きみが待つ空へ ~敏腕パイロットは命をかけて愛を守る~
「拾ってくださったかた……ええっと、佐藤(さとう)さんと仰るかたが、直接宿泊先のホテルまで届けてくださるそうです。20時にホテルのロビーで受け取ってください」
 数時間後、パリ支店からの電話に私は首を傾げた。
「え? 無関係なかたにわざわざホテルまで持ってきていただくということですか。私たちの泊まるホテルまで教えて?」
 思わず聞き返してしまった。
 通常なら現地の係員が彼のところに出向いてバッグを受け取り、私たちのホテルに届けるはずだ。
 拾い主本人に宿泊先を教え、足を運んでもらうなんて聞いたことがない。
 あの男性に悪意があるとは思えない。
 実際、彼が私たちを追いかけ、東亜ツアーズに連絡までしてくれたから、お客様のバッグは無事戻ろうとしている。感謝こそすれ疑う理由はない。
 けれども、今回の対応は妙だ。
 電話の向こうで、パリ支店の社員が声をひそめた。
「東京本社の上層部から連絡があったそうなんです」
「本社から?」
 どうして、そんなところまで話が上がっているのだろう。
 たかが忘れ物、と言ってしまえば語弊があるかもしれない。それがパスポートが入っているバッグとはいえ、添乗員からすれば珍しくもないトラブルのひとつだ。
 普段なら現地の担当者にすべて任されるような案件に、東京本社の上層部が関わるなんて。
 あの男性は何者なのだろう。
「わかりました。では、今夜20時にホテルで受け取ります」
 それ以上尋ねたところで、事情はわからないだろう。
 私はひとまず納得したふりをして通話を終えた。
 夕食を楽しむお客様たちの様子を遠目に確かめながら、今夜の予定を頭の中で組み直す。        
 けれど、いつしか心は仕事の段取りから離れていた。
 ――また、あの人に会える。
 ただ、言えなかったお礼を言いたいだけだと自分に言い聞かせても、私は腕時計に目をやるのを止められなかった。
 
 20時ぴったりに、ホテルの正面玄関の自動扉が開き、夜気と共にあの男性が姿を見せた。
 背が高く、黒髪はさらりとしていて一歩ごとに軽やかに揺れている。
 第一ボタンだけが外されたストライプのシャツに、細身のチャコールグレーのパンツの装いはカジュアルでありながら、上質な仕立てなのは一目でわかった。
 ロビー中央に足早に進み出ると、彼のほうが先に名乗る。
「東亜ツアーズのかたですね。佐藤と申します」
 低めの落ち着いた声音が心地よい。
 歳のころは30代前半だろうか。
「添乗員の香坂です。このたびは、本当にありがとうございました。どうぞ、こちらへ」
 落とし主の女性が待つソファを示し、その向かいに腰をかけた佐藤さんがバッグを差し出しながら中身の確認を促す。
 彼の話では、大聖堂の近くのカフェで、女性がバッグを置いたまま席を立つのを見かけたと言う。すぐに追いかけたものの見失い、もしかしたらと思って駅まで急いでくれたらしい。
 しばらくの間、バッグの中を見ていた女性はやがて頷いた。
「はい。確かに。お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」
「いえいえ、無事に持ち主のかたにお返しできて良かったです」
 彼はそう言って穏やかに笑った。
「ところで、皆さんはどちらを回られてきたのですか」
 私たちに交互に視線を送りつつ、彼は自然に会話を繋いだ。
「日本を発って、ロンドンからパリに入りました。ベルサイユとモンサンミッシェル、ロワールを巡ってきました」
「なかなか盛りだくさんの旅ですね」
 佐藤さんが楽しそうに目を細める。精悍な顔立ちでも笑うと人懐こさが感じられて、親近感が湧く。
「明日の9時ころの東亜の羽田行きで帰る予定です」
 付け加えると、彼はほんの少し目を見開いた……気がした。
 確かめる間もなく、次の瞬間には、整った唇が弧になっている。
「なら、今日パスポートをお届けできて、本当に良かった」
 彼がほっとしたように笑う。
「佐藤さんは、お仕事でフランスに? それとも在住ですか?」
 失礼にならない程度に、今度は私も話題を振ってみた。
「仕事で日本と行き来しています。今日はたまたま休みで」
 日本と海外を行き来する仕事自体は珍しくない。
 ただ、彼のどこか余裕を感じさせるたたずまいや、洗練された身のこなし、品の良い服装が気になった。
 大企業の幹部か、あるいは世界に市場を持つ経営者か。そんな界隈に身を置いているのかもしれない。
 もっとも、どんな人であろうと私には縁のない人なのだが。

 ひとときだけ会話を楽しんだ後に、席を立つ。
 お客様をエレベーターまで見送り、あらためて佐藤さんと向かい合った。
「今日は本当にありがとうございました」
 頭を下げると、頭上から柔らかい声が降ってくる。
「……大変なお仕事ですね。あなたは旅が好き?」
 いくぶん砕けた口調に、私も自然に肩の力が抜けた。
「はい。旅そのものも、添乗の仕事も好きなんです。こんな風にトラブルもありますけど、最後にお客様が楽しかったって言ってくださるのが嬉しくて」
 優しげなまなざしに促されるように、言葉を続ける。
「見たことのないものを見てみたいんです。旅先で見る景色や文化って、いくら見ても、知っても、きりがなくて」
 私は少し照れくさくなって、肩を竦めた。
「なるほど。好奇心が強いかただ」
「あ、でも、自分のためだけじゃないんですよ。お客様にも、また新しい発見をしたい、旅に出たいと思って欲しいなって」
 気が付けば、佐藤さんが目をしばたたかせている。
 しまった。つい熱が入ってしまった。初対面の相手にしゃべりすぎただろうか。
「天職……なのでしょうね」
 口をつぐんだ私に、佐藤さんはどこか感慨深げに言った。
「香坂さんはご自身が楽しむだけでなく、その楽しさをお客様にも届けようとしている。 
その強い思いがあるから、お客様にとっても心に残る旅になるのでしょう」
 思いがけない言葉に、胸が温かくなる。
 自分では当たり前だと思っていたことを、こんな風に受けとめてもらえたことが嬉しかった。
「天職を見つけたあなたの人生は、格段に楽しいものになりそうですね」
 彼は微笑んだ。
「では、明日が早いので私はそろそろ失礼します」
 丁寧に頭を下げる彼を、思わず引き留めそうになる。
 もっと、この人と話をしてみたい。
 せめて連絡先を聞きたいと思っている自分に驚いた。
 私の思いを丁寧に汲み取り大切にしてくれた、穏やかな人。
 彼は、どんな人生を歩んできた人なのだろう。
 今はどんな毎日を送り、何に心を動かされているのだろう。
「あの」
 思わず発してしまった声に、佐藤さんが振り向いた。
 しかし、次の言葉が出てこなかった。
 連絡先を聞いて、どうするつもりなのか。おそらく住む世界が違うだろう彼と、この先どうなろうというのか。
 立ち尽くす私に、佐藤さんが目元を和らげた。
「また、お会いしましょう」
 え? また、会う?
 佐藤さんは、再会が決まっているかのように笑みを浮かべている。
 どうして佐藤さんが直接ホテルまでバッグを届けてくれることになったのか、その理由も聞きそびれた。
 バッグは無事に持ち主の元へ戻った。
 これで一件落着のはずなのに、なぜかすっきりしなかった。
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