きみが待つ空へ ~敏腕パイロットは命をかけて愛を守る~

1 心に残る人

 シャルトルの駅に、午後の柔らかな陽射しが降り注いでいた。
 フランス、パリから南西へ向かった先にある古都、シャルトル。
 駅のホームからは、褐色の屋根が連なる街並みの向こうに、シャルトル・ブルーと呼ばれる美しいステンドグラスで知られる大聖堂の尖塔が見える。
 世界遺産、シャルトル大聖堂だ。
 ここは、パリの華やかな喧騒とは違う、穏やかな時間が流れる街だ。

 私、香坂美桜(こうさか・みお)は、『東亜(とうあ)ツアーズ』と書かれた小さな旗を掲げた。
「皆様、こちらの電車にお乗りください。パリまで1時間くらいです。お席は自由ですので、お好きな場所にお座りください」
 笑顔で声を掛けながら、ホームに停車した電車に乗り込むお客様の人数を確認していく。
 ついさっきまで大聖堂の荘厳な姿を目のあたりにしていたお客様たちは、感動が冷めやらない様子だった。差し込む光を受けたステンドグラスがどれほど美しかったか、聖堂の中がどれほど神秘的だったか。
 車内へ向かいながら、楽しそうな会話があちこちから聞こえてくる。
 ……よかった。
 お客様の満足が、添乗員である私の最大の喜びだ。
 18名、全員乗車。
 最後のお客様が車内に入ったのを確認し、私も電車に乗り込んだ。
 もう一度、ホームに残っている人がいないことを確かめてから、ようやく肩の力を抜く。
 どうにか、これでパリまで戻れそうだ。
 本来なら、大聖堂の見学を終えた後、貸切バスでパリへ向かう予定だった。
 ところが、出発直前になってバスが故障。急遽、代わりの移動手段を確保しなければならなくなったのだ。
 現地の支店に連絡を取り、鉄道の運行状況を調べ、どうにかパリ行きを手配する。
 予定外の事態に時間を取られたけれど、結果的には大きな遅れもなく移動できそうだった。

 私が東亜ツアーズに入社して、8年になる。
 最初は国内旅行の添乗員として経験を積み、念願だった海外添乗員になってからは、世界各地を訪れてきた。
 海外では、思いがけない問題に直面することもある。
 判断を誤れば、お客様の旅に支障をきたしかねない。
 だからこそ、どんな小さなトラブルにも、気を抜くことはできなかった。
 予想外の事態を乗り越え、お客様が「いろいろあったけれど、楽しかった」と、笑顔で旅を振り返ってくださる。
 それが何より嬉しかった。
 難しい仕事だと思う。
 でも、この仕事が好きだ。
 ただ。
 ひとつだけ悩ましいことがある。
 仕事に夢中になっているうちに、恋人もいないまま、とうとう29歳の誕生日を迎えてしまったのだ。
 さすがに少しは焦ったほうがいいと思ってはいるが……

「香坂さん! どうしましょう!」
 まもなく発車時刻というとき。
 座席に腰を下ろそうとすると、ツアーのお客様が息を切らして駆け寄って来た。
 どうしましたと聞くよりも前に、女性は今にも泣き出しそうな顔で訴えた。
「フリータイムのとき、パスポートの入ったバッグをどこかに置いてきてしまったようなの!」
 一難去って、また一難。
「え」と声が出かかったのを、どうにか飲み込んだ。
 添乗員の動揺は、お客様の不安を煽ってしまう。
「東亜ツアーズのタグが付けてあって、このくらいの茶色い……」
 お客様は両手でバッグの大きさを示した。
 平静を装いながら、必死に対処法を組み立てる。
 ほかのお客様全員をこの電車から降ろすわけにはいかない。
 現地の支店や立ち寄り箇所に連絡し、見つからなければ、警察署への届け出と領事館に再交付の手続きを――。
 口の中がたちまち乾いた。
 どうしよう。帰国は明日なのに。

「東亜ツアーズのかたはいらっしゃいませんか! 東亜ツアーズ!」
 不意に、よく通る日本語が耳に飛び込んできた。
 男性の声だ。
 とっさに窓に飛びついて、声の主を探す。
 ホームへ続く階段を、ひとりの男性が駆け下りて来た。
 長い脚で段を飛ばして走るその手には。
「あ! あれです、私の!」
 背後から、お客様の高い声が上がった。
 間違いない。茶色のバッグだ。
 私は全力で電車の通路を駆けて、ホームへとまろび出た。持っていたツアーの旗を懸命に振る。
「東亜ツアーズです! こっちっ! こ……!? わ、わわっ」
 数回飛び跳ねて居場所を知らせたその刹那、電車の扉が閉じ始めた。
 慌ててまた飛び乗る。
 振り返れば、無情にも目の前で扉が合わさり、ガラス越しにホームが切り取られた。
 男性が扉の前にたどり着いたのは、まさにその直後だった。
 ガラスを一枚隔てた向こうに、長身の男性が立っていた。
 身長は180センチを優に超えている。
 走ってきたせいで漆黒の髪は乱れ、肩は大きく上下していた。
 それでも、切れ長の目でこちらを見つめる視線は驚くほど強い。
 すっと通った鼻筋に、鋭角を描く輪郭が印象的だった。
 咳込みながら息を整えようとする仕草も妙に色気がある。
 一瞬、ぼんやりと見惚れてしまいそうになって、私は首を振った。
 それどころじゃない。
「東亜ツアーズに連絡をお願いします! 電話……電話してください、わかります?」
 私は扉のガラス越しに、左手でバッグについたツアータグを指差しながら、右の手のひらを耳にあて、電話の仕草をしてみせる。
 電車が動き出した。
 彼に意図は伝わったようだ。
 彼は力強く頷くと、緩やかに加速する電車に足並みを合わせた。
 次第に速足になりながら「わ・か・り・ま・し・た」とはっきり口をひらいてくれたのが見て取れた。
 よかった、と息を吐いた瞬間、彼の顔にも笑みが浮かぶ。
 先ほどまでの切迫した表情がほどけ、端正ながらも気取ったところがない笑顔だった。
 男性は、口角を上げたまま少しずつ歩みを緩める。
「あ……」
 私は、ガラスに頬がつくくらいに身を寄せ、後ろへ後ろへと遠ざかっていく彼を目で追った。
 立ち止まった彼は、片手を高く掲げ、大きく振っていた。
 ――大丈夫。心配しないで。
 声は届かなくても、そう伝えようとしてくれているのがわかる。
 電車は速度を上げていく。
 ありがとうを伝えることもできなかった。
 見ず知らずの私たちのために、一生懸命走ってくれた。
 笑って手を振り、安心させようとしてくれた。
 なんていい人なんだろう。
 私は、彼の姿が見えなくなるまで、窓辺を離れることができなかった。

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