が少なく、結縁と調律の両方を持つ。あの日、君を救った方法で、これからも」
あの日。意識のない自分の身体に触れ、命をつないだ従兄のことを、リゼットは思った。
「クロードは、どこに」
「毎晩、廊下で寝ている。追い返しても戻ってくる」
*
クロードは、憔悴して現れた。
「すまなかった」
開口一番、それだった。
「君の意思を聞かずに、あの方法を選んだ。助けるためとはいえ、医官として、従兄として、越えてはいけない線だったと思う。……それでも、同じ場面が来たら、私はまた同じことをする。そのことも含めて、謝る」
リゼットはしばらく黙っていた。怒りはなかった。あったのは、もっと厄介なものだった。
「私は、あなたに命を借りたのですね。それも、一度では終わらない借りを」
「借りではない」
「では、あなたは一生、私に魔力を渡し続けるのですか。医官としての将来も、結婚も、全部、その後ろに置いて」
クロードは何も言えなかった。その沈黙が、答えだった。
その夜、リゼットは眠れなかった。生かしてもらった命は嬉しい。けれど、その命が誰か一人の人生を静かに削っていく形は、嫌だった。前世の店で学んだことが、こんなところで胸に刺さった。一人が休めば壊れる仕組みは、大切なものを長く守れない。
翌日、リゼットは叔父とガスパールを呼び、クロードの前で言った。
「約束を、決めましょう。曖昧なまま続けるのが、一番よくないと思うから」
彼女の挙げた条件は、こうだった。供給は医療として記録する。日時は前もって決め、私はいつでも延期や中止を求めることができる。代わりに、クロードもまた、自分の体調が悪い日や、どうしても無理なときは、はっきり無理だと言わなければならない。供給のあとの彼の頭痛と熱のことも、記録に残す。隠さないこと。そして、別の方法が見つかる可能性を、最初から諦めないこと。ノエルにも相談する。
「私だけが守られる約束は、嫌です。これは、二人で続ける仕事の取り決めにしてください」
ガスパールが立会人として記録に署名し、叔父が確認の印を押した。クロードは長いことその文書を見つめていて、やがて静かに言った。
「……君は、いつもそうだな。助けられる側のくせに、相手の心配をする」
「助けられる側だからです。お礼の形を、間違えたくないの」
数日後、初めての「定期供給」が行われた。あの日とは違った。時刻が決まっていて、記録があり、彼女にはやめてと言える権利があって、彼はそれを確認してから、そっと彼女の冷えた手を取った。体温が重なり、呼吸が揃い、整えられた魔力が静かに流れ込む。恥ずかしさより先に来たのは、香りの輪郭が戻ってくる感覚だった。遠ざかっていた世界の匂いが、一つずつ、近くに戻ってくる。
ああ、とリゼットは思った。これは、鎖ではない。――鎖にしないと、二人で決めたのだから。
帰り際、彼女はクロードの袖から、かすかな熱の匂いを感じ取った。供給の後の微熱。決まりでは、彼の負担も記録することになっていた。
「クロード兄様。熱が、ありますね」
「……記録には、書いてある」
「記録に書いてあっても、私は直接聞きたいんです。――しんどいですか」
彼は少し困ったように笑い、正直に言った。「少し。でも、約束の範囲内だ」
見守る側と見守られる側が、入れ替わる瞬間だった。合意は、その双方向の確認の積み重ねで、少しずつ本物になっていった。
ある供給の終わりに、リゼットは思い切って言った。「……手が、もう震えていませんね」
クロードの手が、一瞬止まった。ガスパールの証言を、彼女が知っていると、彼は知らなかったのだ。
「……よく、見ているな」
「患者の、仕事です」
彼はそれ以上、何も言わなかった。ただ、その日の記録の字が、いつもより少しだけ、丁寧だった。
療養の日々の中で、家族はそれぞれの仕方で、彼女の傍にいた。父は毎朝、庭の花を一輪、黙って花瓶に差し替えた。言葉の代わりに、季節の匂いが届いた。母はユリウスの手紙を読み聞かせた。学府の図書館と、温室と、雨の前の土の匂いの話。レオンは巡回から戻るたびに、匂いの土産の約束を守った。高い山の樹脂、港の塩、海辺の藻の乾いた匂い。
行けない場所の匂いに囲まれて、リゼットは思った。嗅ぐだけでは、もう足りない。私も、匂いのするところへ行きたい。――何年も前に香り帳の隅に書いた願いが、今度は、はっきりした形を持ち始めていた。
ある夜、彼女は香り帳の新しい頁に、もう一つの願いを書いた。供給について、だった。
『彼が倒れたら、私はどうなる。――選べる方法を、増やしたい』
不安からではなく、設計として。その一行が、後にノエルの装置と、巡環網の別の計画へつながる、最初の種になった。
*
事故の顛末は、後日、家族の集まる場で共有された。ガスパールが見習いの立場から一部始終を報告し、父は黙って聞き、最後に一言だけ言った。「責任は、私が許可したことにある」。
後日、リゼットは一人でガスパールに聞いた。報告に無かったことは、あるか。彼はしばらく黙ってから、言った。
「記録には書かなかったことが、一つ。……医官殿は、あの間ずっと、お嬢の呼吸を数えていました。声に出して。手が、震えていました。それでも数えるのを、やめなかった」
事実だけを語る護衛の、唯一の私的な証言だった。
その夜、リゼットは香り帳の新しい頁の隅に、小さく書いた。『あの日、私の呼吸を、数えてくれた人がいた』。供給の記録でも、事故の記録でもない。誰にも見せない頁の、彼女だけの一行だった。感謝と呼ぶには、少しだけ、形が違った。名前は、まだ付かなかった。
誰のせいでもない事故に、誰もが自分のせいの部分を持っていた。リゼットはそのことを、合意の席の前にもう一度考えていた。誰か一人に全部を背負わせない仕組みが要る。それは、供給の形についても、同じことだった。
療養の最初の壁は、座ることだった。上体を起こすだけで眩暈がし、視界が白んだ。彼女は泣き言の代わりに、香り帳に小さな目標を書くことにした。『今日:枕を三つ重ねて、夕食まで座る』。できた日は丸、できない日は理由を書く。記録は、諦めの代わりになった。できなかった日の記述が、翌日の条件になるのだから。
療養は長かった。
家の者たちは以前にも増して彼女を案じ、庭への外出にも二人付き添いがついた。窓の外の匂いを数える日々が戻ってきて、リゼットは時々、九歳の自分に戻ったような気がした。ただ一つ違うのは、香り帳の頁が増えていくことと、週に一度の供給と、そして――自分がどう生きたいかを、考える時間が増えたことだった。
秋のはじめ、リゼットは両親に言った。
「王立セイラン学府へ、入学したいです」
父は即座に反対した。母は黙って、彼女の言葉の続きを待った。
「生かしてもらったから、恩を返したい――それもあります。でも、それだけじゃありません。私はこの部屋で、ずっと『どうすれば迷惑をかけないか』を考えてきました。でも、どう暮らしたいかは、部屋の中では分からなかった。外で学んで、人と会って、自分の仕事を持って。それから選びたいんです。私の人生を」
沈黙が落ちた。口を開いたのはアルベールだった。
「……願いを、計画に変えましょう。学府長への医療情報の開示、クロードの専属医としての随行、ガスパールの護衛、侍女の同行、週の報告、撤退の基準。条件を全部、制度として整える。父様、それなら」
父は娘を見た。線からは出ないと言って、線を越えて人助けをした娘を。本当は誰より知っていたはずだった。この子は、止められる子ではないのだと。
「……条件は、アルベールの案が全部通ったらだ」
数か月後、学府からの返信が届いた。特別な配慮付きでの、入学許可だった。
出発の前の週、荷造りは小さな儀式のように進んだ。母が衣類の間に庭の花を乾かしたものを忍ばせ、父は無言で旅の安全を祈る領の守り札を箱の底に入れた。アルベールは学府周辺の地図と予算表を、レオンは「夜道で眠気を飛ばす粉」の注文票を、ユリウスは温室の目録の写しを持ってきた。ノエルからは、瓶の予備と小型の匙。セラは港の赤い粉の残りを全部、巾着に詰めた。
みんなの手が入った荷物を前にして、リゼットは思った。行くのは私一人でも、背負っているのは一人分ではない。この荷物は、重いのではなく、支えられているのだ。
出発の準備の日、リゼットは調合箱を荷物の一番上に置いた。十一本の瓶と、一本の空き瓶。香り帳には、学府の温室の匂いを書くための、まっさらな頁が残っている。
『私も、自分の足で、匂いのするところへ行きたい』
何年も前に隅に書いた小さな字を、リゼットは指でなぞった。
「行こう」
誰にともなく呟いて、彼女は箱の蓋を閉めた。
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