ブルーヘヴンの彼方に

「じゃあ――どうして別れちゃったのよ」
「…………」
 言ってから後悔した。
「ごめん。今のは……」
「いいの」
 ママは、小さく笑った。

 私はパパが大好きだった。

 花の名前も。
 花言葉も。
 育て方も。
 私に教えてくれたのは、いつもパパだった。

 だから私は、花が好きになった。

 一方で、ママは厳しかった。
 幼い頃から勉強のこと、生活のこと、何をするにも細かく口を出された。
 パパとママが喧嘩する時は、決まって私のことだった。

 カーテンの中。
 布団の中。
 押入れの中。

 二人の声が聞こえなくなるのを、耳を塞いで待った夜を覚えている。

 小学校五年生の頃には、勉強の邪魔になるからと、気に入っていた長い髪を首元まで切られた。
 その時、ずっと抑えていたものが初めて爆発した。

「ママなんて大嫌い!」

 あの日から、少しずつ私は変わった。
 ちょうどその頃、梨歩と出会った。

『自己主張は、したもの勝ち』

 梨歩はそう言った。
 今思えば、あの子と出会ったからこそ、私は自分の言葉で「嫌だ」と言えるようになったのかもしれない。

 ママの言うことがすべて正しい。
 良い子でさえいればいい。
 そんなふうに思っていた私は、もういない。

「ごめんね、若葉」
 不意にママが言った。
「ママ、さっきから勝手なことばっかり言ってるわね」
「……知ってる」
「そう……」
 あからさまに落ち込む。
 仕方なく、私は訊いた。
「ねえ。今日ずっとパパの話してるけど……何かあったの?」
 ママが黙る。

「言いたくないなら――」
「再婚、してたんだって」
「え?」
 耳を疑った。
「パパが?」
 ママは頷いた。
「もともと、若葉が高校を卒業するまでは養育費を払うって約束だったの。ずっと一度も滞らなかった。でも、この三月で若葉が卒業したでしょう。それでパパから連絡が来て……」
 そこで初めて告げられたらしい。

「十年前に再婚してたんだって」
 ママが笑う。
 泣いているような笑顔だった。
「そんな大事なこと、もっと早く言ってくれたっていいのにね」
「……大事なことだから、言えなかったんじゃない?」
 口ではそう言いながら、私も動揺していた。
 パパは、別れても私のパパだ。
 当たり前のことなのに、心のどこかではずっと――
 私だけのパパでいてほしかった。
「子どももいるのよ。男の子が二人。一人は今の奥さんの連れ子みたいだけど」
「……弟が二人」
 知らなかった。
 そして正直、知りたくなかった。

 パパは離婚したあとも、養育費だけでなく、私とママの誕生日には花を贈ってくれていた。
 そして毎年、秋になると決まって届く種があった。

 勿忘草(わすれなぐさ)。
 今年もまた、小さな水色の花を咲かせている。

――私を忘れないで。
 ずっと、そういう意味だと思っていた。
 離れていても家族を想っているという、パパなりのメッセージなのだと。

 でも。
 再婚したと知った今では、その花さえ少し違って見える。
 パパにも、もう別の人生がある。
 私たちにも、私たちの人生がある。

「もう、いいじゃない」
 自分自身にも言い聞かせるように、私は言った。
「パパには、今の幸せがあるんだから」
「……でも、何か悔しいわ」
「ダメよ。そんなふうに思ったら」
 ママは昔から、私に何でも教えようとする。
 けれど私はもう、ママが思っているほど子どもじゃない。

 良い子でいることが、生きる術。
 そう信じていた子ども時代は、もう終わる。
 私とママは親子だけれど。
 私の人生と、ママの人生は別のものだ。
 血が繋がっていたって、私の人生は私のもの。
「ママこそ、恋愛した方がいいわ」
「え?」
「もうパパを待たなくていいじゃない」

 きっとママは、ずっと後悔していた。
 勢いで結婚して。
 ぶつかって。
 勢いのまま別れて。
 もしかしたらいつか、またやり直せるかもしれない。
 そんな期待を、心のどこかに残していたのだろう。
 でも、パパにはもう新しい家族がいる。
 過去には戻れない。
 だったら。

「……私がいるわ」
「え?」
「ママには、私がいるじゃない」

 どうか、パパを憎まないで。
 どうか、過去だけを見て生きないで。
 私もきっと、これから自分の人生を歩いていくから。

「……そうね」
 ママは涙を拭って笑った。

「ママには、若葉がいる」
 その笑顔は、さっきより少しだけ軽く見えた。
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