初恋、のちパパになる―憧れのあなたは母になっていた―
玲の刺傷事件から五ヶ月後。
「終わったね」
「うん。やっと終わった」
「もっと早く離婚に応じていれば、慰謝料増額までされなかったのにね」
「いいよ。もう養育費も含めて一括で払ってもらったし。こちらとしては、しばらく生活には困らないくらいの額だから」
ようやく遙花の離婚が成立した。
調停期間中、「蒼生の親権は渡さない」「俺の両親から孫を取り上げるなんて最低だ」「蒼生はうちの大事な跡継ぎだから、離婚するなら蒼生を置いてお前だけ出て行け」といった発言を電話越しに遙花にしており、遙花はそれらをすべて録音していた。
そして、担当の阿部弁護士を通して「このまま調停がまとまらなければ、訴訟も含めた対応を検討します。これまでの発言も、婚姻関係を継続し難い事情や慰謝料請求を基礎づける資料として提出することになります。刑事事件についても現在起訴されています。これまでの経緯を踏まえれば、仮に親権を争われても、こちらは監護実績や一連の行為を含めて主張立証することになります」と盛大に釘を刺されて怖じ気づいたのか――最終的に離婚に応じた。そして、蒼生の親権者を遙花とすることで話がまとまった。
さらには、慰謝料に加え、将来分の養育費についても双方が合意した金額を一括で支払うことになった。
「先輩、本当にお疲れさま。災難だったね」
「それは玲君もでしょ」
「まあ、色々あったけど。僕としては、先輩や蒼生君と時間を共有できて……これはこれで良かったよ」
「何から何まで、色々と助けてくれてありがとう」
どこか吹っ切れたように、清々しい表情を浮かべる遙花。
玲は、遙花と蒼生のこれからを守れたような気がして、心底安心した。
「先輩、やっと自由になれたね」
「うん」
「これでもう、邪魔者はいなくなった」
「邪魔者って」
「先輩の元旦那」
「言わなくてもわかるよ。あいつ以外いないし」
離婚が成立した直後、遙花のもとに義両親から電話があった。
「私たちが大切に育てるから、蒼生を私たちの養子にしてほしい。お金はいくらでも払う。その子は近藤家の大切な跡取り息子。あなたはまだ若いし、再婚して素敵な家庭を築けばいい」と。
そして、遙花はついに限界突破した。
「犯罪犯すような息子に育てた親が、孫を養子にしたいからよこせ? 笑わせんなよ!」
隣にいた玲が、びくりと肩を揺らす。
「蒼生はモノじゃねーんだよ! 何が跡取りだ! 犯罪者の後を継ぐ意味がわからんわ! そんなに子育てしたいなら、息子の躾からやり直せ! この老害が! 二度とかけてくんな! 次やったら即警察に通報するからな! おととい来やがれ、クソババア!」
通話終了ボタンを押し、すぐさま着信拒否。
その様子を、玲は終始見ていた。
「ムカつく」
遙花はスマホをテーブルの上に置いた。
「蒼生を何だと思ってんの。頭おかしすぎるわ、親子揃って」
「……強いね」
「私、ほんと……何であんなやつと結婚しちゃったんだろう……」
「それは……当時の先輩がそれくらい好きな相手だったからじゃない?」
「結婚って、してみないとわからないとは聞くけど。私の場合は、出産しないと……わからなかった」
「でも、蒼生君を産んだことは?」
「後悔はしていない。むしろ私は、蒼生が男の子で良かったと思っている」
「それは、どうして?」
「蒼生がもし女の子だったら……あいつに『女なんだから』って、もっと好き勝手に人生を決められていたかもしれない。それに……」
「それに?」
「あの親に『嫁に行くまで家のことをしっかりやれ』って、こき使われるようになってたかも」
「なるほど……あの親たちなら、やりかねないな。男尊女卑以前に、人を一人の人間として見ていない気がするし」
「ねえ、玲君」
「何?」
「私もあれから考えたんだけど……」
「うん」
「やっぱり、会うのはもうこれっきりにしよう」
振り切るように、遙花は言った。
玲といた時間。
玲が身を挺して守ってくれた記憶。
玲と過ごした時間のすべてが、遙花の中でも特別になっていた。
だからこそ。
これ以上は、駄目だと思った。
玲はまだ二十三歳だ。
これから仕事をして。
恋をして。
結婚して。
いくらでも、自分の未来を選べる。
そんな玲を。
子どもを抱えた自分の人生に、これ以上巻き込みたくなかった。
「もう充分だよ」
「先輩……?」
「玲君には、もう充分すぎるくらい助けてもらった」
声が震えそうになる。
それでも、笑った。
「だから、ここからは私がやる」
蒼生の母として。
一人の人間として。
自分の人生を、自分で歩く。
そのために。
好きになってしまった人の手を、自分から離す。
それが今の遙花にできる、精一杯の決断だった。
「待って」
「え?」
「僕はまだ、先輩の気持ちを聞いていない」
「それは…」
「僕は、迷惑をかけられたなんて一ミリも思っていないんだけど」
「でも、怪我をさせてしまったし。もし、また同じことが起こったとしたら、今度は命の保証だって……」
「それでも、僕は先輩と――蒼生君とは、もう離れたくない」
「……!」
「先輩も、蒼生君も。僕が守りたい。そばにいたい。迷惑だなんて思わないで、もっと頼ってほしい。それとも、僕のこと、嫌い? むしろ、その方が諦めつく……いや、先輩が僕のこと嫌いでも、今回は引き下がるつもりないから」
「どうして……そこまで」
遙花の決意は、玲に伝えれば伝えるほど揺らぐ。
そして、玲の理屈は、理屈に見えて理屈ではなくなり――いつの間にか、感情論が優位になっている。
弁護士としてではない。
ただの「神城玲」という、一途なまでに恋心全開な青年として。
「好きだから。先輩も、蒼生君も。僕にとっては大事だから。大切にしたいと思ったから。これっきりには、したくない」
「……ありがとう」
遙花の強い決意さえ、玲は容赦なく揺るがしていく。
蒼生のために強い母でいようとする遙花を、隣で支えたい。
一人で歩こうとする彼女に、「一人でなくてもいい」と伝えたい。
玲の覚悟の方が、遙花の決意を上回るほど――揺るぎないものだったから。
「で、先輩の気持ちは?」
「そこは聞くんだ」
「だって、まだ聞いてない」
「意外としつこいのね」
「しつこいよ。しつこくしたくなるくらい……好きになったんだから、仕方ないじゃん」
好きになると一直線。
神城家の血は、形を変えて次世代に受け継がれているようだ。祖父、父、そして玲へ。
「回りくどそうで、結構直球なのね」
「だって、もう待つ必要なくなったから」
「それは、私の離婚が決まったから?」
「そうだよ。本当はすぐにでも離婚してほしかったけど、手続き上色々あるから……まあ待ちきれなくなって……感情が暴走しそうになるのを必死に抑えてたくらい」
「わかった。もう降参します」
「え?」
「すぐには無理だけど、これから少しずつだったら。蒼生もいるし」
「ほんと?」
「うん」
「これからも、会ってくれる?」
「うん」
「やった!」
玲は子どものように喜んだ。
*