ブルーヘヴンの彼方に
「そうだ、若葉ちゃん」
「何?」
「今度、僕の友達とダブルデートしない?」
「ダブルデート?」
見るからに緊張している。
「前に話した武蔵君。大学で法律を勉強してて、弁護士目指してる友達」
「その人にも彼女さんいるの?」
「最近できたんだって。若葉ちゃんと同じ大学一年生らしいよ」
「そうなんだ……」
「無理なら全然いいんだけど」
しばらく考えたあと、若葉ちゃんが頷いた。
「会ってみたい、かも」
「本当?」
「うん」
「じゃあ聞いてみる」
ちょうど安全に停められる場所を見つけ、僕は車を停めた。
武蔵君に電話をかける。
〈もしもし〉
「武蔵君。今大丈夫?」
〈大丈夫だよ。もしかして例の件?〉
「そう。今度の水曜日どう?」
〈僕はいいよ。玲美ちゃんも一緒にいるけど――〉
〈行く行く~!〉
電話の向こうから、明るい女性の声が飛んできた。
「それ、彼女さん?」
〈うん。槙野玲美ちゃん〉
〈初めまして~!〉
若葉ちゃんへケータイを向ける。
「若葉ちゃん、僕の彼女」
「えっ」
〈わあ、若葉ちゃん? 初めまして!〉
「あ……初めまして。山口若葉です」
〈玲美でいいよ~。同じ一年生だし、会えるの楽しみにしてるね〉
「う、うん。私も」
緊張しながらも、ちゃんと答えている。
何だか嬉しかった。
「じゃあ、水曜の十六時。僕の専門学校前で」
〈了解〉
〈楽しみにしてるね~!〉
通話を終える。
「ありがとう。勝手に話進めちゃったけど大丈夫だった?」
「うん。二人とも、いい人そう」
「武蔵君は本当にいい奴だよ」
「じゃあ楽しみにしてる」
若葉ちゃんが笑った。
その直後だった。
〈ピロロロ……〉
彼女のケータイが鳴る。
「ちょっと出てもいい?」
「もちろん」
画面を確認した若葉ちゃんが電話に出る。
「もしもし……あ、おばさん。どうしたの?」
最初はいつも通りだった。
けれど。
少しずつ、若葉ちゃんの表情が消えていく。
「……え?」
声まで変わった。
「……うん」
僕は何も言えないまま、彼女の横顔を見る。
「……わかった。ありがとう」
通話が終わった。
「若葉ちゃん?」
俯いたまま、動かない。
「どうしたの?」
「……ごめんなさい」
「え?」
「私……行かなきゃ」
震えている。
「梨歩が……」
名前を口にした途端、声が詰まった。
「友達が……危篤、だって……」
「……」
「だから、行かなきゃ……!」
泣き出しそうになりながら、若葉ちゃんは続ける。
「ごめんなさい……。せっかく今日、連れてきてくれたのに。武蔵さんたちとも約束までしてくれたのに……」
「若葉ちゃん」
僕は彼女を抱きしめた。
「謝らなくていい」
「でも……」
「いいんだよ」
腕の中で、小さく震えている。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分でもわからない。
それでも今は、そう言うしかなかった。
「きっと、大丈夫だから」
「う……っ」
若葉ちゃんが僕の胸元で泣いた。
今日は彼女を笑わせたかった。
楽しい一日にしたかった。
でも。
そんなことは、もうどうでもいい。
「行こう」
「え?」
「その子のところへ」
「でも……」
「どこの病院?」
迷っている時間はない。
若葉ちゃんが涙を拭う。
「山野井総合病院……」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。
「山野井総合病院まで、お願い」
その名前。
忘れるはずがない。
僕が幼い頃、長い時間を過ごした病院。
心臓の手術を受けた――あの場所だ。
まさか。
若葉ちゃんの親友が入院しているのも、そこなのか。
「わかった」
エンジンをかける。
行き先変更。
植物園とは反対方向へ。
山野井総合病院へ向かって、車を走らせた。
(間に合ってくれ)
名前も知らない。
顔すら知らない。
それでも。
若葉ちゃんがこんなに大切にしている人なら――。
(どうか)
ハンドルを握る手に、自然と力が入った。
彼女に、これ以上の悲しみを与えないで。