契約の恋愛
仏頂面のくせに心臓はばかみたいに打っていた。

微かに息が上がる。

あの男に腕をつかまれた瞬間、忘れかけていた記憶を全部思い出してしまった。
それが璃雨の体全体を締め付けていた。

人気のない所で、静かに立ち止まる。

…ばかみたい。

死ぬことは怖くないのに、こんな事で恐怖するなんて。
情けない。

情けなくて、声も出ない。
「…璃雨。」

紀琉の心配そうな声が、静けさを保つ廊下をつきぬけた。
紀琉を掴む手を、ゆっくり離す。
心を落ち着かす為、少しの間瞳を閉じた。

頭に浮かぶのは、優瑠の不敵な笑み。

……。

「璃雨。」

私は紀琉の問いかけを無視して、真ん前の階段に腰かけた。
静かにバックをあさって、妹さんの服を取り出す。

「ん。これ、ありがとう。」
出来るだけ暗くならないように声のトーンを上げた。
紀琉は黙ったまま、渋々それを受け取る。

……。

しばらく続く沈黙。お互い何から喋っていいやら分からないのだろう。

付き合いたてのカップルとは違う、微妙な空気。

それを破ったのは、案の定紀琉だった。

「…璃雨。さっきの人…。」
「うん。璃雨の元彼。」

あっさりと返す。
胸の鼓動はいつまでたってもやまない。
動揺を隠すだけで、璃雨は精一杯だった。

「…元彼。ですか…。でも、少し手荒くなかったですか?」

…少しじゃなくて大分だよ。
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