皎皎天中月
「どこから話す。長く話すのは苦手だ」
「姐さんはここに籠もっているからな」
 玉兎はからかう。が、恵孝はもう構わない。
 膝を立てて横たわる、菜音のかたちをしたひとをじっと見つめる。青白い光の下で、肌に散る小さなそばかすも、菜音自信には見えない位置にある黒子も、そのままそこにある。
「あなたは、何なんだ。どうして菜音の姿をしているんだ」
 同じ言葉を繰り返した。
 苦しい。
 あの血の海から身体を抱き上げたときの、肌の冷たさが指に蘇る。泣きながらその遺体を清め、死者の服装を着せ、引き裂かれるような思いで弔った。

 菜音のかたちをしたひとも、恵孝のことを見つめ返した。眉を顰めて答える。
「お前が、一番美しいと思っている者の形をしているに過ぎない。だがお前は、そんなに険しい顔をするのだな」
 恵孝の顔が更に歪む。
 そう、この顔かたち。一番美しく、愛しく、何ものにも代えがたいもの。失ったときの慟哭が、悲しみが。泉に蓋をしただけなのだ。蓋を外せば、ただひたすらに溢れてくる。
 菜音を失った悲しみはその時から常に恵孝の全身を覆っているが、今、二度と会えないと思った「菜音」が目の前にいる嬉しさが胸から顔を覗かせている。弔ったのに。どうやら、「菜音」の顔や声をしているだけで、その人そのものではないというのに。

「お前が見せてくれれば、もっとこの者を現すこともできる。私は、醜いことが嫌なのだ。私の基準ではなく、お前にとって美しいものであっても良い」
「見せる、とは」
 女は――玉兎が「姐さん」と呼ぶから女なのだろう――、気怠そうに恵孝に手を伸ばした。恵孝の手に触れる。
「この者はどうやってお前を呼んだのだ。近くにいた、愛しい者なのだろう。例えば、二人して出かけたときに、お前に呼びかけたことを思い出してみろ」
 恵孝。
 菜音の声が頭に蘇る。小間物屋の店先で、杏の意匠の簪を注文したときの。それから街の表通りの店や露店を冷やかしながら、ゆっくりと歩いて帰ったあの夕暮れ。恵孝、恵孝、と嬉しそうに呼びかけるので、頬を緩ませて振り返った。
「恵孝」
 はっとして、恵孝は女の手を払った。
 菜音が、あまりに生々しくそこにある。菜音、と呼び返したくなる。
 でも、確かに。
「僕が、脈が絶えたのを確かめた。身体を清めて、着替えさせた。確かに、僕は、菜音を……菜音と、生まれなかった僕らの子を、弔った」
 呼吸が速くなる。
 弔いの祈祷の香すら蘇っているのに、今目の前に菜音がある。   

 
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