我妻教育
「寝かしといてくれなど、誰も頼んでいない」


「そうだけどさぁ〜、啓志郎くん疲れてるっぽかったから…。
疲れてる時に稽古したってムダでしょ〜?」


…ムダ?!


「お腹すいたでしょ?ごはんにしようよ、ね」

そう言うと未礼は、自分の胸元に付着している菓子の食べかすを何気ない仕種で払い落とした。
畳に落ちることを気にもとめず。


「疲れているのは誰のせいだ!」


思わず口をついた声が思いのほか大きかったことに、言ってから気づき、自分でも驚いた。


当然のことながら、未礼も驚いていた。

動きをとめたまま、大きな瞳を見開き、何か不思議な生き物でも見るかのようにじっと私を見つめている。

「…どうしたの急に…」


未礼の肩越しに見える背景に目をやった。
ふすまは開け放たれたままだ。

私の蓄積されたストレスに拍車がかかった。

後から考えると、どうかしていたのだ。


「何度言っても改めようとしない!
ふすまも開けっ放し、物は出しっぱなしだ!」


息つぎがうまくできずに、口がもつれそうになった。

仕方がない。
声を荒げるなど、生まれてはじめてだったのだ。


「生活の主体は、食うこと寝ること!だらけること!
いったい何を考えて生活しているのだ!!」


肩で息をしていた。

そんな私を、微動だにせずに、未礼は、まっすぐ見ていた。

私は思わず目をそらした。


二人の間に沈黙が流れる。


先に未礼が口を開いた。
「…ごめんね」

慈しみのこもった穏やかな口調だった。


「…もうよい」

私は居間を出て自室に戻った。

今日は顔をつき合わせていられないと思ったからだ。




そして、間もなく事件が起こる。



未礼が、いなくなったのだ。




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