落下点《短編》
落下点

目覚めたら、彼はいなかった。

ぼんやりとした視界の中に白い光。


ああ、朝なんだとゆっくりと体を起こす。関節の節々がきしり、と痛んだ。


(…いつの間に、ベッドに運んだんだろう)


部屋の空気は冷えていた。あたし一人の体温では、この室温に保つのでも精一杯なのだ、きっと。

そっと自分の頬に触れる。ザラザラとそこに残る、こびり付いた涙のあと。汚れた水分。

早く顔を洗いにいこうと、ベッドから足を踏み出した時だった。


「…あ、」


思ったよりずいぶん弱っていたらしい。足元がふらついてバランスをくずしたあたしは、慌てて戸棚の取っ手を掴んだ。

反動でバラバラと、しまい込んだばかりのアルバムがこぼれ落ちる。

突然の雨みたいにあたしの頭に降りかかって、あたり一面に散らばる写真。


「いっ…たぁ…」


朝っぱらからどこまでツイてないんだろう。周りにできた少し大きめの水溜まりにため息ひとつ。

そっと目の前の写真に手を伸ばす。そしてふと、その手を止めた。


「────、」



笑っていた。



写真の中のあたしと、彼は、とても幸せそうに笑っていた。無くなるくらいに目を細くした、そっくりな笑顔で。

一枚、一枚、拾い上げる。すぐにでも思い出せる、シャッターの向こうの情景。


…いつからだろう。

いつから、写真を残さなくなったんだろう。


いつから、笑えなくなったんだろう。


写真を握りしめる、指先が震えた。その震えの向こうの感情が、悲しみなのか怒りなのか、やるせなさなのか。あたしには、もうわからない。


笑ったときにできる、目尻のしわとか

照れたときに俯いて、つま先を地面に押し付けるくせとか


全部、全部


…すきで。



涙がこぼれた。もう、残っていないと思ったのに。

ぽつり、ぽつり、ぽつり。今日はきっと雨だ。少し濁った雲が、空にぽっかりと浮いている。


写真の中の彼とあたしは、全部全部、笑っていて。

思い出すのは、どうして綺麗な思い出ばかり。


春には春の。夏には夏の。






…あたしたちの出会いは、秋だった。



     【落下点】
< 1 / 59 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop