ただいまは戦闘開始のゴング
ROUND 1
カチャリ、と玄関の鍵が回る金属音が響く。
カーン――私の中で、甲高いゴングが鳴り響いた。
「ただいまー」
少し上ずった、疲労を言い訳にするための声。靴を脱ぐ動作に、ほんのコンマ数秒のぎこちなさがある。
「おかえりなさい、お疲れさま」
スリッパの音を立てて玄関へ向かう私の足取りは、いつになく軽やかだ。
今夜、私がリングに持ち込んだ武器は、怒りでも涙でもない。ほんの少しだけ調合を変えた、日常の違和感。
まず、エプロン。いつもなら洗いざらしの無地のリネンなのに、今夜は新婚の頃に買ったきり奥にしまい込んでいた、淡いラベンダー色のフリル付き。
そして髪。いつもは無造作に束ねているだけなのに、今日はコテで毛先を巻き、耳元には彼がすっかり忘れているであろう、付き合い始めの記念日にくれた小さなパールのピアスを光らせている。
「コート、預かるね」
至近距離に踏み込み、爪先立ちで彼の首元へ手を伸ばす。
すれ違いざま、彼の襟元から肺の奥へ空気を吸い込んだ。――あぁ、やっぱり。
居酒屋の煙草と脂の匂いで必死に塗りつぶそうとしているけれど、その奥に薄くへばりついている、柑橘系の安っぽい甘さ。オフィスの若い子が好みそうな、軽薄なコロンの匂い。
ふうん、今日はそっち系ね。
心の中のスコアボードに、冷徹に一ポイントを刻む。けれど、私の唇は完璧な弧を描いたままだ。
「……ん? あ、ああ、ありがとう」
彼は視線を泳がせながら、無防備に上着を差し出してくる。
私のラベンダーのエプロンにも、巻いた髪にも、揺れる耳元のパールにも、まるで気づいていない。
本当に、鈍い人。そんなんだから、隙に付け込まれるのよ。
仕事ができる男の顔をして外に出ていくくせに、自分の生活を誰がどんな色で塗り替えているのか、これっぽっちも分かっていない。
変化に気づかないからこそ、私の掌の上で踊らされていることにも気づかない。
「今日はね、あなたの好きな煮込みハンバーグよ。ソースからじっくり作ったの」
優しく微笑みながら、胸ポケットにそっと手を添える。ほら、心拍数が少し上がっている。
ゴクリ……つばを飲み込んだわね。
そんなに期待してるの? それとも……
あなたの動揺も、隠し事の粗さも、全部手に取るようにわかるのよ。
「……早く着替えておいで?」
背中に向けて投げた私の声に、彼の肩が小さく跳ねた。
第1ラウンドは、私の完全なペース配分。