馬上の姫君
第五章 与志摩の回想
 天文十一年、甲賀に侵攻した北畠は六角に敗北して、和議を求めた。調停は、将軍家が直の扱いで介入することになり、御上使として政所代蜷川親俊が伊勢に差し遣わされた。その結果、北伊勢二郡を六角に割譲することと、定頼の次女、松姫が具教に輿入れすることの条件で和議が成立した。
 松姫が具教に嫁ぐ日、定頼は愛する我が娘に、心の籠もった嫁入り道具の数々を持たせたが、そのなかの一つが万葉百人一首歌留多であった。この歌留多は絵を幕府絵所預土佐光茂が描き、書は御家流の能書家尊鎮法親王の手になるもので、将軍義晴が近衛尚道の娘と桑実寺で挙式したとき、婚礼の労をとった定頼に記念として贈ったものである。定頼は年賀に姫たちを集めて、歌留多にうち興じたが、そのころから松姫は自分の婚礼の引き出物として、螺鈿の貝をまき散らした美しい漆箱とその中に込められた万葉百人一首歌留多を所望していた。
 それまで敵国として対立していて、行ったこともない山深い多気霧山城に嫁ぐことになった十五歳の松姫は、父定頼から贈られた万葉百人一首歌留多をしっかりと胸に抱きしめて、二十歳の女佐の臣・佐々木与志摩や同年の山路弾正胤常に伴われて観音寺城を発って行った。それは、天文十二年三月のことである。
 義賢(後出家して承禎)は、その日の妹松姫の健気で初々しい白無垢姿を今も鮮明にこころに留めている。
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