皎皎天中月
 確かにそうだ、と玉兎が合点して呟き、背を向けたかと思うと、仰向けの恵孝の背中と脚の下に太い腕が差し込まれる。
「体を起こすぞ」
 玉兎の助けを借りて、恵孝の上半身が起こされた。背中には壁があるようだが、頭から腰には小ぶりの布団が当てられ、壁にもたれる衝撃を和らげる。恵孝が寝かされていたのは、厚みのある餅のように体を包み込む布団の上だった。家の向かいで布団屋を営む椙角路でさえ、宙に浮かぶような心地のこんな布団は扱っていまい。

「いったい、ここは⋯⋯」
 青白い月明かりが、辺り一面を照らしている。
「池の畔だ」
 玉兎が軽快に答える。
「池の畔に、おれたちは住んでいるんだ」
「私の屋敷にお前が転がり込んでいるだけだろう、この居候が」
 つっけんどんな言い方は、玉兎とは反対側から返ってくる。菜音の声で。
 菜音の姿と声の主は、恵孝の隣に敷かれた同じような布団に横になっている。恵孝は恐る恐るそちらに目を遣った。

 動きやすくて楽だから、と菜音が着ていた、細身の筒状の袴。好んでいた垂れのない袖の上衣。右足を伸ばし、左の膝は立てて、寝転んでいる。先ほどは、腕で上体を支えて、恵孝の顔を覗き込んでいたのだ。枕の上に広がる下げ髪、出会った幼い頃から変わらない瞳、二度と開くことはなくなったはずの双眸を見せている。その姿かたち。

「あなたは、何なんだ」
 ここが死後の世界でないとすれば、どうして菜音がここにいるのだ。
「姐さんは、」
「玉兎、僕はこのひとに訊いているんだ」
 兎の姿の玉兎が、恵孝の布団の上で説明しようとするのを制した。
「教えてほしい。あなたは、何なんだ。なぜ、菜音の姿をしているんだ」
 声が震える。胸から喉、目の裏へと、熱いものがこみ上げていく。
 腕を伸ばせば届くところに、菜音がいる。頭の中がぐらぐらする。

 菜音のかたちをした「姐さん」は、横になったまま恵孝を見据えた。
「山はお前がここまで来るのを認めたのだから、私もお前を認めよう。この格好なのは仕方がない。話しにくいので、こちらへ来い」
「僕は足首を折って⋯⋯」
 そう答えて、恵孝ははっと気付いた。日常ではあり得ない向きに足が曲がっているのを確かに見た。意識を失うほどに痛かった。そのはずなのに。
 自分の足を見る。
 痛みは全くない。足も、本来の向きをしている。その足は脚絆を巻いた旅装束のままではあるが、家を出た時のように全く汚れていない。
 恵孝は布団から出た。立ち上がる。立ち上がれる。やはり痛みはない。歩ける。
「説明はする。早く。聞くなら来い」
 菜音の声が急かす。恵孝は隣の布団の傍らへ行き、腰を下ろした。
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