私は返さない  その記号を。
啓人が帰った後、深夜に末永はやって来た。
襟元を緩めたスーツなので仕事帰りなのだろう。

「気が立ってるな。描けたか?」

睨みつけると、末永の口角がより上がった。
……こういうところが腹が立つ。

「あれ(・・)もたまには役に立つものだ。……うん、素晴らしい。怒りが爆発している」

ねっとりとしたキャラメルみたいな甘さを含んだ声で、先ほどまで挑んでいたキャンバスを眺めている。
見なくてもすべて分かっていますって顔をする。


――末永と初めて会った日を思い出す。
恩師の伝手(ツテ)で、展示即売会の一角に私の絵が飾られていた。

買いたいと言ってくれる人、称賛をくれる人、ほんの少しの高評価。喜びはあるけれど、この頃の私には不安もあった。

最近、筆が乗らない。
どうやら私は感情で描けるタイプのようで、満たされれば満たされるほど普通(・・)になってしまう。
そろそろ限界が見え始めて焦っていた時、末永は目の前に現れた。

冷たい瞳に、一瞬で“怖い”と思った。
防衛本能の警戒アラートが最大値で鳴り響く。

これに近づいては駄目だ。
私が私で無くなってしまう。


この暴力的なまでに美しい男を描きたい。

その衝動に、

芸術品のような男に、白薔薇の茎が手折られる。

そんなイメージが浮かんだ。


その花言葉は、純潔を失って、死を望む。
まるで末永に出会った私みたい。

執拗に何度も、何度も、表現の限界を感じながら描いた。

それを引き出しに隠して、冬が訪れるたびに暖炉へと投げた。まだ見つけられていない。
私の作品全てを手に入れようとするこの男には、絶対に手放してやらない。

「まなみ」と愛しそうに男は今日も記号を口にする。
それをただ見つめるしかできない私。

そうやって一生飼い殺してみてよ。私の衝動の火は灯り続ける。消えないように、消えないように、火を焚べろ。


だって、私が望むものなら何でも差し出すんでしょう?


これは支配じゃない。私から手を伸ばす。
私が私でなくなるために。


ふと目線を上げると、部屋の隅に枯れた白い薔薇が見えた。



――もう、あの頃の純潔は失ってしまった。
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