ブルーヘヴンの彼方に

2. 夢で会えたら


2. 夢で会えたら

*

「梨歩!」

 若葉?
 そこに、いるの?

「梨歩ッ! 起きて! 起きてよ!」

「梨歩……」
 ――誰?
 知らない声が、若葉の近くから聞こえる。

 でも、この声。  どこかで聞いたことがあるような、懐かしい響きだ。

 ああ、眩しい。
 徐々に視界が鮮明になっていく。

「梨歩!」
「わ、か……ば……?」
 若葉。

 やっぱり若葉だ。  あたし、戻ってこられたんだね。
 よかった。

「梨歩……?」
 あ、この声……さっきの。
 知らないはずなのに、どこか懐かしい声の人。

「え……」

 嘘でしょ?
 まさか。  まさか――?

「エ……ディ?」

 どうして、エディが?

「エディさん、どういうこと?」
「……」

 エディ、どうして若葉と……一緒にいるの?

 何で?  何がどうなってるの?

「……ごめん、若葉ちゃん。実は――」
 エディが何かを呟く。それを聞いた若葉が驚いたように目を見開いた。

 嫌だ。
 すごく気まずい。

 何で、よりによってこのタイミングでエディが現れるの……?

「……と、とにかく。梨歩、無事でよかった。私、おばさんから報(しら)せを受けて、本当にびっくりして……。それで、彼に。エディさんに――」
「やめて」
「え……」
「やめて。聞きたくない……」
「り、梨歩?」
「……お願い、帰って」
「ちょっと、梨歩。若葉ちゃんたち、遠出先からわざわざ引き返して駆けつけてくれたのよ」
「お母さんは黙ってて!」
「梨歩!」
「いいから! 二人とも帰ってよ!」

 嫌だ。
 もう嫌だ。
 何で、こうなっちゃうの?

「……会いたくない」

 こんな形で彼に会いたくなかった。

 こんな惨めな姿、彼にだけは見せたくなかったのに。

 さっきの夢の続きを、どこかで期待していた。
 もし、またエディに会えたなら。
 笑って、 「あの時、友達になってくれてありがとう」って伝えるつもりだったのに……。

「ごめんなさいね、二人とも。せっかく来てくれたのに……。梨歩、ちょっと疲れてるみたい。また今度来てもらってもいいかしら?」

 お母さん、やめてよ。
「もう来なくっていいってばッ!!」
 嫌だ。  嫌だ。  嫌だ。
 あたし、今ものすごく惨めじゃん。

 あたしの知らない間に、どういうわけか二人の時間は進んでいて。

 ずるい。
 どうして、あたしばっかりこんな思いしなくちゃいけないの。

「梨歩、一度落ち着きなさい」
「出てって! 出てってよ!」
 嫌い。  嫌い。  嫌い。
 誰も、あたしの気も知らないで。
 何なのよ。

「わかったわ。今日は帰るね、梨歩……」
「驚かせて悪かった。それじゃ、僕も今日はこれで失礼するね。お大事に――」
「病人扱いしないでよ! 好きでこんな躰になったわけじゃないのに……」
 ああ、最低だ。

 あたし、今……若葉にもエディにも八つ当たりしてる。
 でも、抑えられない。

 こんなの、いつものあたしじゃない。

「……ごめん。無神経だったね」
 違う。
 エディは悪くない。

「――もういい。早く……行って」
 こんな言い方しかできない自分が、大嫌い。
 あたしは二人に背を向けた。

 布団越しに、ドアの閉まる音がした。



「う……ぅっ」

 あたし、なんてひどい奴なんだろう。
 今、ものすごく……若葉が妬ましい。

 今まで感じたこともないような、真っ黒でドロドロした、ヘドロみたいな感情が渦を巻いている。

 気持ち悪い。
 全部吐き出せば楽になると思ったのに。
 残ったのは、罪悪感と虚無感だけ。

 どこにぶつけたらいい?

 誰に言えば、わかってくれる?

 そんな人、きっといない。

 だって、たった今――。
 唯一無二の親友を、あたし自身が傷つけてしまったのだから。

「うっ……う……!」

 あの二人、どうやって知り合ったの?
 あたしが死んじゃうかもしれないって時に、二人は二人の時間を楽しんで。

 せめて若葉の相手がエディじゃなければ、あたし、こんなに苦しくならなくて済んだのかな。
 そう思うと、余計に腹立たしかった。
 奥手な若葉の恋が実ったなら、めいっぱい祝福するつもりだった。

 でも。
 どうして、よりによって彼なの?
 そして、その瞬間――気付いてしまった。
 完全に、嫉妬だ。

 幼い頃の記憶。
 あれはもしかしたら、あたしの初恋だったのかもしれない。

 初めての友達。
 そう思い込んで、本当の気持ちに蓋をして、気付かないふりをしていたんじゃないか。
 そんな可能性だって、十分にあった。

 今更そんなことを言ってもしょうがないのはわかってる。
 あたしには、涼ちゃんという彼氏がいた。
 涼ちゃんが、大好きだった。
 でも。
 まさか……あんなことになるなんて。

「梨歩」
 お母さんが、布団越しに声をかけてきた。
「……若葉ちゃんに、あなたの危篤を伝えたのは私。でも、まさかエディ君と一緒だとは思わなかったわ」
「え……?」
 何それ。
 お母さんも知らなかったの?

「びっくりしたわよ。十五年くらいぶりかしら。梨歩が退院して以来、ずっと彼と会っていなかったでしょう? お互いどこに住んでいるのかすら知らないまま離れ離れになって。まさか、こんなに近くにいたなんて」
「……でも、何で若葉とエディが――」
 今、一番引っかかっているのは二人の関係だ。
 だいたい想像はつくけど……。

「私もさっき聞いたの。出逢ってまだ日は浅いけど、二人は今、恋人同士だって。もう少し落ち着いたら、梨歩にちゃんと報告しに来る予定だったんですって」
「……そう、なんだ」
 やっぱり、二人は付き合ってるんだ。
 それは、紛れもない事実。
 だとしても、やっぱりあたしは……。

「もう、訳がわからないよ……」
 思い描いていたシチュエーションとは程遠い。
 皮肉にも、親友の恋人として現れた彼に、お礼どころか八つ当たりしてしまうなんて。

 あたし、最低だ。
 もう若葉も、きっと来てくれない。
 あたしは今日、自分の手で一番大切な親友まで失ってしまったんだ。

 全部、自分が蒔いた種。
 気付いた頃には、もう手遅れだけど。
「何で……どうして……」
 悔しい。

 どうして、心穏やかでいられないんだろう。
 どうして、自分のことしか考えられないんだろう。
 二人は、自分たちの時間よりも、あたしを選んで駆けつけてくれたというのに。


ごめんね、若葉。
 ごめんね、エディ。

 “ごめんね”の言葉が、やけに遠く感じる。

 心の底から申し訳ないと思っている時に限って、すんなり口から出てこないのはどうしてだろう。
 たった一言なのに。
 どうして、こんなにためらってしまうんだろう。

 ケータイの送信ボタンすら、なかなか押せそうにない。
 そんな些細なことさえ、今は満足にできそうになかった。
 あたし、いつからこんなに臆病になっちゃったの?

「……とりあえず、今日はもう休みなさい。若葉ちゃんたちには、私からもう一度話しておくから」
 お母さんはそう言い残し、病室を出ていった。
「……」
 一人残されたあたし。

 布団から顔を出し、天井を仰ぐ。
 狭い空間。
 何から何まで、真っ白な空間。
 暗闇よりも深い、虚無感。

 もし“永遠”があるとするなら、こんなに虚しい時間を過ごしている今のあたしにとって、それは拷問でしかない。
 それならいっそ、死んでしまった方が遥かに楽だとさえ思った。
「このまま……死んじゃえばよかったんだ……」

 死を覚悟したわけじゃない。
 死ぬのが怖くて仕方なかったはずなのに。
 今は、生きる気力すら危うくなっている。
 本当に、これがあたしなの?
「……」

 枕元に置かれた、涼ちゃんからのプレゼント。
 これが最後になるなんて、思ってもみなかった。
「涼ちゃん……」
 どうして。

 どうして。

 水彩と繊細な色鉛筆で描かれたあたしの頬に、ぱたぱたと音を立てて涙が落ちる。

 ――涼平は、先月……亡くなりました。

 あまりにも突然だった。
 あたしは呑気に、 「どうしてお見舞いの一言も言ってくれないの」なんて文句を言おうと、電話をかけたところだった。
 タイミングがいいのか悪いのか。
 電話に出たのは、彼のお姉さんだった。

 面識なんてないはずなのに、彼女はあたしが誰なのか知っていた。
「ごめんなさい……ッ」
 嗚咽する彼女の声に、あたしは訝しんだ。

「あの、涼ちゃんは……?」

 そして、あの言葉。
 何て残酷な時間なんだろう。

 あたし、声も出なかった。
 電話越しに聞こえてくる、お姉さんの嗚咽まじりの言葉。

 どういうこと?
 帰省中に交通事故に遭って、休学することになったっていうのも最近知ったばかりなのに。

 そしたら今度は病気が見つかって。
 しかも、もう末期だったって?

 あたし、一緒にいて全然気付かなかったの?

 あたしの、せい?

 涼ちゃんは、あたしのせいで……?

 もっと早く気付いてあげていたら……。

 いまだに信じられない。

 受け入れがたい現実。

 それでも、お姉さんの言葉の中には、涼ちゃんの強い思いが溢れていた。

 まるで、あたしをなだめるように。
 お姉さんの声を借りて、涼ちゃんの思いが伝わってきた。

 ――梨歩を失いたくない。

 ――梨歩を泣かせたくない。

 ――心配をかけたくない。

 ――生きていてほしい。

 ――だから、自分がいなくなることは、すぐには言わないでほしい。

 ――せめて、梨歩の誕生日が過ぎるまでは。

 ――それまでに自分がいなくなってしまったとしても、悲しい誕生日にならないように。


 そんな小細工までして。
 涼ちゃんは、あたしより先に空へ逝っちゃった。
 そんな大事なこと、どうして言ってくれなかったの?
 そう言いたかった。

 でも、あたしの病状を知った上での決断だったんだと思うと、何も言えなかった。

 でも。
 ひどいよ。
 あたしに直接言わないまま、こんなにも早くいなくなっちゃうなんて。

 ひどい。
 ひどすぎるよ。

 その時だった。
 あり得ないはずのことが起こった。



もう二度と聞こえないはずの声。
「涼……ちゃん?」
 もう二度と会えないはずの彼。


――ごめん。
「涼ちゃん!」
 亡くなったはずの涼ちゃんが。
 涼ちゃんが、いる。

――ちゃんと、言えなくて。
 ほんと、そう。
 口下手もいいところだよ。
 回りくどいところも。  はっきりしないところも。
「どうして、言ってくれなかったの?」

――ごめん。
 わかってる。
 あたしに心配をかけたくなかったんでしょ。

――梨歩。
 涼ちゃんの躰が、透けている。
「涼ちゃん、あたし……」

――梨歩のせいじゃないから。
「え?」

――俺がこうなったのは……梨歩のせいじゃない。
「……」

――言ったら、梨歩は自分のせいだって思うだろうから。だから、姉貴に頼んで――
「だからって、そんなことしなくても……」

――ごめん。
 涼ちゃん、さっきから謝ってばっかり。
 謝るのは、あたしの方なのに。
「ごめんね、あたし……。涼ちゃんに甘えすぎてた。いつも黙って、あたしのやることなすこと見守ってくれてたのに」

――それは、俺がそういう梨歩の姿を見てるのが好きだったから。
 涼ちゃん。
 そういうのは、生きてる時に言ってほしかったよ。
 寡黙でシャイなのは知ってたけど。
 こうして改めて言葉で聞くと、あたし、涼ちゃんのこと全然わかってなかったんだなって思った。
「あ、そうだ。プレゼント、ありがとう」

――ああ。無事に手元に届いたみたいでよかったよ。
「まったく……。お見舞いの一言もないから、死んでるんじゃないかって思ってたら……」

――ごめん。本当に死んでしまって。
「冗談でも笑えないよ、それ」

――ごめん。さすがにシャレにもならないよな。
 さっきよりも、涼ちゃんの躰が透けて見える。
 いつになく饒舌なのは、もう時間がないってことなのかな。

――梨歩。もう時間がないから、手短に言うよ。
「え?」
 やっぱり。
 そうだよね。
 こうして会えること自体、奇跡みたいなものなんだし。
 たとえ、これが夢だったとしても。


――今を、生きろ。
 まっすぐにあたしを見つめて、涼ちゃんは言った。

――夢は必ず叶う。諦めない限り。
「涼ちゃん……」

――もうそばにいてやれないのは心残りだけど。俺はいつも、梨歩のこと……応援してるから。
「あたしの、夢……」

――歌手になるんだろ?
「……うん」

――なれるよ、梨歩なら。
 涼ちゃんの手が、あたしの髪を撫でるように伸びて。
 けれど、その指先は触れることなく、するりと抜けていった。
「あたし……生きる」

――ああ。
「叶えたい夢があるんだもの。だから、あたしまだ……」
 死ねない。
 死にたくない。
 でも、涼ちゃんは……。

――俺の分まで、生きて。
 志半ばで命が潰えることほど、無念なことはないはずなのに。

――心のままに、生き……て。
「涼ちゃん!」
 すうっと光の粒が舞う。
 涼ちゃんの姿が、泡みたいに弾けて消えていく。

――梨歩に出逢えて……良かっ……た……
「涼ちゃん! 涼ちゃん!」
 行かないで。
 もっと、そばにいて。

 涼ちゃん。

 涼ちゃん。

 声にならない声で、あたしは何度も彼の名前を叫んだ。

「涼……ちゃん……」

 完全に見えなくなった、涼ちゃんの姿。
 今度こそ、本当にもう……二度と会えないんだ。

「あたしも……涼ちゃんに出逢えて、幸せだったよ」
 せめて、この言葉を聞いてから行ってほしかったな。

 あたしは、ベッドの上に落ちていた桜の花びらを手に取った。
 開け放たれた窓から、風が流れ込む。
 蝶が舞うように風に乗った花びらは、あっという間に空の青へ溶けて消えていった。
 一瞬すぎて、いまだ気持ちが追いつかない。

 もう、どんなに願っても。
 涼ちゃんのいた時間は戻ってこない。
 どんなに寂しくても。

 苦しくても。
 悲しくても。
 辛くても。

 前に進むしかないんだ。

 カタッ。
 涼ちゃんがくれた、あたしの似顔絵のキャンバスが音を立てて倒れた。

「え……?」
 そこに、文字がある。
 さっきまではなかったはずなのに。
 いや。
 あたしが見落としていただけなのかもしれない。

 ――Especially for you――

 最後まで、不器用だったな。

 そんな不器用な優しさが、あたしはたまらなく好きだった。
「ありがとう、涼ちゃん。大好き」

 ずっと忘れないよ。
 涼ちゃんがくれた、最後のエール。
 あたしは、今を生きていく。

 十九歳のあたし。
 人生は、まだまだこれからだ。
 泣き言言ってる場合じゃないね。



そうだ。
 あたし、やらなきゃいけないことがあったんだ。

「……謝んなきゃ」
 若葉。
 いつもやりたい放題、好き放題なあたしに、文句の一つも言わず付き合ってくれてた。
 真面目で、融通が利かなくて。
 ちょっと鈍くさくても、ひたむきに努力を重ねて。
 やると決めたら、必ず最後までやり通す芯の強さがあって。
 まるで、凜と咲く花みたい。
 小さい頃は、あたしが守ってあげなきゃ。支えてあげなきゃって思うくらい、気弱で目立たない子だと思っていたのに。

 いつの間にか、支えられていたのはあたしの方だった。
 今になって、ようやく気付いた。
 あたしは若葉を支えるなんて言いながら、心のどこかでマウントを取ってたんだ。

 でも、それを認めたくなくて。
 若葉は、あたしがいないと何もできないって思い込んで。
 かつて、あたしが撒いた除草剤で花壇の花を枯らしたみたいに。
 若葉のことも……枯らしてしまいかけたんだ。

 悪気はなかったんだよ、って言い訳しながら。
 あたしは知らず知らずのうちに、若葉を傷つけていた。
 まさかエディが、若葉の彼氏になって現れるとは思いもしなかったけど。

「ああ、どっから謝れば――!」
「何を?」
「ぎゃっ!!」
 そこにいたのは、帰ったはずのエディ。

「な、何でそこに……?」
 エディは飄々とした様子で言った。
「僕があのまま黙って帰ると思った?」
「……」

 エディって、こんなキャラだったっけ?
 まさか、怒ってる?
 そりゃそうだよね。
「あ、あの……若葉は?」

 何だろう。
 調子が狂う。
 予想外の展開にテンパって、まともに話せない。

「さあ。泣きながら走って、どこかへ行っちゃったよ。誰かさんのせいで」
「う……」
 笑顔で言われると、余計にこたえる。
「……ごめん、なさい……」
 情けない。
 一番謝りたい相手が、ここにはいないというのに。

「梨歩」
「は、はいっ!」
「謝りたい?」
「へ?」
 彼の意図が読めない。

 十五年ぶりに会ったせいなのか。あたしの知っている人とはまるで別人みたいになっている彼に、間抜けな声を返すのがやっとだった。

「その前に、聞かせてもらおうかな」
 エディはベッドの端に腰を下ろした。
「何があった?」
「え?」
「理由もなく僕らを追い返すなんて、普通ありえないでしょ」
「だ、だからそれは……ごめんって」
 核心に迫ろうとしてくるエディに、ちょっとだけ恐怖を覚える。
 そういえば、あたし、こういうの苦手だ。

「えっと……時系列じゃなくてもいい?」
「いいよ。期待してないから」
「なんかムカつくな」
「それはお互い様だよね」
「うっ……」
 エディって、こんなに刺々しかったっけ?


 無垢だった頃のエディしか知らないから、ギャップがすごくて思考が追いつかない。
 でも、洞察力はすごい。
 全部見透かされているみたいで。
 もう、ごまかしは効かないんだろうな。
 全部話してしまおうか。
 でも。
 それでスッキリするのは、あたしだけだよね。

「……彼氏が、亡くなったの」
「え!」
 やっぱり驚いてる。
 そりゃそうだよね。
 唐突だったかな。

「梨歩、彼氏いたんだ」
「え、そこ?」
「てっきり僕が若葉ちゃんと現れたから、ヤキモチ焼いて拗ねてるんだと思った」
「ぐっ!」
 否定したい。
 なのに、何故か否定できない。
 断片的とはいえ、エディの洞察はエグい。
 でも、ちゃんと言わなきゃ。

「あ、あたし……そんな子どもじゃないし! てか、十五年もすれば彼氏の一人や二人くらいいるわよ!」
「へぇ。二人目の彼氏は?」
「い、いない……けど。もう! 何でそう揚げ足取るかなあ」
「だって、面白いから」
 あれ……?
 本当に、あのエディ?

「エディ、変わったよね?」
「まあね。十五年もすれば、色々あるしね」
 一つしか歳違わないのに。
 何故かすごく大人の余裕があるというか……。
 何かムカつく。

「ところで、梨歩」
「な、何?」
「で、その亡くなった彼氏と何かあった?」
「べ、別に涼ちゃんとは――」
「りょうちゃん、ね」
「あ……」
 やりにくい。
 調子狂うなあ。
 いくら昔の友達だからって、完全に油断してた。

「まあ、つまり。その……あたしより先に逝っちゃうなんて、全然思わなかったから。いつも当たり前みたいにそばにいて、あたしのこと見てくれてたのに。あたしは、涼ちゃんの些細な変化にも気付いてあげられなかったんだと思うと……」
 あたしは、涼ちゃんが描いてくれた似顔絵のキャンバスを手に取った。
「これ、彼が描いたの?」
「うん。美大生でさ。あたし、この繊細な色使いと筆のタッチがすごく好きで。普段はシャイで寡黙なんだけど、絵のことになると人が変わったみたいに饒舌になるの」
 さっきまであたしと最後の会話をしていたとは思えないほど、今は涼ちゃんのことを懐かしく感じる。
 “今”という時間は、ほんの一瞬で過去になってしまうんだ。
 そう思っていたら、エディがあたしを確かめるように訊いた。
「後悔してるの? 彼の変化に気付けなかったこと」
 当たり前じゃん。
 後悔しかないよ。
 何度、後を追いたいと思ったことか。

「あたしのせいで……。あたしが鈍感だったせいで……。涼ちゃん、あたしの前では絶対に弱音吐いたりしなかったから……。あたしが涼ちゃんに甘えすぎてたせいで、涼ちゃんは……辛いのに、あたしに言えなくて……だから――」
 気が付けば、あたしは泣いていた。
 頬を伝った涙が、キャンバスの中で微笑むあたしの上を滑り落ちていく。

「梨歩」
 突然、エディの腕に包まれた。
「え、ちょっ……!」
「かっこいい彼だね」
 不意打ちとはいえ、こんなところ若葉に見られたら……ますますややこしくなるじゃない。
「ねえ、エディ。ダメだよ。離して」
「ああ、ごめん」
 ようやく解放された。
「昔の梨歩のこと思い出してさ。つい」
 子どもの頃の、あたし?
「え、まさかだけど……子どもの頃、今みたいに、その……ギュッてしたの?」
「あれ? 覚えてない?」
 覚えてない!
 覚えてないよ!
「全く……覚えてない」
「まあ、そりゃそうだよね」
「だって、あたし小さかったし」
「僕も同じくらいの歳だったけどね」
「う……何よ。あたしの記憶力がバグってるって言いたいの?」
「まさか。寧ろ正常だよ」
「は? どういうこと?」
 エディはにっこり笑った。

「だって、今のが初だから」
「!?」
 か、からかわれた?

「あ、あたしをからかって楽しい?」
「うん。すごく」
「やなやつ」
「何とでも。ていうか……」
 エディの表情が、ふっと曇った。

「事情はわかったよ。でも、それと若葉ちゃんを泣かせたことは別だからね」
「うっ……」
 返す言葉もない。
 続けて、エディはにっこり笑った。

「僕の大事な若葉ちゃんを泣かせた罪は重いよ」
「ひっ!」
 ヤバい。
 怒ってる……?
 怒らせたらヤバいキャラだった?
 ど、どうしよう。

「そ、それはごめんってば」
「今から梨歩に罰を与えるね」
「ば、罰?」
 罰って、何だろう。
 地味に怖い。


「EDENの楽曲提供、狙ってるんだって?」
「そ、それが何か?」
「一週間以内に一本、詞を書いて」
「え、何で?」
「でなきゃ応募させない。毎日邪魔しに来るから」
「わ、わわわかった!」
 しまった。
 つい「わかった」なんて言っちゃった。
 エディの圧がすごすぎて。

「言ったね?」
「……言いました」
「はい、じゃあ決定。一週間後に取りに来るから」
「ちょ、ちょっと。あたし今回の応募にかけてて。中途半端なものは出したくないから、せめて締め切りまではじっくり熟考したくて……」
「プロなら期限は厳守。できてなくても、時間が来たら問答無用で回収しに来るから。そのつもりでね」
 じゃ、とエディは颯爽と病室を後にした。
「ちょっと、待って! ねえ!」


 いない。
「うう……」
 やられた。
 エディが帰ってほどなくして、あたしは制作途中だった歌詞のノートを開いた。

「一週間……」
 鬼だ。
 エディは神じゃなくて鬼だった。

「でも、言ったからにはもう……やるしかないよね」
 ノートを眺める。
「……」
 それにしても、字が汚い。
「…………」

 読めない。
 情けない。
 恥ずかしい。

 こんなことなら、硬筆の通信講座でも受講しておくんだった。
 もういい。
 こうなったら――。

「キーワードを書き出そう」
 連想法だ。

 まずは。

「夢!」
 その夢を。
「叶える!」
 叶えることを。
「実現!」
 叶うことを。
「奇跡」
「神様」
「おめでたい」
「ありがとう」
 続々出てきた。

 他にないかな。

 今はまだ漠然としすぎていて、輪郭がはっきりしない。
 ストーリー性のある内容にした方がいいのかな。
 でも、あたし創造力そんなにないし。

 今まで日常のしょうもないネタを歌にしてきたから、完全なゼロスタートはハードルが高すぎる。

 身近な人。
 たとえば、友達とか。
 恋人とか。
 それなら書けるかも。
 そうだ。
 若葉といえば――。

「花!」
 花は花でも……。
「薔薇!」
 真っ赤な薔薇は、定番の情熱的なイメージ。
 でも、落ち着いた雰囲気の薔薇もいい感じ。
 パステルカラーとか、淡い色のもの。
 特に真っ白なのは、清純可憐な若葉のイメージにぴったりだ。
 薔薇にしかたとえられなくてごめん、若葉。

「ん?」
 あれ?
 あたし、結局何をテーマに書きたいんだっけ?

 連想で膨らませるのもいいけど、本来の目的を忘れたら元も子もない。
「誰に向けて、何を伝えたいか……もう一度整理しよう」

 あたしにしか書けないもの。
 あたしだから書けるもの。
「うーん……早くも挫折……?」
 ダメだ。
 一週間後には、またあの鬼がやってくる。
 それまでに完成させないと。

「思いつきで薔薇って言っちゃったけど、それ以上の展開が見えないよ~」
 失敗か。

 でも、迷ってる暇はない。
 今はただ、思いつくまま書き出そう。
 絞り出そう。

「薔薇、薔薇……。見たことない、不思議な薔薇とか」
 そういえば、若葉。
 いつだったか忘れたけど、青い薔薇の話をしていたな。
 確か、薔薇には青い色素がなくて、昔は「不可能」の象徴だった。
 でも研究が進んで、ついに青い色素を持つ薔薇の開発に成功して。
 長年の夢が叶ったことで、「不可能を可能に」って意味の、新しい花言葉が生まれた――。
「こ、これだ!」

 作詞の神、降臨!

 あたし、今からすっごいの書けそうな気がする。
「見てなさいよ、エディ。あたし、絶対書き上げてやるわ!」
 一週間と言わず、三日で書き上げてやる。

 モチベーションが上がった今、一気に書き上げる作戦だ。
 集中力が切れると、次はいつ稼働するか保証できないから。
「青い薔薇、青い薔薇……。種類がいっぱいあるな。中でも若葉が一番好きだって言ってたのが……何だっけ?」

 ブルームーン?
 ブルーバユー?
 ブルーチーズ?
 違う違う。
 ブルー何とかって名前だった。
 ブルーシャトー?
 ブルーコメッツ?
 いやいや。
 こんなレトロな響きじゃなくて、ええっと……。
 ブルー、ブルー……。
 ブルーハーツじゃなくて。
 ブルータス。
 雑誌でもなくて。
「へっくしッ!」

 ああ。
 今頃、鬼があたしの噂してるんだ。
「……あ」
 ヘヴンリー。
 そうそう。
 今ので思い出した。

 “ブルーヘヴン”だ!
「別名、セントレア・スカイローズ。中部国際空港の開港記念にちなんで……ねぇ」
 あ、この花。

 岐阜県産って……。
「涼ちゃんの、故郷じゃん」
 何たる偶然。
 いや、ここまで来れば必然か?

 ここに行けば、青い薔薇がいっぱいあるのかな。

 若葉、喜ぶかな。

 今度のローズフェス、すごく楽しみ。
 あたしはどっちかっていうと、EDENが開園記念ライブで素顔を初公開するって話の方が楽しみなんだけど。

 開催地……まさかの岐阜じゃん。
 場所までちゃんと見てなかったわ、あたし。
「ああ、それより詩、詩」
 あたしの渾身の傑作を……。
「う……」
 瞼が重い。
 だめだ。

 今日はもう眠くなってきちゃった。
 せめて、タイトルだけでも。

 ブルーヘヴン……。
「ブルーヘヴン、の……」

 この詩の先に、あたしの夢の答えがあるなら。
 きっと、書き上げるから。

 今は――。

「おや、す……み」

   *

 一週間後。

 鬼――もとい、エディが予定通りやって来た。
「梨歩」
 あ。

「わ、若葉……」
 どうしよう。
 気まずい。
 何て言ったらいいの?
 やだ、どうしよう。
 若葉、こっち来ないで。
 心臓に悪――。

「あ……」
 若葉?
 どうして?

 何で?

 ぎゅって、してくれるの?


「……お帰り」


「ッ!!」
 若葉の、バカ。

 あたし、もう泣かないって決めたばっかなのに。

「頑張ったわね」
「わ、若葉……あ、あたし……」
「うん」
「若葉にひどいこと言った……ごめん」
「もう、いいの」
 若葉。
 本当に、ごめんね。

「……涼ちゃんが、亡くなったの……」
「え……!」
「涼ちゃんのお姉さんから、涼ちゃんの電話で聞いて……。あたし、悲しくて……ショックで発作を起こして倒れて。戻ってきたら若葉とエディが一緒にいて、訳わかんなくて……八つ当たりしちゃったの」
「そう、だったの。それは……辛かったわね」
 もう、涼ちゃんはいない。

「ううん。悲しかったけど、ちゃんとお別れも言えたし。大丈夫。夢の中だったんだけどね。あ……夢かどうかは、はっきりしないけど」
「そっか」
 若葉、本当に優しい。

 悔しいけど、この二人には敵わないや、あたし。
 そうだ。


「エディ」
「ん?」
「これ、あたしの書いた詩」
 ちゃんと約束通り、書いたんだから。

「よくできました。合格」
「え?」
 どゆこと?

 何故か二人は、含みのある笑みを浮かべている。
 何か企んでる?
 気のせいかな。

 でも、気になる。

「え、何? どういうこと? 何でエディが……」
「ああ。代わりに出しといてあげようと思って。まだ外出られないでしょ。僕、今日は暇だから投函してくるよ。だから住所だけここに書いて」
 エディは無地の封筒を差し出してきた。
「え、でも……そんな、悪いし」
「気を遣うのは梨歩らしくないよ」
「はあ? どういう意味よ」
「そのままだけど」
「キイッ!」
 あたしは書き殴るように、封筒へ自宅の住所を記した。

「はい。じゃあ、これでお願いします」
「梨歩」
「何?」
「これ、難読すぎて読めない」
「え? どこが?」
「全部」
 何だと?
 それはつまり、こういうことか。

「……悪かったわね、字が汚くて」
「あ、わかった?」
 エディは、すぐあたしをからかいたがる。
 あたしの知っている昔のエディは、もういない。
「冗談だよ。ギリ読めるから安心して」
「いちいち嫌味なやつ。絶対わざとでしょ」
「エディさん、もうそのくらいにして」
「わかったよ」
 若葉が止めてくれて、ようやくエディは引き下がった。

   *

 エディが帰ったあと、あたしは若葉と二人きりになった。
 少し気まずさは残っていたけど、さっきまでの蟠りはもうほとんど消えていた。
 積もる話もある。
 だから、あたしから話を切り出した。

「そういえば、朝日兄ちゃん。三日前に桃ちゃんと久々に来てくれたんだけどさあ。赤ちゃん授かったんだって。戌の日っていうの? 安産祈願してきたみたいなの。ああ、あたしもいよいよおばちゃんかぁ」
 朝日兄ちゃんは、一年前に婚約していた同い年の幼なじみ――桃ちゃんこと桃葉ちゃんと、先月結婚したばかり。
 この前来てくれたのは、その嬉しい報告のためだった。

「へえ、ダブルでおめでたい話ね。でも、梨歩が叔母さんになるって不思議な感じがするわ」
「でしょ? あたしも年取るわけだわ」
「いや、まだ十代じゃないの」
「ああ、そっか。いくら成人してるとはいえ、あたしまだ十代じゃん。叔母さんじゃなくて、名前呼びさせよっかな? 梨歩姉ちゃんとか。あたし、下にきょうだいいないし」
「私はきょうだい自体いないから、甥っ子や姪っ子は難しいけど……。あ、パパの再婚相手の子が子どもを産んだら、私も叔母さんになるのか」
「え、何? 若葉のお父さん、再婚したの? しかも子どもって……」
 え、何それ。
 聞いてないし。
 あたしが死にかけてた間に、何が起こったの?

「あ、うん。何かややこしいんだけど、私も最近知ったのよ。パパ、十年前に再婚したらしくて。今の奥さんの連れ子と、パパとその奥さんの間に生まれた子がいるんだって」 「十年前……?」
「うん。ママとしては、パパとやり直したかったみたいなんだけどね。私が高校を卒業して、養育費の支払いが終わるタイミングで『大事な話がある』って、パパから初めて聞かされたみたいで。私、パパのことすごく好きだったけど、この時ばかりはびっくりして……嫌いになりそうだったわ」
「そうだったんだ。何か、ごめん。あたしばっか浮かれちゃって」
「いいの。もう済んだことだし。今は寧ろ、スッキリしてるから」
「そっか」
 若葉にも、色々あったんだな。
 辛いのはあたしだけだと思ってた自分が、恥ずかしい。

「詩、届くかな」
「うん。梨歩なら大丈夫」
「いや、エディ。ちゃんと届けてくれるかなって」
「ああ。それは心配しないで。梨歩をからかってるだけだから」
 いつの間にか、ずいぶん距離が近づいていた二人。
 あたしの知らない時間が、確かに存在している。
 それをすぐに受け入れるのは、まだ少し難しいかもしれない。
 それでも。
 ただ一つ、今なら言える。

 若葉が、エディの彼女になってくれてよかった。
 二人には、このままうまくいってほしい。
 心からそう思えるようになるまでには、もう少し時間がかかるかもしれないけど。
 あたしも、もっと精神的に大人になろう。
 きっと、これが本当のスタートなんだ。

 止まっていたあたしの時間が、再び動き出した――。
 そんな気がした。


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