切恋バスタイム(短編集)
●あかねの君
 まるで、高貴な香りすら漂っているよう。彼女のことは、遠目からでも見つけられてしまう。以前会った時はマフラーだったのだが、一昨日は薄手のカーディガンに変わっていた。その誇り高きラベンダーのような色は、どうやら彼女のお気に入りらしい。

 会社では重役に就いており、美しい妻と可愛い3歳の娘が居て、何一つ不満はない筈だった。それなのに、どうしてだか、たまに無性に何処かへ逃げ出したくなる。そんな時に出会ったのが、受付嬢として働いている彼女・柳沼紅音(やぎぬま あかね)だった。

 いつもラベンダー色のスカーフを首に巻いて、決して派手ではない顔に、似合いの薄化粧と控えめな笑顔を浮かべて、カウンターに腰かけている彼女。スラリと伸びた背筋や、手入れの行き届いた髪。優しい言葉がけや柔らかな物腰に惹かれたのは、何も俺だけではなかったらしい。何処かの社長や熱心な営業マンに過剰なアプローチをされて苦笑いする彼女を見るのは、一度や二度ではなかった。



「そういや俊吾、知ってるか?」

「何のことだ?」

「近々、入口の警備員を増員するって話。受付の子達、最近困ってるらしいぜ。
特に、柳沼さん?あの子、飛び抜けて美人って訳じゃないけど人気あるよな。よく気が付くし、知らない内に男に気ぃ持たせてんのかもなぁ。
あぁ、これ、販促の山田ちゃんが言ってたんだけどさ。結婚してるのに、迷惑してんだろうなぁ。」



 デスクで一息ついている時、隣から、同僚の宮崎丈一郎が話しかけてきた。そうなのか、彼女はそんなに困っているのか。今度また、食事にでも誘ってやろう。そう思った時、家族を何処かに連れていってやることよりも彼女のことを気にかけてしまうことを、いつしか認めてしまっている自分に気が付いた。
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