世界の灰色の部分
仕事が終わり、わたしはケンくんのアパートへ向かう。
今日は行くって言ってなかったけど、先生からもらったお花を生けさせてほしかった。わたしが持ち帰って、家族に怪しまれるとまずいから。

「ケンくん、開けてー」
店を出るときにケータイが繋がらなかったから、直接行って、彼の部屋の扉をどんどん叩いた。
しばらくすると、眠っていたのであろうケンくんは、目をしばしばさせながら出てきた。
「…なんだよ、お前、今日来るとか聞いてねぇし」
「ごめん」
わたしが謝ると、ケンくんは無言のまま、部屋の奥へと戻って行った。わたしも玄関の扉を閉めついてゆく。
てっきり寝直すのかと思ったが、ケンくんはちゃぶ台の脇に座って、たばこに火をつけた。
わたしも横に座る。
「お花、生けてもいい?」
「どうしたんだよ」
「客がくれたの」
「はぁ、何それ。俺への当てつけ?」
寝ているところを起こされたケンくんは、明らかに機嫌が悪かった。
「違うよ。そんなんじゃない」
「じゃあいちいち俺んち持ってくんなよ。何がしたいの?お前」
「…そうだね、ごめん」
たばこの煙が、ゆらゆら電気の下で揺れていた。
こんな夜中に突然押し掛けて、イライラされるのなんて当たり前だ。以前にもこういう形で怒られたことはあるし、ケンカになったこともある。だけど、そういうの繰り返してケンくんは、わたしの彼氏でいてくれている。
「…ねぇ、ケンくん。合鍵が欲しい」
「え?」
「ケンくんの部屋の、合鍵が欲しいよ。そうすれば、こんなふうに夜起こさなくてすむし、ケンくんが忙しくて家にいないときに来て、掃除したりごはん持ってきてあげといたりできる」
「…」
ケンくんは少し沈黙して、それから短くなったたばこを灰皿代わりのアルミ缶のふちに押し付けた。
「いいよ、そんなんしなくて」
わたしは何も言えなくなった。
「…わかった」

ケンくんのアパートを出て、家に帰るまでの道すがら、わたしはごみ捨て場に先生からもらった花束を棄てた。
< 31 / 80 >

この作品をシェア

pagetop