私は返さない  その記号を。
――初めてその男に会った時、一瞬で“怖い”と思った。


深海より暗く深い瞳、

完成されつくした顔の造形、

些細なポーズすら芸術品になってしまう手足、

防衛本能の警戒アラートがこれ以上ないほど響いた。



「まなみ」

部屋に入ってきた男が、私を表す記号を呼んだ。
思考の中に異物が混じってきたという不快感に、走らせていた鉛筆をとめる。

視線だけで返事をすると、床に座り込んでいた私の目線に合わせて腰を下ろした。

ただしゃがんでいるだけなのに、指を合わせているだけなのに、形になってしまう。
男は末永永人(えいと)と名乗っているけれど、本名かどうかすら怪しい。

唯一無二の名前を与えられてもおかしくないのに、意外と普通の名前をしている。
ほぼ左右非対称、僅かにズレているのが“らしい”と思える、不思議な記号(なまえ)。

「今日は何を描いていたんだ?」

発するだけで重厚感のある声で、末永は問う。見せたくないと思っても、それは許されないので、投げやりにスケッチブックを差し出す。

「……ほう、白い薔薇か。折れてしまっているじゃないか」

部屋に飾られている白い薔薇をモチーフにした。
末永から贈られたそれは、枯れてしまっても部屋に置かれていた。不思議に思って調べたら、“生涯を誓う”という意味が込められていたのだと知り、ゾッとした。

――枯れてしまう前に、折れてしまえば良かったのに。

「他に描いたものは?」

首を横に振る。
引き出しに隠してあるスケッチブックの存在は末永も把握していない。あれは私だけのものだから。
絶対にこの男の手には渡さない。

「欲しいものはあるか?」

末永は私に与えるのを好むようだった。それは彼からの手によるもの、その条件付きではあったけれど。

どういう仕組みかは私には不明だけど、外部との連絡は遮断されたスマホを差し出す。
その画面には、高級一等地の小さな画廊の詳細が表示されている。

「これに行きたいのか。……いいだろう、今すぐに行こう」

迷いが一切ない。
隙のないスーツから、仕事の合間に顔を出したと予測できるのに、私が望めばそれを優先させてしまう。

「何を驚いた顔をしている。まなみが望んだことだろう」

急かされるがまま準備をすることになった。
きちんと見えて楽なものがいいということ以外、なんら興味のない私に末永は服を与えたがった。全身見繕われた服を身に纏い、男は腕を差し出してくる。

それに腕を絡めなければ不機嫌になるし、抱き上げてでも歩こうするのは学習済みなので、大人しく従っておく。

どこか満足そうな顔をされるので、胸がざわついた。



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