世界で一番切ない恋
ーー欠けていく月ーー
学校から帰ると、家の中にはすでに、ただ事ではない重苦しい空気が満ちていた。
私が視力検査の紙を差し出すと、お母さんはそれをもぎ取るようにして見つめ、すぐに鍵を掴んで「病院に行くよ」とだけ言った。
お母さんの運転する車の助手席に座り、近くにある『海眼科』という大きな病院へ、ガタガタと車体に揺られながら向かった。
窓の外を流れる見慣れない街並みは、夕暮れの赤い光に染まっている。それが私の目に映る、最後の穏やかな景色になるとも知らずに。
病院に着くと、待合室の白くて冷たい空気のなか、私は次から次へと色々な検査室へ回された。
見たこともない機械の前に顎を乗せ、何度も強い光を瞳の奥に当てられる。暗い部屋、看護師さんの機械的な指示、静かに響く電子音。
そのすべてが、私の胸のざわつきをどんどん大きくさせていった。
すべての検査をひと通り終わらせて、静まり返った待合室でしばらく待たされたころ。
ピンポン、と無機質なチャイムが鳴り、スピーカーから私の名前が呼ばれた。
『白砂水月さん。一番診察室へお入りください』
看護師さんに案内をされ、重い扉を開ける。
そこに座っていたのは、五十代前半くらいの、白髪の混じった神経質そうな医師だった。
医師はパソコンの画面に映し出された私の眼球のデータを見つめたまま、しばらく沈黙していたが、やがてゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、恐ろしいほどに真剣だった。
「白砂さん、そしてお母様。これから、非常に重要で、重いお話をします。どうか取り乱さずに、しっかりとお聞きください」
医師は一度言葉を切り、机の上で両手を組んだ。
診察室の空気の温度が、一気に数度下がったような気がした。
「率直に、検査結果の事実から申し上げます。白砂水月さんの網膜の細胞は、現在、原因不明の急速な壊死を起こしています。……簡単に言えば、彼女の目は今、光を失うための準備を、すでに終えようとしている状態です」
「え……?」
お母さんの短い悲鳴のような声が、静かな部屋に響いた。
「このままのスピードで病状が進行していきますと、最長でも、あと約『十一ヶ月ほど』で、両目とも完全に光を感知できなくなる可能性が極めて高いです。つまり――失明、ということになります」
え?は?嘘だ。嘘でしょ?そういってよ。
……聞き間違い、かな。
先生、今なんて言ったの?
しつめい、って、あの失明?
目が見えなくなるの……?
嘘、だって、今も先生の顔も、白衣も、こんなにハッキリ見えているのに。
私は、まだ十七歳なのに。
神奈川から引っ越してきたばかりで、これから詩織とたくさん遊びに行くはずだったのに。
恋も、青春も、何一つ、経験したことすらないのに。
頭の芯を、巨大な金槌で思い切り殴られたような衝撃が走る。
じわじわと胃の底からせり上がってくるような、
強烈な吐き気に襲われ、私は自分の膝をすがりつくように強く握りしめた。
「先生、先生ッ! 嘘ですよね?! 娘は、水月は助かりますよね?! 娘の目を……娘の目を、どうか助けてくださいっ!」
隣でお母さんが椅子から転げ落ちるようにして医師の机にすがりつき、狂ったように叫んだ。
崩れるように泣き叫ぶ、お母さんの悲痛な声。
だけど、医師の表情は痛ましいほどに平坦なままだった。
それが余計に、残酷な現実を突きつけてくる。
「……お母様。落ち着いてください。今から、少しでも進行を遅らせるための今後の治療法について説明を――」
ああ。
だめだ、医師の言葉が、私の耳を素通りしていく。
水の中にいるみたいに、ぼやけた音にしか聞こえない。
どうやら私は、あと十一ヶ月で、この世界のすべてが見えなくなるらしい。
そして、今の現代医学の技術では、進行を止める術さえ見つかっていない。
――私は、『不治の病』に罹ってしまったんだ。
私が視力検査の紙を差し出すと、お母さんはそれをもぎ取るようにして見つめ、すぐに鍵を掴んで「病院に行くよ」とだけ言った。
お母さんの運転する車の助手席に座り、近くにある『海眼科』という大きな病院へ、ガタガタと車体に揺られながら向かった。
窓の外を流れる見慣れない街並みは、夕暮れの赤い光に染まっている。それが私の目に映る、最後の穏やかな景色になるとも知らずに。
病院に着くと、待合室の白くて冷たい空気のなか、私は次から次へと色々な検査室へ回された。
見たこともない機械の前に顎を乗せ、何度も強い光を瞳の奥に当てられる。暗い部屋、看護師さんの機械的な指示、静かに響く電子音。
そのすべてが、私の胸のざわつきをどんどん大きくさせていった。
すべての検査をひと通り終わらせて、静まり返った待合室でしばらく待たされたころ。
ピンポン、と無機質なチャイムが鳴り、スピーカーから私の名前が呼ばれた。
『白砂水月さん。一番診察室へお入りください』
看護師さんに案内をされ、重い扉を開ける。
そこに座っていたのは、五十代前半くらいの、白髪の混じった神経質そうな医師だった。
医師はパソコンの画面に映し出された私の眼球のデータを見つめたまま、しばらく沈黙していたが、やがてゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、恐ろしいほどに真剣だった。
「白砂さん、そしてお母様。これから、非常に重要で、重いお話をします。どうか取り乱さずに、しっかりとお聞きください」
医師は一度言葉を切り、机の上で両手を組んだ。
診察室の空気の温度が、一気に数度下がったような気がした。
「率直に、検査結果の事実から申し上げます。白砂水月さんの網膜の細胞は、現在、原因不明の急速な壊死を起こしています。……簡単に言えば、彼女の目は今、光を失うための準備を、すでに終えようとしている状態です」
「え……?」
お母さんの短い悲鳴のような声が、静かな部屋に響いた。
「このままのスピードで病状が進行していきますと、最長でも、あと約『十一ヶ月ほど』で、両目とも完全に光を感知できなくなる可能性が極めて高いです。つまり――失明、ということになります」
え?は?嘘だ。嘘でしょ?そういってよ。
……聞き間違い、かな。
先生、今なんて言ったの?
しつめい、って、あの失明?
目が見えなくなるの……?
嘘、だって、今も先生の顔も、白衣も、こんなにハッキリ見えているのに。
私は、まだ十七歳なのに。
神奈川から引っ越してきたばかりで、これから詩織とたくさん遊びに行くはずだったのに。
恋も、青春も、何一つ、経験したことすらないのに。
頭の芯を、巨大な金槌で思い切り殴られたような衝撃が走る。
じわじわと胃の底からせり上がってくるような、
強烈な吐き気に襲われ、私は自分の膝をすがりつくように強く握りしめた。
「先生、先生ッ! 嘘ですよね?! 娘は、水月は助かりますよね?! 娘の目を……娘の目を、どうか助けてくださいっ!」
隣でお母さんが椅子から転げ落ちるようにして医師の机にすがりつき、狂ったように叫んだ。
崩れるように泣き叫ぶ、お母さんの悲痛な声。
だけど、医師の表情は痛ましいほどに平坦なままだった。
それが余計に、残酷な現実を突きつけてくる。
「……お母様。落ち着いてください。今から、少しでも進行を遅らせるための今後の治療法について説明を――」
ああ。
だめだ、医師の言葉が、私の耳を素通りしていく。
水の中にいるみたいに、ぼやけた音にしか聞こえない。
どうやら私は、あと十一ヶ月で、この世界のすべてが見えなくなるらしい。
そして、今の現代医学の技術では、進行を止める術さえ見つかっていない。
――私は、『不治の病』に罹ってしまったんだ。